第五話 背中は、預けた
最初に動いたのは、シンだった。
考えてのことではない。背後にアンリがいる。ただそれだけの理由で、体が勝手に前へ出た。剣を構え、肉塊を正面から睨みつけ——
睨んだのが、間違いだった。
無数の眼のうちの一つと、目が合う。
瞬間、体が石になった。
指が動かない。膝が動かない。声も出ない。恐怖で竦んだのではない。竦むという実感すらないまま、体の側だけが縛り上げられていた。眼はまだこちらを見ている。濁った、感情のない、大きな瞳孔がゆっくりと開いて——
「目を合わせるな!」
横から腕を掴まれ、力任せに引き倒された。
石の床に転がった途端、縛めが解けた。どっと汗が噴き出す。呼吸を忘れていたことに、吸ってから気づいた。
「げほっ、な、なんだ今の……体が……」
「見据えられた者から止まるのよ」
引き倒した当人——アミアンは、もう肉塊から視線を外していた。正面からではなく、視界の端だけで捉えている。
「眼を、断つ。それが鍵ね」
言うが早いか、彼女は駆けた。
「アミアンさん!?」
止める間もなかった。銀の髪が壁際を低く滑り、灯りの光の外へ抜け、闇の中で一度だけ跳ねた。レイピアの切っ先が肉塊の横腹へ吸い込まれ——
浅い。
濡れた表皮が波打ち、刃を受けた場所ごと、ぐにゃりと窪んで逃げた。同時に、面じゅうの眼が一斉にそちらを向く。数十の瞳孔が、たった一人の上で束ねられる。
アミアンの体が、目に見えて重くなった。
跳び退る。着地が乱れる。二歩、三歩と下がって、灯りの内へ戻ってきた彼女の額に、汗が浮いていた。剣を握った右腕が、小さく痺れたように震えている。
「……一人では、無理ね」
悔しさを噛むふうもなく、彼女は言った。ただの事実を述べる声だった。それがかえって、六人の背筋を冷やした。
この場で一番強い者が、一番先に、無理だと言った。
「なら、どうする」
シーザーの問いに、アミアンは即答した。
「六人で通すのよ。——シーザー、前衛頼める?」
「無論」
「あなたの盾で正面の眼を塞いで、道を作って。オタキラー、灯りを高く。手元じゃなく、あれの面を照らして。アンリ——」
「は、はいっ」
「後ろで支援をお願い。心を守る術はある?」
「あります!」
「ドレッシングは私と両脇。嫌な眼から潰すわよ」
「……で、俺は!?」
シンが叫んだ。アミアンの淡い翠の目が、初めてまっすぐシンを見た。
「あなたは最後」
「最後!?」
「一番いい役よ。それまで、死なないこと」
肉塊が、進んでくる。壁を撫でる音が、一段近くなった。
「オタキラー。切り札は、あるの?」
アミアンの問いに、オタキラーは一拍黙った。
「……あるにはある」
「なら、私の合図まで抱えていなさい」
「言われんでも、そのつもりや」
◇
シーザーが、前へ出た。
大盾が構えられ、鋼の縁が石の床を噛む。彼はその陰で一度だけ目を閉じ、何かを唱えた。
低く、短い祈りだった。言葉は聞き取れない。
盾の表面に、淡い光が灯った。
夜明け前の空色に似た、頼りない、けれど確かな光だった。光の膜が盾を覆い、その縁をわずかに越えて広がる。
肉塊の眼が、いくつも束になってシーザーを見据えた。
鋼の向こうで、彼の膝が撓む。だが、止まらなかった。光の膜が視線を受け、油に水を弾くように滑らせている。
「——効いている!」
シーザーが吠えた。
「だが、長くは保たん! 保たせているあいだに、決めろ!」
「アンリ!」
アミアンの声に、最後方で杖が鳴った。
「大地の神よ、どうか、皆様の心をお守りください——」
祈りの声が、詠唱に変わる。
「——〘加護詞〙!」
温かいものが、頭のてっぺんから足の先へ通り抜けた。
途端、視界の隅で揺れていた《おかしなもの》が薄れた。さっきから、通路の壁が波打って見えたり、床が傾いで見えたりしていたのだ。あれも眼の仕業だったのかと、消えてから分かった。
「やっと本職が来たわ」
オタキラーが軽口を叩き、灯りの球をさらに高く掲げた。白い光が肉塊の面を舐め、無数の眼の位置を、影ごと浮かび上がらせる。
「進むぞ!」
シーザーが、道を作りはじめた。
◇
それは、じりじりとした前進だった。
シーザーの盾が正面の視線を受け止め、その陰に隊列が続く。肉塊は退かない。通路いっぱいに膨らんだまま、こちらの前進のぶんだけ、圧をかけて押し返してくる。
眼は、賢かった。
正面が塞がれると、面の端の眼が壁際へ回り込むように蠢き、盾の脇から隊列を覗こうとする。
「右! 上から三つ目!」
アミアンの号令が飛ぶたび、銀の閃きがそこにあった。壁を蹴り、盾の縁すれすれを抜け、レイピアの刺突が眼を一つずつ閉じさせていく。閉じた眼の痕は黒く煤け、二度と開かなかった。
「左のあれ、嫌な色ね——ドレッシング!」
「見えてる」
ドレッシングは盾の陰から半身を晒し、腕を振った。
三本のナイフが、扇の形に闇を裂く。
甲高い音は、しなかった。代わりに、ぐ、と柔らかいものへ刃の沈む音が三つ。狙われた青白い眼が、三本まとめて突き立てられたまま、ゆっくりと閉じていった。
「……さっきは、これを弾いた奴がいたんだよなぁ」
口の端で笑ってはいたが、その額は汗で濡れていた。半身を晒すたび、どれかの眼と目が合う。合うたびに、指の先が一瞬遅れる。魔法の加護も、聖なる光も、彼自身には何の足しにもならない。技術と、度胸。持っているのはそれだけだった。
それだけで、彼は何度でも陰から出た。
「シン様、お下がりください! まだです!」
「分かってる! 分かってるけど!」
シンは剣を握りしめたまま、盾の後ろで足踏みをしていた。目の前で皆が戦っている。自分だけが、まだ何もしていない。飛び出したい衝動が、喉元まで何度もせり上がる。
——あなたは最後。一番いい役よ。
奥歯を噛んで、シンは待った。生まれて初めてというくらい、真剣に、待った。
◇
異変は、盾の上で起きた。
淡い光が、ふ、と薄くなった。
「……ぬ、う……」
シーザーの膝が落ちた。片膝が石を突き、大盾がぐらりと傾ぐ。
「兄さん!?」
「来るな……! 何でも、ない……」
何でもなくは、なかった。兜の下の顔から血の気が抜け、目の焦点が揺れている。見れば、盾の縁の上——防ぎきれない高みから、ひときわ大きな灰色の眼が、じっとシーザーを見下ろしていた。
その眼が見ているあいだ、彼の体から、何かが吸い出されていた。熱とも力ともつかないものが、細くたなびいて眼のほうへ流れている。
「生気を吸うとる! あの灰色や!」
「兄さん!」
アンリが、駆け出した。
最後方から、隊列の脇を抜けて、まっすぐ兄のもとへ。フードが脱げ、亜麻色の髪が躍った。
「アンリ、来るなと——」
「嫌です!」
彼女は兄の隣に膝をつき、杖を握り直した。その無防備な横顔へ、別の眼が、ゆっくりと瞳孔を開いていく——
ぐしゅ、と音がした。
開きかけた眼の真ん中に、ナイフの柄が生えていた。
「——前見て祈れって、教わんなかった?」
ドレッシングが、次のナイフを指の間で回していた。
アンリは一瞬だけ目を見開き、それから、深くうなずいた。両手が兄の背に当てられ、祈りが詠唱へ変わる。
「——〘癒手〙!」
柔らかな光が、鋼の鎧の継ぎ目へ染み込んでいった。
シーザーの背が、大きく息を吸って持ち上がる。片膝が起き、盾が持ち直され、淡い光の膜が、もう一度だけ張り直された。
「……すまん。——保たせる!」
「けど、次はないわね」
アミアンが着地しざまに言った。彼女の呼吸も、もう浅い。
「あの数は潰しきれない。光が落ちる前に、決めるわよ。——オタキラー!」
「ほいきた」
「切り札を出すなら、今よ!」
オタキラーの手が、懐へ入った。
いつもの、羊皮紙の束の位置ではなかった。もっと奥。ローブの合わせの、一番深いところ。そこから出てきた一枚は、他のどのスクロールよりも黒ずんで、封の蝋に古い指の跡が幾重にも残っていた。
「おい、それ……」
ドレッシングが目を剥いた。
「切るときは死ぬときや、言うたやろ」
オタキラーは封に指をかけた。
「今が、それや」
封が、裂けた。
「頭下げとき! ——〘紅蓮爆〙!」
世界が、紅く染まる。
盾の上を、炎の奔流が越えていく。熱が髪を炙り、音が腹の底を殴る。壁も天井も一瞬で紅蓮に呑まれ、その中心——肉塊の面の上で、無数の眼が、いっぺんに燃えた。
悲鳴は、なかった。
代わりに、通路そのものが軋むような震動が来た。肉塊が大きくのけ反り、燃え残った眼が千々に泳ぎ、面の中央の肉が、火に炙られて、ぐにゃりと左右へ捲れ——
その奥に、白いものが覗いた。
眼だ。
ただし、他のどれとも違う。乳白色の、瞼のない、大きな一つ眼。表の眼が全部閉じても、それだけは閉じられない——そういう据わり方で、肉の最奥に嵌まっていた。
「芯や! あれが剥き出しになっとる今のうちや——!」
「道は開けたわ」
アミアンが、退きながら叫んだ。
「——行きなさい!」
シンは、もう走っていた。
シーザーの盾の脇を抜ける。傾いだ鋼が、ぎりぎりまで視線を庇ってくれた。燃え残りの火が縁取る通路を、ドレッシングのナイフが最後の一本、先回りして飛び、行く手で開きかけた眼を縫い止めた。アンリの加護が胸の奥で温かい。オタキラーの灯りが、白い芯だけを真昼のように照らしている。
誰の背中も、追い越していく。
誰の背中にも、守られている。
「背中は——」
剣を、振りかぶった。
「——預けたッ!!」
その瞬間だった。
柄を握る両手の奥から、何かが溢れる。
あの夜、掌の上で震えて消えた、あの頼りない魔術。あれとは違う何かが、今は霧散せずに、刃を這い上がり、不格好で、歪な、およそ美しくない光となって、剣身に絡みついた。制御など、まるでできていない。光は明滅し、揺らぎ、今にもほどけそうで——それでも、確かに、灯っていた。
「……出よったな」
オタキラーの呟きは、誰にも届かなかった。
光を纏った一撃が、白い芯を、まっすぐに貫いた。
◇
眼が、閉じていく。
燃え残ったものも、煤けたものも、まだ無傷だったものも、眼という眼が、端から順に、静かに、閉じていく。
浮いていた巨体が、ゆっくりと沈んだ。石の床に触れ、触れたところから崩れ、輪郭を失っていく。最後に、通路を渡る冷たい空気が一度だけ大きく流れて——それきり、何の音もしなくなった。
静寂。
六人ぶんの荒い呼吸だけが、暗がりに続いている。
シンは剣を杖にして立っていた。刃の光はもう消えている。振り返ると、盾に寄りかかるシーザーと、それを支えるアンリがいた。ナイフを拾い歩くドレッシングがいた。灯りの下で、空になった懐を未練がましく覗くオタキラーがいた。
誰も、何も言わなかった。
言わないまま、順に目が合った。シーザーと。アンリと。ドレッシングと。オタキラーと。そして、アミアンと。
握手も、歓声もなかった。ただ、目が合うたび、互いに小さくうなずいた。それで足りた。
「……一人では、抜けられなかった」
アミアンが、誰にともなく零した。
開幕のあの声と同じ、事実だけを述べる平坦な声だった。なのに、なぜだか今度は、少しも冷たく聞こえなかった。
◇
「……おい。奥、見てみ」
オタキラーが灯りを持ち上げた。
崩れた肉塊の向こう——番人が背にして立ちふさがっていた通路の先に、開いた空間が覗いていた。
小さな聖堂のような部屋。
正面に扉があった。いや、あったもの、と言うべきだ。厚い石の扉が軋んだまま半開きになり、把手には千切れた鎖が絡んでいる。扉の面に幾重にも引かれていた蝋と朱の線——封印の類だろう——は、鎖ごと、無残に断ち割られていた。
部屋の中央の祭壇は、荒らされていた。
供物台が倒れ、燭台が転がり、壇上の小箱がこじ開けられて、蓋が開いたまま横倒しになっている。
中身は、ない。
埃の上に、四角いものを取り上げた跡だけが、くっきりと残っていた。
「————」
誰かが唾を呑む音がした。
そして、祭壇の手前に、それはあった。
折れた剣が、一振り。刀身の半ばから先がなく、残った半分にも、こまかい刃こぼれが幾つも並んでいる。
その傍らに、外套が一枚。土埃にまみれ、裾の側が大きく焼け焦げていた。焦げ跡は乾いて古く、指で触れれば崩れそうだった。
床には名前の彫ってある、掌に載る金属の徽章が、離れた場所に一枚ずつ落ちている。
それだけだった。持ち主たちの姿は、どこにもない。剣と、外套と、二枚の徽章だけが、ここで何かがあったことを語っていた。
アンリが胸の前で指を組み、目を閉じて、長いこと動かなかった。
「……先客、か」
シーザーが低く言った。
「私たちより先に、ここまで入った者がいた。この扉を、破った者が」
「妙ね」
アミアンは、崩れた肉塊のほうを振り返っていた。
「あれの動き、思い出してごらんなさい。私たちを追い詰める動きじゃなかったわ。角で止まり、同じ歩幅で進んで——道順を、守っていた」
「……せや」
オタキラーが、静かに引き取った。
灯りに照らされたフードの奥の顔から、いつもの茶目っ気が抜け落ちていた。
「こいつ、わいらを狙て出てきたんとちゃう」
破られた扉。荒らされた祭壇。空の小箱。たぶん二人ぶんの、置き去りにされた持ち物。
「——持ち場に、戻っとったんや」
誰かがここを破り、何かを持ち出した。それで番人は目を覚まし、務めどおりに、通路を巡り続けていた。そこへ、たまたま通りかかった者から順に——
シンは、足元の徽章を見下ろした。
拾い上げようとして、やめた。代わりに、アンリの隣で、見様見真似に指を組んだ。
◇
帰り道は、アミアンの言ったとおり、奥にあった。
聖堂の脇から細い階段が上へ延び、進むほどに空気が新しくなっていく。土と、夜露と、木の匂い。地上が近い。
誰もが無言だった。疲れ切っていたし、それ以上に、考えていた。
その沈黙の中で、シンが、ぽつりと言った。
「なあ」
誰も足を止めなかったが、誰もが聞いていた。
「村長さん……こんなのがいるなんて、一言も言ってなかったよな?」
答えは、なかった。
レッシングは前を向いたままだった。オタキラーの灯りが、わずかに揺れる。アンリは組んだ指をほどかず、アミアンは何かを数えるように目を細めている。
やがて、シーザーが言った。
「……戻ろう。まずは、村だ」
階段の先に、夜の終わりの、薄青い光が見えはじめていた。




