第三話 街を守る仕事
教会の北側の壁が、内側から焦げていた。外の家が燃えたときに熱が移ったのだと司祭は言っていた。石は焦げても崩れないが、触れば手が黒くなったのだと。
その壁の下に、人が並んでいる。
床にである。長椅子はとうに外へ運び出され、代わりに藁と、荷車から下ろした毛布が敷いてあった。祭壇の前まで人が詰まり、庭にも列ができている。
アンリは、そのあいだを膝で移動している。立って歩けば、寝ている人を跨がなければならないからだ。
「布、まだ来ませんか」
「宿の敷布を裂いてもらっています。もうすぐ」
「水は」
「東からは来ません。北の井戸から回します」
答えながら、彼女はもう次の人の脚を見ていた。
脚が多い。次に多いのが手で、そのあとが目だった。逃げるときに熱い石を踏み、崩れてくる物を手で払い、振り返って光を見た人たちである。
順に見て、順に決める。いま診る人と、待てる人と。
決めるのは、一度に一人ぶんだけにする。前の人を見ながら次の人のことを考えると、両方が中途半端になった。それを、彼女は坑道で覚えている。
◇
外が、静かだった。
人がいないのではない。庭にも坂にも人はいくらでもいて、荷を運び、板を渡し、水の入った桶を手から手へ送っている。それでいて、音がしない。
荷車の車輪には、ぼろ布が幾重にも巻かれていた。轍が石畳を噛む音が、それで消える。人は指と目で用を足し、どうしても声が要るときだけ、耳元まで寄って言った。
泣きはじめた子供を、母親が胸へ押しつけて黙らせている。子供のほうも、途中から自分で口を押さえた。
鎚の音が、しない。
この街は、宿の寝床にいても床板の下から鎚が響いてくる街である。その音が、朝になっても戻ってこなかった。
「アンリはん。灯りの術も、あかんで」
庭の隅から、オタキラーが言った。彼は昨夜から一度も座っていない。
「使うたら、鐘を鳴らしとるのと同じや。……どうしても要るときだけにしとき」
「はい」
彼女は頷いて、代わりに蝋燭を立てた。
◇
アンリが東の水場へ回されたのは、そこで人が倒れたと聞いたからである。
着いたときには、上の区画から下りてきた者たちで坂がもう埋まっていた。桶を提げた者、鍋を抱えた者、子供を背負った者。前のほうでは、火の回りかけている家を指さして、消させろと叫んでいる男がいる。
板で囲われた水場の前には、革の胸当てにヴァルド家の紋を押した私兵が立っていた。
「下がれ。ここは通せん」
「水だ! 水を出せ!」
「命令だ」
誰の命令かは、言わなかった。言わなくても、分かる。
◇
ヴァルドは、囲いの内側にいた。
外套は煤で汚れ、髪も乱れ、指の石はいくつか外れている。それでも彼は、囲いの中に立っていた。
「旦那様。上の人たちが、その」
「順番がある」
「ですが、火が」
「私の家が先だ」
声は大きくない。大きくないぶん、はっきりと通った。
「北の倉が焼ければ、この街の麦が消える。私の倉だ。私の荷だ。あれを守るのが先だろう。誰が文句を言う」
「旦那様——」
「俺が優先だ」
誰も、すぐには何も言わなかった。
アンリは、その言葉が坂を下っていくのを見ていた。前の者が後ろへ伝え、後ろの者がさらに後ろへ伝える。伝わるにつれて、音が変わっていった。
怒りの声ではない。
もっと静かで、もっと決定的な何かだった。
◇
「……なあ」
声を上げたのは、革鎧の人族の男だった。胸に五等のギルド証を下げている。ギルドの二階で卿の後ろに並んでいた者たちと、同じ側の顔だ。
「旦那。俺の家は、下の辻だ」
「知らん」
「そうだろうな」
男は、それだけ言った。
言って、桶を拾い上げ、囲いの板へ手を掛ける。私兵の一人が槍を横へ出した。男は、それを見もしなかった。
「刺せよ。刺したら、あんたら明日からこの街に住めんぞ」
槍が、下がった。
板が外され、人が水場へ入っていく。誰も走らなかった。走れば音が出る。順に、黙って、水面へ桶を沈めていく。
私兵は、囲いの外へ退いた。それ以上のことは、しなかった。
ヴァルドはその場に立ったままで、その顔に、恥じている色は見当たらなかった。
◇
ギルドの一階では、卓を片付けた床へ直に、街の地図が広げられていた。
周りを二十人ほどが囲んでいる。ドワーフ、人族、ハーフリング、獣人が入り混じって、誰も座っていない。
ガレスが、鶴嘴の柄で地図を指した。
「水は誰だ」
「荷車組合が持ちます」
「砂は」
「うちで出す。坑道の口に積んである」
「運ぶ手は」
「足りません」
「なら、教会の庭で手の空いた奴を引け。子守りは要らん、担げる奴だけだ」
答えた者の顔を、ガレスはいちいち見ない。鶴嘴の先だけが、地図の上を次の場所へ移る。
「耐熱の壁は」
「炉場の周りに積んでる。窯屋の煉瓦を全部出した」
「足りるか」
「足りん。あるだけ積む」
種族の話は、一度も出なかった。
ガレスが訊いているのは、誰が何をできるかだけである。
ミルナが、段の上から短く言った。
「上の区画は、七割が退避を終えています。残っているのは、寝たきりの方のいる家です。名簿は伝令へ渡しました」
「以上か」
「以上です」
それで終わった。
◇
六人の割り当てが決まったのは、その少しあとである。
ガレスが、地図の上へ木の駒を並べていく。誘導の駒、防護の駒、伝令の駒、治療の駒——駒の腹には、それぞれの役目が焼き印で入れてあった。
「アミアン。あんたは前へ出る役だ。一人でやるつもりか」
「私が一番速いもの」
「速い奴が一人で前に出ると、拾う奴がいなくなる」
アミアンが肩をすくめると、その後ろへドレッシングが回った。
何も言わないし、地図も見ていない。ただ、彼女の右後ろに立っただけである。何かが飛んでくるなら、先に自分へ当たる位置だった。
ガレスが、駒を一つ増やす。
「決まりだな」
アミアンは振り返りもせず、礼も言わず、そのことを口にもしなかった。
◇
教会へ戻ると、庭の列が倍になっていた。
アンリは、司祭と、産婆と、手の空いている者を集めた。
「私は、ずっとここにはいられません」
「分かっております」
「順番の付け方だけ、置いていきます」
彼女は、紙ではなく布の切れ端へ印を描いた。赤、青、白。三つだけである。
「赤は、いま診る人。青は、待てる人。白は……」
言いかけて、彼女は言い直した。
「白は、私が戻るまで、どなたかがそばにいてあげてください」
司祭は何も訊かず、その布を受け取って庭へ出ていった。
◇
庭で水を配っているのは、見覚えのある人たちだった。鍛冶場の前掛けをつけたままの男と、腕を吊った男と、座ったまま包帯を巻いている杖の老人。あの家の卓を囲んでいた人たちである。
誰も、アンリに話しかけなかった。彼女も、話しかけなかった。
ただ、水の桶が手から手へ渡り、裂いた布が回り、順番が回っていく。
その中に、あの人はいなかった。
アンリは庭を二度見渡したが、灰色がかった髪の女は、どこにもいない。
◇
昼を過ぎて、ようやくドレッシングが図面から顔を上げた。
「読めた」
その一言で、部屋にいた全員が立ち上がった。
「順番が要る。飛ばすと動かない。……それと、下を切らなきゃ、そもそも装置が噛まない」
「下」
「線だ。四本ある」
彼は、地図へ指を落とした。
「保守の通路がある。細い。人が這って入る幅だ。……全員では入れない」
その意味を全員が飲み込むまでに、少しの間があった。
その間を、ドレッシングが別のもので埋めた。
「ついでにもう一つ。……あの本、卿が持ってる」
顔がいくつも上がった。
「あの夜、床から本を拾って上がった男がいたろ。ギルド証を下げてた奴だ。あいつは坑口を出てから、まっすぐ卿の屋敷へ入った。入るときは外套が膨らんでて、出てきたときは平らだった」
「見てたのか」
「昨日、屋敷の裏を回ってな。門番が同じ話をした」
彼は、それきり図面へ目を戻す。
先に口を開いたのは、シンだった。
「オタキラー」
「なんや」
「あの本のこと、まだ訊いちゃ駄目か」
オタキラーは、フードを上げなかった。
「片が付いたら話す」
それだけだった。
シンは頷き、二度は訊かなかった。
◇
地図の前へ立つ彼の背中を、アンリは見ていた。
誰も、まだ何も決めていない。決めるのが彼の役だということを、この部屋の全員が知っている。
「二手に分かれる」
シンは、そう言った。




