第四話 その“アンデット”、呪文を使うぞ
鞘走りの音が、石の通路に思いのほか大きく響いた。
抜き放ったロングソードの刃に、頭上の光球が丸く映り込む。柄を握る掌が汗ばんでいた。石の冷たさは靴底から絶えず這い上がってくるのに、掌だけが熱い。
「来るで」
オタキラーの声は低かった。
三つの影は、光の縁で止まっている。
片膝が折れたまま立つもの。腕が肩から縄のように垂れたもの。首が横を向いたきり、戻らないもの。どれも人の形をして、人の立ち方をしていなかった。
濡れた何かが石を擦る音だけが、間を置いて届く。
甘い腐臭が、喉の奥に張りついて剥がれない。
——見られている。
ふいに、シンはそう感じた。腐って落ち窪んだ目穴に、光はない。ないのに、三つの影は、こちらの得物を、人数を、数えているような立ち方をしていた。
「なあ、あいつら——」
言い終える前に、右端の影が動いた。
腕が真上に跳ね上がる。人の関節では届かない角度まで。
裂けた喉が、鳴った。
雄叫び——と呼ぶには、歪みすぎていた。音は石の壁にぶつかり、跳ね返り、折り重なって膨らみ、見えない塊となって押し寄せてくる。壁際の燭台が、びりびりと鳴った。
「耳を塞ぐな!」
ドレッシングが叫んだ。
「シン、剣を離すなよ! 正面の音を斬る気で構えてろ! ——オタキラー!」
「わかっとる!」
オタキラーの指が封を弾く。羊皮紙が燃えるようにほどけ、
「——〘静壁〙!」
三人の眼前で、空気が一枚、硬くなった。
音の塊がそこへ達し、砕けた。ぶつかった、という手応えすらなかった。押し寄せた圧が透明な面の向こうで潰れ、散り、あとには耳鳴りだけが残った。
「〜〜っ、なんちゅう金の使い方や! これ一枚なんぼすると思とんねん!」
「命の値段よりは安いだろ」
「そういう話とちゃう!」
三つの影は、追ってこなかった。光の縁ぎりぎりで足を止め、また、こちらを窺うように揺れている。
「……見たかよ」
ドレッシングの声から、ふざけた伸びが消えていた。
「その《アンデット》様、呪文を使うぞ」
「せや。おかしいんはそこや」
オタキラーは影から目を離さないまま、早口になった。
「今の音、あら呪文や。人を昏倒させる類の、れっきとした術や」
「アンデットだって魔物だろ? 魔法くらい使うんじゃないのか」
「使わん」
言い切りだった。
「ええか、シン。歩く屍やら骨人形やら、ああいう下っ端の不死者はな、術なんぞ使えへん。生きとった頃の知恵も術も、とうの昔に焼き切れとる。残っとるのは恨みと飢えだけや。それだけで動く肉や。得物かてよう握らん」
「でも、現に——」
「術を使う不死者は、おる」
灯りの光が、フードの奥の青と翠を掠めた。
「屍の魔術師。吸血の貴種。生前の知恵も我も丸ごと抱えたまま死を越えた、格のちゃう連中や。せやけどな、ああいうのは腐った肉を引きずって徘徊なんぞせえへん。まして、あないな下っ端の形で三匹つるんで出てくる相手やない」
「つまり?」
「あの見た目で術を使うんなら——格が合わんのや」
ドレッシングが、ナイフを構えたまま引き取った。
「見た目は下っ端。中身は術者。ちぐはぐってわけだ。……どっちかが、嘘をついてる」
「嘘って、どっちがだよ」
「決まってんだろ」
灰色の目が、三つの影を眺め回した。
「嘘なのは——《見た目》のほうさ」
「難しい話はよく分かんないけど!」
シンの膝が、沈んだ。
「要は、敵なんだろ!? 先手必勝〜〜!!」
「「話を聞け(や)!!」」
制止は間に合わなかった。
シンは光の縁を蹴り越え、まっすぐ突っ込んだ。真ん中の、ひときわ大きな影が前へ出る。シンは膝を溜め、袈裟に斬り下ろした。体重の乗った、正しい、全力の一撃だった。
がつん、と鈍い衝撃が腕に返る。
受け止められている。
刃の下にあったのは、腐った木の棒だった。
——木の棒に?
俺の、全力が?
驚愕で腕が止まる。だがそれ以上に、目が吸い寄せられたのは棒そのものだった。腐って見える。なのに、節がない。反りもない。まっすぐで、握る位置が上下に正しく分かれ、先端に——鈍く光る、金属の環。
棒が、押し返してきた。
「シン!」
風を裂いて、三本のナイフが飛んだ。
ドレッシングの投擲は、シンと組み合う影ではなく、その脇の小柄な影へ吸い込まれ——甲高い音が、三度、連続した。
銀色の細い線が、闇の中で薙ぐ。見えたのは、それだけである。
弾かれたナイフが石の床で跳ね、回り、止まった。
「退くぞ!」
ドレッシングがシンの襟首を掴み、引き倒すように下がらせた。三つの影は追わず、また光の縁で、ゆらりと揺れて止まる。
「細っせぇ刃だ。……今の、見たか」
「見た」
オタキラーが頷いた。
「棒もや。腐っとるくせに、構えだけ道場もんや」
「なあ! 俺の全力が木の棒に止められたんだけど!?」
「あんたの全力の話は今しとらん」
ドレッシングが、ちらとオタキラーを見た。
「オタキラー。鎮送、持ってたよな」
「……あるけどな」
オタキラーの手が、露骨に懐を庇った。
「言うとくけどな、あれはほんまもんの退魔の術式やぞ。専用紙も触媒も特級品や。値ぇ聞いたら腰抜かすで」
「確かめたいことがある。頼む」
「〜〜〜っ、ええい!」
自棄のように、封が切られた。
「ほんまはこんなん、僧侶の領分なんや! わいがやると高うつくんや! ——〘鎮送〙!」
羊皮紙から、白い光が立ち上った。
光は鏃の形に束ねられ、まっすぐ三つの影へ飛び——
届く手前で、解けた。
力を失い、ほどけ、散って、消えた。あとには燃えかすの紙が一枚、ひらりと床に落ちただけだった。
「不発——!?」
「ちゃうで」
オタキラーの声が、一段低くなった。
「術は完璧やった。効かんかったんやない。……効く相手が、おらんのや」
「どういう意味だよ!」
「不死者に効く術が、効かん。つまりあれは——そもそも、不死者やないっちゅうことや」
ドレッシングが小さく笑った。まったく笑っていない、笑い方だった。
「読めてきたじゃん」
「せやな。……胸くそ悪いくらい、読めてきたわ」
オタキラーは懐から、もう一枚を抜いた。
「目ぇ細めとき。眩むで」
封が弾ける。
「——〘払幻〙!」
白。
通路の全部が、一瞬、白に飲まれた。壁も床も闇も消え、瞼の裏まで光が差し込み——
引いた。
目を開ける。
まず、盾が見えた。全身を覆う鋼の重装と、掲げられた大きな盾。その陰に庇われた、僧衣の娘。娘の両手は、シンの一撃を受け止めたのと寸分違わぬ構えのまま、白くなるほど強く——一本のスタッフを、握りしめていた。
そのそばに、銀の髪。提げたレイピアの切っ先が、ほんの少し、まだ揺れている。
沈黙が、六人ぶん重なった。
最初に声が出たのは、鎧の男だった。
「……シン、どの?」
「シーザー、どの……?」
シンの視線が、ゆっくりと下りた。娘の握るスタッフへ。まっすぐで、節がなく、握る位置が上下に分かれ、先端に金属の環。
全身から、血の気が引いた。
「お、俺——いま、アンリさんに、全力で……」
「い、いえ! お怪我は、ありませんから!」
アンリが慌てて首を振る。振ってから、自分の手が震えていることに気づいたらしく、スタッフごと、ぎゅっと胸に引き寄せた。
「兄さんが、すぐ前に入ってくださって。その……皆様が、恐ろしい姿に見えていたのです」
「腐った骸に、な」
シーザーが盾を下ろした。その顔にも、汗が浮いていた。
「貴殿らの姿は、三体の腐れた化け物に見えていた。声も、獣の唸りにしか聞こえなかったのだ。……この目で、はっきりとだ」
「こっちも同じだ。あんたらが、腐肉を引きずったアンデットに見えてた。声もな」
「幻術……」
アミアンだった。
レイピアを納めながら、彼女は舌打ちをした。エルフの整った横顔には似合わない、乾いた音だった。
「道理で、と言いたいところだけれど」
淡い翠の目が、細くなる。
「……私も、見抜けなかったわ」
「あんたでも、かいな」
オタキラーが呟いた。フードの奥の目は、笑っていなかった。
アミアンは答えず、足元のナイフを一本ずつ拾い上げると、柄を先にして差し出した。
「三本、まとめて同じ軌道。いい腕ね」
「……そりゃどーも」
ドレッシングは受け取った。受け取るあいだ、一度も視線を合わせなかった。
アミアンは、それも見ていた。
「ところで、なんで三人はここに向かったの!?」
シンが両手を広げた。
「法師様が言ってたんだ。あなたたちが噂を聞いて廃教会へ向かったって。だから俺たち、助けに来たんだ」
「……え?」
アンリが目を丸くした。
「私たちは、皆様が忠告を聞かずに遺跡へ向かわれたと伺ったのです。お引き止めする間もなく発たれてしまったから、どうか追ってほしいと……」
「話が、噛み合っていないわね」
「お互い、持ってる話を全部並べようぜ」
ドレッシングが指を立てた。
並べてみれば、単純な話である。
シンたちは村長と法師から、アンリたちは法師から——それぞれ「相手の三人組が廃教会へ向かった」と告げられていた。逆向きの、同じ嘘。どちらの三人組も、見ず知らずの相手を助けるために、夜の山道を駆け上がったのだった。
「つまりはお互い、村の連中にだまされたっちゅうわけや」
「はめられたな。ご丁寧に、両側から」
「はめられた!?」
シンが素っ頓狂な声を上げ——それから、ぱっと顔を輝かせた。
「……ってことは、みんな、俺たちを助けに来てくれたのか! 三人とも無事だったし、俺たちも無事だし、よかったじゃないか!」
「喜ぶとこちゃうやろ」
「よかった、で済む話ではないでしょう」
アミアンの声は平坦だった。平坦なぶん、冷たく響いた。
アンリが、うつむいた。
「……下手をすれば、殺し合っていたのですよ。皆様と、私たちで」
声は小さかった。小さいのに、通路の石に、いやに長く残った。
シンの笑顔が、抜け落ちた。
自分の刃を受け止めた細い腕を、彼はもう一度見た。あの一撃が、スタッフの指一本ぶん横へ落ちていたら。ドレッシングのナイフが、銀の線の一本先を抜けていたら。
誰も、その先を口にしなかった。
「村を、責め切る気にはなれないけれど」
アミアンが静かに言った。
「近頃の勇者候補の行状は、私も聞いているわ。村の人間が旅の武装者を恐れて、遠ざけるための嘘をつく。……分からなくは、ない。それでも、これは悪辣よ」
「我々は——」
シーザーが口を開いた。
開いて、そのまま止まる。
籠手の拳が、固く握り込まれる。何かを言いかけた唇は結ばれて、それきり開かなかった。
「……いや。なんでもない」
アンリだけが、兄の横顔を見ていた。
何も、言わなかった。
◇
オタキラーが手を叩いた。乾いた音が、湿った空気を割った。
「ま、詮議は生きて帰ってからや。ほんで、どないする。来た道を戻るか」
「やめとこうぜ」
ドレッシングが、降りてきた階段の方角へ目をやった。
「行きに罠を三つばらした。けど、あれで全部って保証はどこにもねぇんだよなぁ。帰り道でだけ牙を剥く仕掛けってのは、ままある。ここの造り主みたいに性格が悪けりゃ、なおさら。さらに付け足すなら村人が待ち構えているかも知れねぇ」
「空気が流れているわ」
アミアンが通路の奥へ顔を向けた。銀の髪が、わずかに揺れた。
「奥から、微かに。……別の口があるはずよ」
「決まりや。奥へ回って抜け道を探す」
隊列は自然に決まった。ドレッシングが先頭、シンが続き、真ん中にアンリとオタキラー、その後ろにシーザー、しんがりにアミアン。
ドレッシングは、行きと同じように進んだ。床の石目を読み、埃の薄い帯を避け、怪しい継ぎ目の前では膝をつき、ナイフの切っ先で確かめてから皆を通す。
「お詳しいのですね……」
「盗賊だからね。この手の意地悪は、専門なわけ」
アンリの感嘆に、彼は肩をすくめてみせた。
◇
その部屋は、下りの階段の途中にあった。
踊り場と呼ぶには広すぎる小部屋が、通路の脇へ膨らんでいる。そして、そこだけ燭台が左右に二本、据えてある。
挟まれた壁に、絵が一枚、掛かっていた。
人の背丈ほどもあるそれは、豪華な金の額に縁取られ、地下の湿気に長く晒されてきたはずなのに、黴の一つも浮いていない。
描かれているのは、女だった。
背もたれの高い椅子に、浅く腰掛けている。流れる髪が肩から胸元へ落ち、白い喉が燭台の明かりを受けて仄かに光る。唇の片端だけが、笑みの形に持ち上がっていた。
美しい、というより——見てはいけないものを見ている心地にさせる顔だった。それでいて、目が逸らせない。
「うわっ」
シンが素で声を上げた。
「すげぇ美人! え、なんでこんなとこに絵が!?」
「どなた、なのでしょう……」
アンリが小首をかしげる。シーザーも眉を寄せ、絵と通路とを見比べた。
「客も来ぬ地下に、己の肖像を一枚。……理解しかねる趣味だ」
シンは絵の前に立ち、腕を組んで唸っていた。
「この人が住んでたのかな。いや、でも教会だしな。聖女様とか? いやー、でも聖女様って感じじゃないよなあ、この笑い方。なんというか、その、色っぽ——」
誰も混ぜ返さなかった。
いつもなら真っ先に茶化すはずの二人が、黙っている。
ドレッシングは、小部屋の入口で足を止めたきり、動いていなかった。
オタキラーが、ゆっくりと灯りを絵へ近づけた。光の球が女の顔の高さで止まり、持ち上がった唇の端を、白く照らし出す。
二人とも、笑っていなかった。
長い金髪の下で、ドレッシングの灰色の目が、額縁の四隅を順になぞった。彫り込まれた飾りは、四隅のうち三つが同じ蔦の意匠で——一つだけ、叫ぶ顔。
アミアンは、絵を見ていなかった。
絵ではなく、二人のほうを見ている。
オタキラーの唇が、ほとんど音にならない声で囁いた。
「……なんで、こないなところに……」
「けど、家主は留守みたいだなぁ」
ドレッシングの返事も、同じだった。努めて軽い、いつもの調子。いつもの調子であることに、力の要る声だった。
「留守だよ、留守」
「ん? 二人とも、なんか言った?」
「なんも」
「ほら行くぞー。絵に見とれてる場合かよ、シン」
ドレッシングが真っ先に小部屋を出た。オタキラーの灯りが絵から離れ、女の顔が、するりと闇へ戻る。
名残惜しげに一度だけ振り返ったシンは、だから気づかなかった。
しんがりのアミアンが、絵には一瞥もくれず、前を行く二人の背中だけを見つめていたことに。
◇
階段を下り切ると、空気が変わった。
腐臭が、消えていた。
あの甘い、纏わりつく臭いがない。代わりにあるのは乾いた石と埃の、古い匂いだけ。風のないはずの地の底で、頬のあたりを、冷たいものがゆっくり撫でていく。
「……なあ。静かすぎないか」
シンが囁いた。誰も茶化さなかった。
ドレッシングの手が上がり、隊列が止まる。
彼は膝をつき、耳を石の床へ近づけた。
「——なんか、来る」
「なんか、って」
「分かんねぇ。足音じゃない。もっと重くて……擦れてる」
言われて、初めて聞こえた。
ず……、ず……、と。
規則正しい、低い摩擦音。石が、何か巨大で柔らかいものに撫でられ続けている音。それが曲がり角の向こうから、少しずつ、確実に、近づいてくる。
オタキラーの灯りが、角を照らした。
先に来たのは、影である。
角の壁を舐めるように丸い影がぬうと膨らみ——それから、本体が現れた。
肉の球体である。
通路の幅いっぱい。天井と床のあいだを、浮いている。表面は濡れて鈍く光り、呼吸のように、ゆっくりと膨らんでは縮んでいた。
肉の面に走っていた幾筋の溝が、割れた。瞼が、開いたのだった。
一つではない。十、二十——数えることに意味を失うほど無数の眼が、大小も色も瞬きもばらばらに、肉の全面で次々とひらいていく。それぞれが勝手な方向を向き、勝手に動き——
そして、一斉に、こちらを向いた。
見られている、という感覚が、重さになって皮膚に乗った。産毛が逆立ち、喉が干上がり、握った柄の感触が遠のく。眼、眼、眼。どの一つと目が合っても、逸らした先で、別の眼と合う。
「「げぇえ、あれはぁ!?」」
ドレッシングとオタキラーの絶叫が、重なった。
「知ってんのか、あれ!?」
シンが叫んだ。
「知らん!」
「知らねぇよ、あんなもん!」
二人の声も、また重なった。
百眼の獄卒。
二人は、その名を口にしなかった。
シンは振り返った。下りてきた階段までは、長い一本道。左右に逸れる口はない。駆け戻ったところで、その先にあるのは、罠だらけの入口だけだ。
肉塊が、進んでくる。
石壁を撫でる音とともに。無数の眼で、狭い通路を埋めながら。
逃げ場は、どこにもなかった。




