第六話 帰れ、焰守
合図は、石を叩く音で来た。
シンが聞いたのではない。炉場の縁に膝をついていた窯屋の女が、掌を上げた。決めておいた形である。
その瞬間、炉場の上のものが傾いだ。
炎が、内側へ吸い込まれるように細る。輪郭が落ち、腕が垂れ、それまで炎に隠れていた骨組みが、肩から胸まで剥き出しになった。
赤熱していた鉄が、色を失いはじめている。
人の耳に痛い軋みが上がる。梁の継ぎ目が、支えきれなくなった重さで鳴っていた。
「止まった……のか」
「止まっとらん」
オタキラーは、炉場から目を離さずに言った。
「まだ立っとるやろ。立っとるうちは、終わっとらんのや」
◇
炉場の囲いの崩れた口から坂の下手へ抜ける道の、その端に人が立っていた。
灰色がかった髪をひとつに束ね、洗いざらしの前掛けをつけた女である。手には何も持たず、煤も火の粉も浴びていない。この一昼夜どこにいたのかは、誰にも分からなかった。
シンは一度だけそちらを見て、すぐに目を戻した。いま気に掛けていられるものではない。
◇
「シン」
オタキラーの声が、いつもと違っていた。
「時間をくれ」
「どのくらい」
「……悪いけど、相当長いこと時間もらうで。ええな?」
彼はローブの袖を肘まで押し上げ、両の掌を胸の高さで合わせた。
そして、詠唱が始まった。
シンには、一語も分からない。この大陸の言葉ではない。
◇
「前へ!」
アミアンが叫んだ。
その声で、街が動いた。
冒険者が炉場の手前へ横列を作り、その後ろへ荷車が入る。水が撒かれ、砂が撒かれ、濡らした帆布が張られた。ガレスが鶴嘴の柄で拍を打ち、その拍に合わせて、交代の隊が前へ出る。
顕現体が、腕を振り下ろした。
遅い。遅いが、重い。横列の一つが吹き飛び、荷車が一台、横倒しになった。
「代われ!」
誰も逃げなかった。
誰も、オタキラーのほうを振り返らなかった。
◇
振り上げられた腕が、横列を越えた。
その先にいるのは、オタキラーである。目を閉じ、掌を合わせたまま、身を守るものを何一つ持たずに立っている。
「オタキラー!」
シンが叫んでも、詠唱は止まらない。止められないのだと、そこにいる全員が知っていた。
シンより先に動いたのは、アミアンだった。
彼女はオタキラーの懐へ手を入れ、最後の一枚を抜き出す。
「借りるわよ」
「——〘静壁〙」
透きとおった壁が、詠唱するオタキラーの前へ立った。
腕が、そこへ当たる。
壁は砕けない。当たった箇所から白い罅が走り、罅は縁まで届いて、それきり広がらなかった。
二度目の一撃で壁は消えたが、消える直前に、腕は止まっていた。
アミアンは、空になった手を握る。
「もう、ないわよ」
◇
オタキラーの周りで、風が起きはじめていた。
風ではない。空気が、彼のほうへ寄っている。炉場の火の粉が、上へではなく横へ流れた。地面の砂が、円を描いて彼の足元へ集まっていく。
アミアンが、顕現体から目を離した。
「この魔力量……」
彼女の声が、掠れる。
「まさか、第九階梯?」
答えは返ってこない。――ただ、戦慄に喉を鳴らす音だけが響いていた。
◇
詠唱が、止んだ。
オタキラーが、目を開ける。
胸の前で合わせていた掌が、ゆっくりと離れた。離れた指のあいだで、寄り集まっていた空気が、糸のように縒れて鳴っている。
彼は半歩だけ腰を落とし、その両手を、炉場へ向けてまっすぐに突き出した。
フードが、後ろへ落ちる。
「——〘掃嵐〙」
最初に消えたのは、音である。
次に、街の火が消えた。
燃えていた家の炎が、かまどの残り火が、坂に散っていた松明が、いっせいに吹き消される。街が一瞬、暗闇に包まれ——嵐が来た。
顕現体の外炎が、根こそぎ持っていかれる。
剥がされた火は形を保たないまま坂の上へ流れ、屋根を越えて、空へ散っていった。あとに残ったのは、赤熱した骨組みだけである。
背骨があり、肋骨があり、腕があり、脚がある。炎に隠れていたものが、丸ごと外へ出た。
それは、両腕を下げたまま動かない。
誰も、声を出さなかった。
坂の上から下まで、人という人が、口を開けたまま止まっていた。
◇
オタキラーが、膝をついた。
膝が石畳を打つ音で、シンは我に返る。
彼はそのまま前へ倒れかけて、両手で体を支えた。フードは落ちたままで、シンの位置からは、剥き出しの後ろ姿しか見えない。
その後ろ姿が、いつもより小さかった。
アミアンが彼のほうを見て、何も言わずに顔を戻す。
「オタキラー!」
「……行け」
彼は、顔を上げない。
「二度は撃てん」
シンが炉場へ目を戻すと、骨組みの足元で火が動いていた。
剥がされた炎が坂のあちこちから戻ってきて、地面を這い、脚へ届き、そこから上へ這い上がりはじめている。
戻りきるまで、いくらもない。
◇
シンは、走った。
炉場までは、まっすぐ二十歩ほどである。
右ではガレスが鶴嘴を横に構えて崩れかけた囲いの石を肩で支え、左では親方が鉄板を立てて熱を切っていた。
骨組みが腕を伸ばすと、その腕へ荷車組合の綱が掛かる。三方から同時に引かれ、腕は途中で止まり、軋んだ音が巨人の悲鳴のようにも聞こえた。
誰かが水をかけた。誰かが砂を投げた。誰かが盾で腕の下へ入り、そのまま踏ん張っている。
シンの左の耳のそばを、水を張ったままの桶が飛んでいく。誰かが、中身ごと骨組みへ投げつけたのだ。
道は、彼が作ったのではない。
彼はただ、その上を走った。
◇
炉場の口の脇にある捕獲装置は、石の台へ嵌め込まれた鉄の輪と、その下から突き出した鉄のレバーでできていた。親方の図面と同じ形である。
シンが輪へ手を掛けても、動かない。
両手で掛け、体重をかけ、指の皮が焼けて掌が輪へ張りついても、輪は一寸も回らなかった。
焼き付いている。何百年ぶんの熱と錆が、輪と台のあいだで固まっていた。
「——っ」
彼は剣を抜き、柄を握り直して、刃を輪の隙間へ差し込んだ。鍔まで押し込み、そこへ体重を預ける。
刃が、撓んだ。
折れる、とシンは思った。しかし、折れはしなかった。
炉場の口が、すぐ足元で開いている。立ちのぼる熱に髪の先が縮れ、柄へ巻いた革が焦げて硬くなっていく。掌はとうに焼けている。
それでも、彼は体重を預けたまま渾身の力を振り絞り、ついに輪が、回りはじめた。
◇
そこから先を、シンは考えていない。
考えるための材料を、彼は持っていなかった。
輪をどちらへ回すのか。次にどこを押すのか。押したあと、どれだけ待つのか。
意味は、分からない。
ただ、梯子の口で聞いた並びが、そのまま口の中に残っていた。
二度、繰り返した並びである。一度目は途中で詰まり、二度目でようやく最後まで通る。
彼は、そのとおりに手を動かした。
台の下で、何かが噛み合う音がした。
◇
最後に、レバーがある。
倒せば終わる。倒せば、目の前のものは骨ごと地の底へ引き戻される。
シンは、そこに手を掛けて、……止まった。
石畳の下から、火が這い上がってくる。骨組みの膝のあたりまで、もう戻っていた。腕が、また動きはじめている。
それでも、彼は倒さなかった。
レバーを握った掌が、熱くなってくる。石の台そのものが、下から温まりはじめていた。
「シン! なにやってんだ!」
誰かが叫んだ。
彼は答えない。答えずに、坂の下手を見た。
保守通路の口である。
石の蓋が、開いた。
シーザーの肩が出て、次にアンリが引き上げられ、最後にドレッシングが自分で這い出してくる。ドレッシングは膝をついたまま、腕を大きく横へ振った。
落ちた、という合図である。
シンは、次に窯屋の裏を見た。
アミアンが、路地の口に立っている。彼女は片手を上げ、掌を開いて、閉じた。誘導は終わり、という形だった。
次に、ガレス。
老ドワーフは囲いの石を支えたまま、顎だけを引いた。街の者は全員、下がっている。
最後に、オタキラー。
彼はまだ膝をついていた。
顔も上げない。
ただ、石畳についた手の、親指だけが立った。
◇
シンは、息を吸った。
喉が焼けた。
腕が、上から来る。
それでも彼はもう一度、坂を端から端まで見渡した。
誰も、残っていない。
◇
「帰れ、焰守」
彼は、レバーを倒した。
◇
音は、しなかった。
地面が、下へ落ちる。
炉場の口が広がり、石の台ごと沈み、骨組みが真下へ引き込まれていく。肩が沈み、胸が沈み、頭の形をした部分が石の縁を潜っていく。
終わった、とシンは思った。
彼は輪から手を離し、剣を抜き取って、そのまま膝を落としかけた。
◇
縁に、片手が掛かっていた。
沈みきる寸前に、腕だけが伸び上がってきたのだ。赤熱した五本の指が石の角を掴み、そこで止まる。
落ちていく重さと、掴んだ指と、その二つが拮抗して、石の縁が軋みはじめた。
巨人はまだ諦めていなかったのだ。
◇
その人は、いつのまにか炉場の口の傍らに立っていた。
止められる位置に、誰もいない。
「返してもらったものを、また奪うのですか」
声は、あの卓を囲んでいたときと同じ高さだった。
彼女は、掴んだままの巨人の指を見上げる。
それから、両手を胸の前で組んだ。
「私の力を、お使いください」
◇
光が、満ちた。
熱が、シンの立っている場所まで風のようにして届く。頬が焼け、睫毛が縮れ、口の中の水気が一度に持っていかれる。
そして、音が欠けた。
あるはずの音が、そこだけ抜けている。
手を伸ばしたのは、シンとアミアンだった。
二人とも、走ってはいない。走って間に合う距離ではないと、体のほうが先に知っている。それでも、腕だけが前へ出た。
届かない。
届くはずのない距離である。届くはずのない距離へ、二人とも手を伸ばしていた。
オタキラーは、フードの下で目を伏せている。
誰も、何も言わない。罵る者も、勝ち誇る者も、そこにはいなかった。
光が薄れたあと、炉場の前には何も残っていない。
前掛けの布一枚、落ちていない。
◇
指が、動いた。
石の角を掴んでいた五本が、いっせいに深く食い込む。爪の入った石が粉になって零れ、沈みかけていた肩が、縁の上へ戻ってきた。
冷えかけていた鉄が、また色を取り戻していく。
もう一方の腕が、縁を探して伸びた。
◇
剣は、まだ手の中にあった。
柄の革は焦げて硬くなり、掌の皮は輪へ張りついたまま剥けている。あれだけの熱を浴びつづけて、刃だけが、一度も色を変えていない。
シンは、走った。
考えていない。合図を待つ数秒に使い切って、頭にはもう何も残っていない。
その両側で、街が腕を押さえていた。三方から引かれた綱が軋み、盾の縁が鳴り、誰かの短い悲鳴が上がって、それでも誰一人退かない。押さえられた腕と、押さえている人の列と、そのあいだにできた一本の隙間を、彼は縁まで駆け抜けた。
焼けた掌が、柄を包む。
痛みは、もう感じない。
踏み込んだ足が石を噛み、体ごと、両手が持ち上がる。
シンの剣は、あの廃教会で倒した怪物の時と同じく、手元から輝いていた。
あの夜の光は、明滅し、揺らぎ、いまにもほどけそうだった。
今度は、揺らがない。
◇
刃が、赤熱した指の付け根へ食い込んだ。
鉄と鉄がぶつかる音は、しなかった。
代わりに、澄んだ音が一つだけ鳴った。厚い硝子を爪で弾いたときの、あの短い音である。
断たれた面が、白く光る。
その白から、罅が走った。指の内側を、根元から爪の先へ向けて、枝が伸びるように。罅の底の色が、橙から黒へ、みるみる落ちていく。
石の角を掴んでいた五本が、順に離れた。
砕けたのではない。冷えて、崩れたのだ。
崩れた欠片は、落ちきる前に火の粉へ変わり、風に攫われて坂の上へ流れていった。
◇
支えを失った腕が縁から滑り、赤い塊のまま、地中へ引き込まれていく。伸ばしかけたもう一方の指が、最後に消えていった。
口が、閉じ、そして、熱が、冷たい夜風に散っていった。
◇
風が止み、火が消え、誰も何も言わなかった。シンは機構の台に両手をついたまま、肩で息をしていた。
それから、街が声を上げた。
歓声ではない。
どこかで女が泣きはじめ、その隣で誰かが座り込み、坂の上のほうで誰かが名前を呼んでいる。呼ばれた名が返され、返した声が、また泣きはじめる。
混ざった音だった。
半日ぶりに、この街が出した音だった。
◇
崩れたのは、資材庫の側の通路である。
炉場が沈んだぶん、街の下の土が動き、西の旧資材庫の床が抜けて、その下の通路が潰れていた。
その中に、ヴァルドがいる。
外套の内側に、地下から持ち出されたあの本を抱え、もう一方の腕には革の帳面を挟んで、脚には石が乗っかっていた。
ガレスが、一番先に降りる。
彼は何も言わずに梃子を噛ませ、石を退け、卿の脇へ肩を入れて引き出した。引き出したあと、抱えていた本と帳面を、そのまま取り上げる。
「ミルナ」
「はい」
「数えて、しまっとけ」
それだけである。
卿は何も言わずに、周りを見ていた。
私兵は、そこにいない。
誰も逃げていないし、誰も裏切ってもいない。彼らはとっくに、自分の家の火を消しに行っていた。火の回った街で、雇い主より自分の家を選んだ。それだけのことである。
誰も、卿を罵らなかった。
誰も、付いていかなかった。
◇
どれくらい、そうしていたのか分からない。
シンは、まだ機構の跡へ手をついていた。掌の皮が張りついて、離すのが億劫だった。
街は静かになっていた。泣き声も名前を呼ぶ声もいつのまにか収まって、人は座り込み、あるいは横になり、あるいは、ただ立っている。
そのとき、音が一つ、返ってきた。
鎚の音だった。
坂の下手のどこかで、誰かが鎚を振っている。板を打っているのか、釘を打っているのか、それは分からない。
一つ。
少し置いて、また一つ。
しばらくして、別の場所からも鎚が返った。応えるように、さらに向こうでも。
街が、音を出しはじめていた。




