第五話 炎が、痩せていく
地下は、思っていたより明るかった。
壁そのものが橙色に光っている。石の奥を何かが通っていて、その熱で石が透けているのだと、ドレッシングが言う。
通路は狭い。シーザーは盾を背へ回し、肩を斜めにして進んでいる。それでも、留め具が壁を擦る音が絶えなかった。
息が、続かない。
「——〘浄息〙」
アンリの杖の先で、空気が澄む。
三人ぶんの息が届く範囲だけである。その外は、吸えば喉が焼ける空気だった。
「アンリ、どのくらい続く」
「掛け直せば続きます。……代わりに、私の足のほうが先に止まります」
「なら、急ぐしかないな」
◇
ドレッシングは、行き止まりの壁の前で膝をついた。
「ここだ」
「壁だぞ」
「壁の向こうだよ」
彼は、懐から封を抜いた。
「一枚しかない。文句は言うなよ」
「言わん」
「——〘透眼〙」
彼の目に映ったものは、シーザーには見えない。ただ、その視線が壁の上のほうから斜めに下りて、床の一点で止まったのは分かった。
「全部、見えた」
彼は、それだけ言った。
「順番も分かった。……面倒くさい順番だ」
◇
街が耐えている、というのを、シンはそのとき初めて目で見た。
顕現体が坂を下りはじめると、その先の家から人が引き、代わりに荷車が入る。水と砂が撒かれ、板が渡され、燃えはじめた家には誰も戻らない。
誰も戦っておらず、誰も、逃げてもいなかった。
「シン。前を替えて」
アミアンの声で、彼は駆けた。
前へ出ていた冒険者の一隊が下がり、別の一隊が入る。ガレスの決めた順である。前に出た者は四つ数えるあいだだけ盾を構え、それから必ず下がった。
◇
変化は、前触れなく来た。アミアンの足が、坂の途中で止まる。
「……軽くなった」
「なにが」
「あれよ」
彼女の指した先の顕現体は、シンには同じに見えた。同じ大きさで、同じように歩いている。
「熱が下がったわ。さっきまで、あの距離だと踏み込めなかったの。いまなら踏み込める」
「下が、効いてるのか」
「そういうことでしょうね」
オタキラーが、フードの奥で短く笑った。
「あいつら、がんばっとるな」
◇
問題は、そこからだった。
弱ってはいく。だが、歩いている場所が違う。顕現体が行ったり来たりしているのは坂の上のほうで、炉場は坂の下手、鍛冶屋の並びの奥にある。
連れていくには、あれが行きたくなるものが要る。
「音や」
オタキラーが、落ちた鐘楼の跡のほうへ目をやった。
「鐘や。鐘やったら、あいつは来る」
「鐘は、落ちた」
「落ちたやつが、あるやろ」
◇
鐘楼の跡に転がったままの欠けた鐘は、縁が大きく割れて、内側の舌も外れていた。荷車の若い衆が三人がかりで押しても、動かない。
「板を! 下に板を入れろ!」
誰かが叫んで板が差し込まれ、その上を、鐘は坂を滑り下りていく。
滑り出すまでが長い。板の下へ丸太を噛ませ、綱を掛け、全員が同じ拍で引く。動きはじめれば、今度は止まらなくなる。坂はこの街の背骨であり、下りだけは、いつでも街の味方だった。
滑らせるのに十人が要り、止めるのにも十人が要る。誰も声を出さない。掛け声すら、手を打つ音で代えていた。
「ここでいいか」
「もう少し下だ」
シンが、位置を決める。
坂を三分の一ほど下った辻である。ここで鳴らせば、あれはここへ来る。来れば、次はもう少し下へ置ける。
「アミアンさん」
「分かってるわ」
彼女は、鐘の縁へ掌を当てた。
◇
音は、小さかった。
欠けた鐘である。まともな鐘の音ではなく、割れた壺を叩いたような、鈍い音だ。
だが、その音には、彼女の指から移った魔力が乗っていた。
顕現体がピタリと止まり、こちらを向いた。
「来るわ」
「走れ!」
シンが叫ぶより先に、彼女は動いていた。
「——〘雷駆〙」
白い線が、坂を横へ走る。
顕現体の腕が振り下ろされたときには、彼女はもう二十歩ぶん先の路地へ入っていた。石畳が抉れ、鐘が跳ね、その脇の井戸の縁が砕ける。
鐘は、無事だった。
鐘だけが、無事だった。
アミアンは路地の壁に背を預けて、指を握ったり開いたりしている。痺れているのだと、シンにも分かる。
「あと二回よ」
息の合間に、彼女は言った。
「それ以上は、指が動かないわ」
◇
地下では、熱が逆へ流れはじめていた。
ドレッシングが導管を一つ断ち切るたびに、行き場をなくしたものが通路へ吹き返してくる。
「兄さん、来ます」
「承知」
「——〘護誓〙」
盾に光が乗り、彼はそれを通路いっぱいに構えた。
熱が当たって光が散っても、シーザーは動かない。動かないまま、盾の内側にアンリとドレッシングを入れていた。
「陽光の神よ」
彼の祈りは、短い。
「もうちょっとだ」
ドレッシングの声が、後ろから来た。
「……手が、震えてきやがった」
◇
アンリは、壁へ手をついていた。
掛け直すたびに、澄む範囲が狭くなっている。三人ぶんあったものが、いまは二人ぶんに届かない。彼女はそれを口に出さずに、シーザーの背とドレッシングの背のあいだへ立つ位置を、少しずつ狭めていた。
「アンリ」
「まだ大丈夫です」
「訊いてはいない。前へ出るな、と言った」
「兄さんの盾の内側です」
シーザーはそれ以上言わずに、盾を半歩ぶん、彼女の側へ寄せた。
◇
二度目の変化は、街の全員が見た。
外側の炎が目に見えて薄くなり、それまで隠れていた輪郭の内側が透けたのだ。赤熱した骨組みの縦の線が、いまははっきりと数えられる。
動きも鈍った。腕を振り上げるまでの間が、明らかに長い。
「次を置くわよ」
「もう少し下だ。炉場の手前の辻」
鐘が、また滑り下ろされた。
◇
三度目のとき、シンは、自分が何もしていないことに気づいた。
鐘を運ぶのは街の者である。鳴らすのはアミアンで、道を空けるのは冒険者たちで、水を撒くのは荷車組合だ。彼がやっているのは、次にどこへ置くかを言うことだけだった。
それでも、誰も彼に代わろうとしない。
言うのが遅れれば、鐘が止まる。鐘が止まれば、あれは別のほうを向く。
視界の端で、水の桶が手から手へ渡っていた。砂の袋が担がれ、板が渡され、腕を吊った男が片手で綱を引いている。誰も、彼のほうを見ていない。見ている暇がないのだ。
「ここだ! 炉場の口の、正面!」
「遠いわよ! 私、逃げる先がないわ!」
「窯屋の裏に抜け道がある! 煉瓦を出したときに空けた道だ!」
「……なら、いいわ」
◇
鐘が鳴った。
顕現体が、こちらへ来る。その速さはもう人の歩みより遅く、引きずるようにした片方の脚の跡には、火が残らなかった。
アミアンが〘雷駆〙で抜け、窯屋の裏へ消える。
振り下ろされた腕が、炉場の囲いを薙いだ。積んだばかりの煉瓦が崩れ、その下から、街の火の口が現れる。
炉場である。
常に火の絶えない、街の共用の大炉。なぜここだけ火の持ちがいいのかを、誰も考えたことのなかった大炉。
顕現体は、その上に立って動かなくなった。
いや、動いてはいる。ただ、腕が上がりきらず、頭の形をした部分が、ゆっくりと左右に揺れているだけだった。
シンは、その姿から目を離せずにいる。
あれは、痩せている。
◇
足元で、石が二度鳴った。鐘の柄で叩いたような短い音で、決めておいた合図である。
「下からや」
石畳へ耳を寄せていたオタキラーが、顔を上げた。
「もういっぺん来たら、終いやで」




