第一話 鎚の音がする街
十日ほど、歩いた。
乗合馬車に乗れた日が三日、あとは自分の足だった。街道は乾いて白く、道の両脇の山肌は上から順に色を変えていた。日はまだ高いのに、吹き下ろしてくる風だけが冷たく通り過ぎていく。
その道が最後の丘を越えたところで、それは見えた。
谷を埋めるように立ち並ぶ建物、それを囲う城壁、そこにある無骨な街に、シンは足を止め、目を奪われた。
石造りの家々が斜面に段を成し、その頂きに黒い煙突が幾本も立って、細い煙をまっすぐに上げている。街を囲う壁は、石ではなく鉄で縁取られている。中でもひときわ目立つのが門だ。
見上げるだけでは足りず、シンは一歩下がった。それでもまだ足りない。両開きの鉄扉は、片側だけで宿屋の壁ほどもある。表面には、槌と山を組み合わせた紋が打ち出されていた。錆が一つもない。誰かが毎日磨いているのだ、と分かる磨かれ方だった。
「でっけぇ……」
地面が、鳴っていた。
音ではない。足の裏から、規則正しい震えが伝わってくる。とん、とん、とん、と、街のどこか奥のほうで、何かがずっと打たれ続けている。
「鎚や」
オタキラーが、フードを押し上げて言った。
「炉が動いとる音や。これだけ地面に来るっちゅうことは、一つや二つとちゃうで」
「すごい街だな……」
「シン。喜ぶんは後や。はよ、列に並び」
◇
門の前には、二十人ばかりの列ができていた。
壁の影が門前をすっぽりと覆っていて、そこへ入った途端、シンの首筋がひやりとした。街道で汗ばんでいた背中が、みるみる冷えていく。
列はなかなか進まず、暇を持て余したシンが何度か爪先立ちになって前を見ては、何か言い、それをドレッシングとオタキラーが諌める。そんなことを何度か繰り返す頃にようやく、六人の順番が回ってきた。
門番は二人。どちらもドワーフだった。シンの胸のあたりに頭がある背丈で、そのぶん横幅があり、腕は丸太のようだった。片方が机の紙束を捌き、片方が通行人の顔と紙を見比べている。
紙を捌くほうは、こちらの列を一度も見ずに、前の商隊の荷札を数え、判を押し、別の紙を引き寄せ、また数える。乾いた紙の音が、繰り返し繰り返し続いた。
「旅券」
「はい!」
シンは懐から折り目のついた紙を出し、それから、もう一枚を添えた。
そちらは、まだ新しかった。印の朱も鮮やかなままだ。
門番は一枚目を受け取り、日にかざした。目を細める。職業欄を指でなぞる。
「騎士」
「はい」
「ローエンガルドの。役所の判だな」
「はい」
次に、二枚目が取られた。
シンの背筋が、勝手に伸びた。
門番は、それを机の上へ置いた。傍らの帳面を引き寄せ、頁を三枚ほど繰り、指を止め、また戻す。何かを照らし合わせている。
「……あった」
言って、紙をシンへ返す。
それだけだった。
シンはしばらく、差し出された紙を受け取れずにいた。
「あ、あの」
「なんだ」
「それ、選別を通った証で。国が、その、勇者候補として登録してくれた——」
「知ってる」
門番は手を止めなかった。もう次の紙を引き寄せている。
「よその国のな」
「……はい」
シンは、紙を受け取った。
褒められなかった。疑われもしなかった。何一つ、起きなかった。
「通っていいぞ。次」
「あの! 俺たち、地下の穴に潜りたくて来たんです。勇者になるために、武具と、経験と、その、路銀も要るので」
「そうか」
門番は顔も上げなかった。
「気をつけろ。あそこで死ぬやつは、だいたい張り切ってる奴らだ」
◇
次に紙を出したのは、オタキラーだった。
その紙はシンのものとは違い、厚く、判が三つほど押してある。
「宮廷付き」
「そうや」
「ローエンガルドの官吏か。……通れ」
早かった。
「ちょっと待ってよ。なんで俺だけ」
その次で、列が止まった。
ドレッシングの紙を、門番が両手で持ち直していた。日にかざす。もう一度、職業欄を見る。
「盗賊、と書いてあるな」
「そうだけどさぁ。書けって言われたから書いたんだよ。正直に」
「正直なのは結構だ」
門番は紙を机へ置いた。置いた手が、そのまま紙の上に乗っていた。
「うちは鉱山だ。足元に鉱石と、王国の頃の遺物が眠ってる。その門に、盗賊が立ってるわけだ」
「いや、そういう意味の盗賊じゃなくてね? こう、罠を外したり、鍵を——」
「ギルド証は」
「……は?」
「冒険者ギルドの登録証だ。持ってるか」
ドレッシングの口が、半分開いたまま止まった。
「登録した盗賊は職だ。うちの街でも大勢働いてる」
門番は、初めてドレッシングの顔を正面から見た。
「登録してない盗賊は、ただの泥棒と区別がつかん」
「……なるほどねぇ」
脇へ寄らされたドレッシングと入れ替わりに、アミアンが前へ出た。
彼女が出したのは、紙ではない。
掌に収まる、金属のギルド証だった。表に、等級を示す刻みが三つ。門番はそれを一瞥し、裏返し、指の腹で刻印を擦った。
「三等」
「ええ」
「通れ」
それで終わりだった。
脇に立たされたままのドレッシングの前を、アミアンは何も言わずに通り抜けた。すれ違うとき、灰色の目が、彼女の背中を追った。追って、逸らした。
◇
最後の二人で、また止まった。
シーザーが差し出した紙は、他のどれとも違っていた。縁に飾りの刷り込みがあり、押された判は、剣ではなく麦の穂の形をしている。
門番が、それを裏返した。
「……教会の発行だな。ヘイムダルムの」
「そうだ」
「うちは西方教会を通して照会する決まりだ。三十分ほど待て。あっちの日陰でな」
「承知した」
「兄さん」
「構わん。手続きだ」
シンは、その紙を見ていた。
教会の紙だった。国の判ではない。
——国王陛下より直々のご下命を賜り、旅をしている。
最初に会った日、この男はよどみのない声で、そう言った。
シンの視線が、紙からシーザーの横顔へ移る。
何も言わなかった。言おうとも思わなかった。ただ、目が動いた。それだけだ。
◇
待つあいだに、担架が二つ、門を抜けて入ってきた。
外から来たのではない。街の内側から、門の脇の詰所へ運ばれていくところだ。
最初の担架には、覆いがかけられていない。
太股から下が赤黒く濡れ、布を巻いた上からもう一度巻き直してある。その二度目の布も、すでに色が変わっていた。
シンは、そこから目が離せなくなった。
布から染み出す赤いそれは、乾いておらず、まだ、光っている。
運ばれていく男は、若かった。何もない空を睨み、歯を食いしばって声を噛み殺している。それが、かえって耳に残った。
「……あの人、どこで」
「下や」
オタキラーが、地面を指した。
「鎚の音が、こっちの音や。血のほうは、そっちから上がってきた音や」
◇
三十分後、六人はまとめて門を抜けた。
街の中は、外よりも暖かい。
どこかで炉が焚かれているのだ。石畳が乾いていて、路地の奥から熱気が細く流れてくる。鉄の匂いと薬草を煮る匂いが混ざりあい、独特の空気感をだしていた。
市場は、門から入ってすぐの広場にあった。
鉱石を秤に載せている店。革を裁っている店。折れた剣を束にして並べている店。買い手のほとんどが武装していて、そのうち何人かは、包帯を巻いている。
シンは、そのすべてを見ようとして首を回した。
「あー、あそこ! あの看板、金物屋かな。……なあ、この街、潜れる穴はどっちなんだ?」
「聞いてみたらええやろ」
シンは近くの、乾いた果実を並べた露店へ足を向け、商品を整えている人族の男に話しかけた。
「すみません、潜れる穴はどちらですか」
「穴?」
男は顔も上げずに、袋の口を縛った。
「黒鉄大迷坑なら、そこの坂を下って、下って、突き当たり。看板なんぞ要らんよ。人が吸い込まれてく穴があるから」
「ありがとうございます! 俺たち、勇者候補で、これから——」
「へえ」
男は、そこで初めて顔を上げた。
上げて、シンの腰の剣を見て、それから、隣を通り過ぎていく担架の列を見た。
「勇者候補ねえ」
悪意は、なかった。
嫌味を言う顔でもなかった。天気の話をするときと同じ、少しだけ気の毒そうな、それだけの顔だった。
「冒険者のほうが、まだ信用できるよ」
男はそう言って、また袋を縛りはじめた。
シンの足が、止まる。
半歩ぶんだけ。すぐにまた動き出したので、誰も気づかなかったかもしれない。ただ、腰の後ろで、彼の右手が一度だけ拳を握り直した。
◇
宿を取り、荷を置き、日が傾いてから、坂を上がって酒場へ入った。
安酒場だ。卓は樽の上に板を渡しただけ、椅子の高さが二種類あるのはこの街特有なのだろう。低いほうにドワーフが座り、高いほうに人族が座る。それだけの工夫で、店の中の背丈が揃っていた。
「——だから言ってんだろ、王様は宝を持って逃げたんだよ」
隣の卓が、賑やかだった。
「馬鹿。宝は王都に残ってる。だから竜が居座ってんだ」
「竜が抱いて寝てるんだよ、あれは。宝の上でな」
人族の男たちが、手にした杯を呷りながら語り合っている。三人とも顔がかなり赤い。
「三年前の奪還隊、門まで行ったって話だぜ」
「門? 城壁も越えられちゃいねぇよ」
シンは、耳を傾けていた。
「なあ、王都って」
「ヴェルグヘイムだ」
答えたのは、隣の低い椅子に座っていたドワーフだった。
白い髭を短く刈った、年配の男だった。手元の杯を見たまま、それだけ言った。
「ドワーフの王都だったところだ」
「だった、って」
「そうだ。……あそこには竜がいる」
男は杯を空けた。
「今もな」
それきり、男は何も言わない。
卓の向こうで、もう一人のドワーフが立ち上がり、勘定を置いて出ていった。賑やかな人族の卓は、まだ王様と宝の話をしている。
シンは、聞いてはいけないことを聞いたのかもしれない、と思った。だがそれを確かめる言葉を持たなかった。
「……そういや」
その騒がしさの隅で、別の話し声が耳に入った。
「東のほうでさ、廃教会から妙なもんが流れてきたって聞いたぜ」
「妙なもん?」
「知らねぇよ。書物だとか、道具だとか。買った奴が随分な値をつけたって」
「東ってどこの東だ」
「知らねぇって」
「東っつやあ、あれだろ。また教団が――」
「よせ。飯がまずくなる」
話は、それきり別の噂へ移っていく。
オタキラーの手が、杯の縁で止まっていた。
止まって、それから何事もなかったように振る舞う。ドレッシングはただ何も言わず酒を飲んでいた。
◇
外へ出ると、坂の下のほうで、人の集まる気配がした。
担架が今度は四つ、坂を上ってくる列の前後に、十人ばかりが付き添っている。武装した男女が入り混じり、誰もが煤と泥にまみれていた。
六人は道の端へ寄り、担架が通る道を開ける。
担架を担ぐ者の足並みが揃っておらず、後ろの一つが遅れ、そこだけ渋滞ができかけている。誰かが早口で何かを言い、別の誰かが言い返した。
「——おい」
列の脇から出てきた年配のドワーフの低い声が、その全部を止めた。
分厚い革の胴当てに、擦り切れた背負い袋。片手に短い鶴嘴を提げている。歩き方に急ぐ様子はなく、それなのに、いつのまにか列の真ん中に立っていた。
「その担架、坂を横に切って上がれ。真上へ上げるな。血が下がる」
誰かが、はい、と答えた。
「三つ目、脚だな。足のほうを高くしろ。今すぐだ」
「はい」
「詰所に伝令。二人ぶん、寝台を空けさせろ。走れ」
一人が駆け出していった。
それだけである。
男は三言で列を組み直すと、自分は先頭にも後尾にも立たず、遅れがちな担架の脇へついた。誰も彼を呼ばず、誰も彼に名を尋ねない。全員が知っているのだ、という当たり前さで、列は坂を上がっていった。
シンは、それを見送る。
鎚の音は、まだ地面から伝わり続けていた。




