第二話 守るために作ったのか
教会の石段の上から、シンはそれが坂を上ってくるのを見ていた。
坂は、門から大迷坑の口まで一直線に下っている。上から見れば、街のすべてがその一本の道の両側に並んでいた。宿があり、市場があり、ギルドがあり、鍛冶屋の並びがある。
その一本を、下から上へ、それは歩いていた。速くはない。人が急ぎ足で行くほどの速さである。
だが、止まらなかった。
◇
通り過ぎたあとに何が残るのかを、シンはそこで初めて知る。
燃えるのではなく、建物の側が先に耐えられなくなるのだ。石壁の表面が粉になって剥がれ、剥がれた下から乾いた木組みが覗き、覗いた瞬間に発火する。屋根の板は、火が回るのではなく、いっせいに白く光ってから崩れ落ちる。
坂の下から三軒目の宿の看板が落ちる。六人が最初に泊まった宿である。看板は地面に着くまでのあいだに燃え尽きて、着いたときにはもう炭だった。
市場の天幕が順に消えていくあいだも、それは市場のほうを見ていない。顔のない頭は、まっすぐ上を向いたままだった。
門のほうでは、隊商の荷車が列を作って出ていくところだった。夜のうちに発つ手はずではなかったはずだ。あれは逃げていくのであり、今夜のことは、明日には隣の宿場まで届く。
誰かが誰かの名を呼ぶ声が、坂のあちこちから上がっていく。それは漣のように街の中心から外側へと広がっていった。
◇
「シン様、右へ!」
アンリの声で、彼は動いた。
石段の下を、担架が続けて三つ上がってくる。荷車組合の若い衆が担ぎ、乗っているのは、どれも脚をやられた者である。逃げるときに、熱くなった石畳を踏んだのだ。
「中はもう一杯です、庭へ並べてください!」
「布は!」
「足りません!」
シンは、担架の一つの端を掴んだ。持ち上げた拍子に布越しの熱が掌へ伝わって、彼は思わず息を止めた。
◇
鐘は、鳴りつづけている。
誰かが、まだ綱を引いている。異変を報せるための鐘であり、街の底まで届く音だと、この街の誰もが知っていた。
その音を背中に聞きながら、シンは坂を見下ろす。
それが、初めて足を止めた。止まって、顔のない頭をゆっくりと持ち上げる。その先にあるのは教会で、教会には鐘楼がある。
「……あ」
声が出たのは、シンではない。隣にいた誰かだった。
炎の巨人が、坂の途中で道を外れる。
外れて、家々を踏み越え、まっすぐ、鐘楼へ向かった。
◇
「逃げろ——!」
誰の声だったのか、シンには分からない。
彼は担架の端を放し、代わりに近くにいた老人の腕を掴んで、石段の脇へ転がり込む。転がりながら、綱を引いていた者はどうしただろうかと思う。
鐘楼は、あっけなかった。
巨人の腕が横へ払われ、石積みが中程で折れた。上半分がそのまま坂側へ傾いで、傾いだまま、庭の松を巻き込みながら落ちていった。
途中で綱から外れた鐘のほうが先に地面へ着き、石段を三段ばかり跳ね、縁を大きく欠けさせて、それきり動かなくなる。
音は、しなかった。
いや、したのだろう。あれだけのものが落ちて、音がしないはずがない。
シンの耳には、届いていなかった。
◇
鐘の音が止まった。
いま起きたことのうち、シンにはそれだけしか分からない。
鳴らなくなった途端に、街の音が戻ってきた。
焼け落ちた柱が崩れ、火を消しにかかった者たちの桶が石畳を打ち、どこかの家では繋がれたままの犬が吠えつづけている。そのどれよりも多いのが、名前を呼ぶ声だった。子の名を、親の名を、坂のあちこちで誰かが呼んでいる。
鐘の音が、それだけ大きかったのだ。
◇
「皮肉なもんや。街を守るための守護神さんが、街を壊しとるでぇ」
いつからそこにいたのか、シンは気づいていなかった。オタキラーはフードの奥から、燃えている坂を見ている。
シンは、答えられなかった。
坂の脇に、祠が一つ残っている。丸いものを両手で包む形の、小さな石だ。両側の家が焼け落ちても、それだけは焦げもせずに立っていた。
◇
「鐘や」
オタキラーの言い方が、さっきまでと変わった。
「なんで、あれが真っ先に鐘楼へ行ったんや」
「……大きいからじゃないのか。目立つし」
「ほんなら市場を先に潰しとる。天幕が燃えとるほうが、よっぽど目立つで」
彼は、落ちた鐘楼の跡を見ていた。
「あいつ、坂の途中で道を外れよった。他は通りがかりに壊しとるだけや。まっすぐ行ったのは、あそこだけやで」
◇
「……鐘だ」
後ろから来た声は親方のもので、彼は革の袋を抱えて石段を上がってきた。煤で顔が真っ黒になっている。
「あの鐘楼はな。音を街の底まで届かせるために、細工がしてある」
「細工?」
「昔の仕事だ。俺の代のものじゃない」
親方は、袋を石段へ置いた。
「音に、魔力が乗せてある。そうしないと、坂の下まで通らん」
オタキラーが、短く息を吐いた。
「音と、魔力か」
「そうだ」
「……あかん」
彼は、フードの縁を掴んだ。
「親方。この街に、鐘は他にいくつある」
「三つだ。門の脇と、ギルドと、坑道の詰所」
親方の答えは、考える間もなかった。
「鳴らすな」
オタキラーの声が、初めて張った。
「シン、触れ回れ! 鐘を止めろ! どこの鐘も、誰も鳴らすな!」
◇
シンは走った。走りながら、まだ意味を掴めていなかった。
掴めたのは、坂の下でギルドの鐘が鳴りはじめ、そちらへ、それが顔を向けたときである。
シンの喉が、鳴った。
あの鐘を鳴らしている者は、街を助けようとしている。
「止まりました! ギルドの鐘、止まりました!」
伝令のハーフリングが、坂を駆け上がってくる。
「鳴らしてたのは受付の見習いです。あの、あいつは、その——」
「よくやった、と言っておけ」
ガレスの声だった。
石段の下に、いつのまにか彼が立っている。
「報せようとしたんだ。それだけだろう。誰も、あれを責めるな」
◇
武具屋の奥は、まだ焼けていなかった。
坂の中ほどの、石を厚く積んだ建物である。窓が小さいぶん熱が入りにくいのだと、親方が言った。
その床へ広げられた革の図面は、羊皮が飴色になるほど古く、折り目のところが切れかけていた。親方はその縁を指で押さえながら、一枚ずつ伸ばしていく。
その手は、震えていなかった。
◇
図面の中央に描かれていたのは、人の形をした骨組みだった。背骨と肋骨に似た梁の束で、継ぎ目の一つ一つに寸法と刻印が書き込まれている。
「これは、うちの祖先の仕事だ」
親方は、図面の縁を指で押さえたまま言った。
「鉄も、組み方も、この街のものだ。梁の合わせ方を見れば分かる。……こいつを鍛えた奴は、相当な腕だった」
「じゃあ、あの炎は」
「そこは、書いてない」
彼は、図面の余白を指した。
骨組みの脇に、別の筆跡で短い書き込みがある。シンには読めない字だった。
「魔術のほうは、どこかへ頼んだんだ。誰に頼んだかは、ここには残ってない。……こういうのは、普通は書く。書いてないってことは、書けなかったんだろうよ」
誰も、その先を訊かなかった。
◇
図面の隅に、名前があった。
装飾のない、四角い文字である。親方が、指で埃を払った。
「……焰守、と読める」
「イフリート」
シンは、その音を口の中で繰り返した。
火の守り手がいる、と、あの家の卓で聞いた覚えがあった。
◇
「竜のために作ったんだ」
親方は、図面の下のほうを指した。
「これ一体で竜を止めるつもりだった。……止まらなかったがな」
「なんで動かなかったんですか。街が焼かれたときに」
「使う者がいなかったからだ」
彼は、図面の端に描かれた鍵穴のような印を叩いた。
「こいつは、決まった血筋の者にしか従わん。その者が命じないかぎり、半分の力しか出さん。……いま外を歩いてるのが、その半分だ」
シンは、坂のほうを見た。
窓の小さいこの建物の中にいても、足の裏から熱が上がってくる。
◇
「もう一枚ある」
二枚目に広げられたのは、街の下の図だった。坑道の図とは違い、もっと深いところに丸いものが描かれ、そこから上へ、太い線が伸びている。
「これが、下にある本体だ。あの炎の元だな。ここから、外を歩いてるやつへ魔力が流れてる」
「線が……」
「四本ある」
親方は、それだけ言った。
「切れば、あいつは動けなくなる。全部切ればな」
「切れるんですか」
「切るための道が、ここに描いてある。その道がまだ生きてるかどうかは、知らん」
彼が指を上へ滑らせると、丸いものの真上に、四角い印があった。
「これが炉場だ」
「炉場? 街の?」
「そうだ」
親方の指が、そこで止まった。
「代々、あそこの火を借りて仕事をしてきた。なんで炉場だけ火の持ちがいいのか、誰も考えたことがなかった。……この下に、こいつが眠ってたからだ」
親方は、図面の上の丸いものを、指の腹で一度だけ叩いた。
「あの広間はな、焰守へ祈るための場所だった。上の祠は、その名残だ」
誰も、しばらく口をきかなかった。
◇
「そこに、仕掛けがある」
親方は、四角い印の上を爪でなぞった。
「暴れたときに、骨ごと下へ引き戻すためのものだ。ドワーフは、こういうものを必ず作る。止められん物を作るのは、職人の恥だからな」
「じゃあ、それを使えば」
「三つ要る」
彼は、指を立てなかった。図面へ目を落としたまま続けた。
「あいつを炉場まで連れてくること。下の線を切って、弱らせること。そして、手順を踏むこと」
「手順」
「そこだ」
親方は、口の端を歪めた。
「使われんまま、何百年も経った。誰も踏んでない。書いてはある。書いてはあるが、読める者がいない」
「ドレッシング」
シンが呼んだ。
「読めるか」
ドレッシングは、さっきから図面の隅にしゃがみこんだまま、返事をしない。ずっと同じ場所を見ている。
「……読めるかもしれない」
やがて、彼は言った。
「時間をくれ」
◇
「壊すのは、無理なんですか」
シンは、図面から目を上げて訊いた。
「壊し方が分からん」
親方は、隠さなかった。
「それに、あれはこの街が作った。壊さずに眠らせられるなら、眠らせる」
「また誰かが、起こしたら」
「そのときは、起こした奴がまた眠らせろ」
親方は、革の図面を巻いた。
「道具に罪はない」
◇
外は、まだ明けない。
坂の下では、まだ火を消している。
鐘が鳴らなくなったぶん、その音がよく届いた。水を汲んだ桶が手から手へ渡っていく音と、板を叩いて火の道を切る音とが、小さな窓の隙間から絶え間なく上がってくる。
勢いよく開いた扉から飛び込んできたのは、伝令のハーフリングだった。息が上がって、最初の一言が出てこない。
「落ち着け。水を飲め」
「ミルナさんから、です」
彼は、水を断って言った。
「北の門が、閉まりました。ヴァルド様の私兵が押さえています。……それから、東の水場も」
「水場?」
「はい」
伝令は、まだ息を整えられずにいた。
「井戸へ桶が下ろせません。誰も、近づけないそうです」




