第四話 二つに分かれる
ギルドの一階の窓は、板で塞いである。
板の隙間から見えるのは、焦げた石段と、落ちた鐘楼の跡と、そのあいだをゆっくり動いている大きなものだった。
シンは、半日ずっとその動きを見ている。あれは同じ道を何度も往復していて、何かを探しているようにも、何も探していないようにも見える。
止まっているあいだに、街は人を運び出し、板を渡し、砂を積み、水の道を作ってきた。
それが、いまできることの全部である。
◇
地図の上には、誘導の駒と、防護の駒と、まだ何も書かれていない駒が残っていた。
シンは、そのうちの一つを坂の下の印へ置く。保守通路の入口だ。
「下へ行くのは、三人」
彼は、駒から指を離さずに言った。
「ドレッシング。アンリさん。それと、俺」
誰も、すぐには動かなかった。
「シン様」
先に口を開いたのは、アンリだった。
「私は、上のほうがよろしいのでは。負傷される方は、地上に出ます」
「治療は教会に託したろ」
「そうですが……」
「下は空気が悪い。息を確保できる人が要る」
シンは、それだけ言った。
アンリはしばらく彼を見ていて、それから、深く頷いた。
◇
「待て」
シーザーである。
「下は、私が行く」
「なんで」
「狭い場所で前に立つのは、盾を持つ者の役だ」
彼は、地図の上の駒を一つ、坂の中ほどへ押し戻した。
「貴殿は上に残って、やるべきことをやれ。あの街を動かす声を、貴殿以外が出せるか」
シンは、押し戻された駒を見ていた。
言い返す言葉は、いくつも浮かんだ。そのどれも、行きたい、という以上のものになっていない。
彼は、その駒を自分の指で坂の上へ置き直した。
「……わかった。上は、俺がやる」
ドレッシングが、シンの顔を一度だけ見て、鼻から息を抜く。それが同意なのか呆れなのか、シンには分からなかった。
◇
「アミアンさんは上へ」
シンは、駒を坂の中ほどへ動かした。
「あなたが一番速い。あいつの前を横切れるのは、アミアンさんしかいない」
アミアンは何か言いかけて、やめた。やめた手が、レイピアの柄へ掛け直される。
「オタキラーは」
「わいは、上や」
彼のほうが先に答えた。
「使うもんがあるんでな」
それきり、何も言わなかった。
◇
「ほな、これ持っていき」
オタキラーが懐から抜いたのは、封のされた自作の透眼スクロールであった。
「透眼や。線がどこを通っとるか、痕で見える」
「一枚しかないだろ」
「せやから、要るほうへ渡すんやろ」
彼は、それをドレッシングの手へ押しつけた。
「わいは上で口を使う。これは下で使え。両方いっぺんに要るんやから、しゃあないやんけ」
ドレッシングは、それを受け取った。
「重いな」
「軽いわ。紙一枚やぞ」
◇
親方が、革の袋を卓へ置いた。
中から出てきたのは工具である。柄の木が飴色になるまで使い込まれた、古いものだった。
「先代の、そのまた先代のだ」
彼は、それをドレッシングの前へ並べた。
「継ぎ目の合口が、今のものと違う。今の道具じゃ噛まん」
「返せなかったら」
「返さなくていい」
親方は、図面も一緒に押し出した。
「持っていけ。俺が持っていても、どうにもならん」
◇
伝令が飛び込んできたのは、その最中である。
「東の水場、通りました!」
「私兵は」
「いません。……いや、います」
伝令は、自分の言っていることが変だと思ったらしく、言い直した。
「昨日まで槍を持ってた人が、いま、水桶を運んでるんです」
誰も、それについて何も言わなかった。
ガレスが、地図の東側の駒を一つ動かしただけだった。
◇
街側の割り当ては、それより早く決まっていた。
荷車組合が水と砂を運ぶ。窯屋が煉瓦を積む。足の速い者が伝令に付き、ミルナが数を握る。動ける冒険者は順に前へ出て、順に下がる。誰も、一度に全部は出さない。
「交代の順を守れ」
ガレスは、そこだけ念を押した。
「一度に燃え尽きる隊が出たら、そこで穴が開く」
◇
鍛冶屋の並びの裏にある保守通路の入口は、石の蓋を外すと下へ降りる梯子が続いていた。灯りを落としても底が見えず、幅は、シーザーが肩を斜めにしてようやく入れるほどしかない。
アンリは杖を背へ回して僧衣の裾を膝の高さで結び、結び終えてから、一度だけ空を見上げた。
「兄さん。先に降りてください」
「なぜだ」
「私が最後だと、詰まりますから」
「……承知」
最初に梯子へ足を掛けたドレッシングが、そのまま止まった。
「シン」
「ん」
「ちょっと来い」
シンが寄ると、彼は声を落とした。
「手順を言う。覚えろ」
「え」
「覚えとけ。俺が上に戻れなかったときのためだ」
シンは口を開き、何も言わずに閉じた。
ドレッシングは、短く、早口で言った。シンには、何を言われているのか半分も分からない。輪をどちらへ回すのか、次にどこを押すのか、そのあいだにどれだけ待つのか。意味の掴めない言葉の並びだった。
言い終えて、彼は顎で促す。
「言ってみろ」
シンは繰り返した。一度目は途中で詰まり、二度目で最後まで通った。
「よし」
「なあ、これって」
「三度目は要らない」
ドレッシングは、梯子へ体を入れた。
「覚えてりゃいいんだよ。分かる必要はねぇ」
◇
シーザーが降り、アンリが降り、最後にドレッシングの頭が蓋の高さより下がる。
シンは、一歩、踏み出した。
踏み出したところで止まった靴の爪先が、蓋の縁にかかっている。そこから先は、彼の行く場所ではない。
彼はゆっくりと、足を引いた。
「シン」
アミアンだった。
「上よ」
「分かってる」
彼は、蓋を戻す組の若い衆へ手で合図をした。
石の蓋が、音を立てずに閉じられていく。
◇
石畳を通して、下の何かが熱を寄越してくる。三人は、この熱の中へ降りていったのだ。
坂の上のほうで、崩れる音がした。顕現体はまだそのあたりにいて、落ちた鐘楼の跡の周りを意味もなく歩き回っている。
「シン」
オタキラーが、靴の先で石畳を軽く叩いた。
「合図が来るまで、こっちは何もできんで。わかっとるやろうが、耐えるしかないんやで」
「ああ」
シンは、坂を見上げた。
石畳の下では、三人がもう梯子を降りきっている頃である。
合図は、まだ来ない。
彼は剣の柄へ手を掛けた。掛けたまま、動かなかった。




