第一話 勝てない
間合いが、読めない。
百年、アミアンはそれを外したことがない。距離は目で測るものではなく、空気の厚みと、足元の傾きと、相手の重心で測る。だから彼女は、暗がりでも刺せる。
いま、その全部が使えなかった。
炎の人型と自分のあいだで、空気そのものが波打っている。景色が縦に伸び、輪郭が引き延ばされて、遠いはずのものが手の届くところにあるように見えた。近いと思って踏み込めば、そこには何もない。
息を吸うたびに、喉の奥が焼けそうになった。
◇
最初に届いたのは、シーザーの刃だった。
「——〘聖刃〙!」
白い光を乗せた刃が、炎の脚へ食い込む。
裂けた。確かに裂けた。
そして、水を斬ったときのように、裂け目は後ろから埋まっていく。白い光は、二つ数えるあいだも保たずに掻き消えた。
「不死者ではない、ということか」
シーザーが盾ごと後ろへ跳ぶ。その声には、悔しさより先に判断が乗っていた。
当たり前だ、とアミアンは思う。あれは死者ではない。死んだことすらない。生きたことのないものだ。
「私が前へ出るわ。誰も入らないで」
◇
右へ回り込みながら、彼女は指を立てた。
「——〘氷刃〙」
冷えた空気の刃が、炎の胴を横へ薙ぐ。
悲鳴のような音がした。炎ではなく、空気のほうが上げた音だ。人型の表面が一瞬だけ濃い赤へ落ち、波打っていた景色が、そこだけ静まる。
距離が戻り、戻ったぶんだけ、アミアンは踏み込んだ。
「一度きりよ!」
「承知!」
薄くなった胴に、黒い点のような窪みが開いていた。その奥に、赤熱した何かがある。
骨組みだ。
「オタキラー、あの奥!」
「見えとる!」
アミアンは両手を前へ出した。集まってくる光が、重い。魔光矢のときとは、指にかかるものがまるで違った。
「——〘魔光槍〙」
白い槍が、まっすぐ窪みへ吸い込まれる。
魔法の槍が外炎の層を突き破り、抜けたところで光は減り細り、赤熱した骨組みまであと一歩というところで散った。散った先から、炎がもう塞ぎにかかっている。
薄くなっていた胴が、彼女の目の前で元の厚さへ戻った。
「……嘘でしょう」
◇
「アミアン、右!」
ドレッシングの声で、彼女は考えるより先に跳んだ。
振り下ろされた炎の腕に、いま立っていた床が抉られて飴のように垂れ、その縁でアミアンの外套の裾が燃えあがる。彼女はそれを地面へ叩きつけて消した。
「なんとなく、わかったぞ」
ドレッシングは、岩の陰から半分だけ顔を出していた。
「あいつ、狙って振ってない。当てにいってるのは、いちばん最後に何かした奴だ」
「どういう意味」
「魔法を撃った奴だよ。あんたが撃つたびに、あんたのほうを向く。斬ったときも同じだった。……こっちが何かすると、そこへ返す。それだけの動き方だ」
「なら、何もしなければいいの?」
「それも駄目だ。何もしなかったら、どっかへ向かってるっぽい」
彼は、天井を指した。
「上へな。さっきから、何度も上を見てる」
◇
「——訊きたい」
シーザーが、オタキラーのほうへ首を回した。
「あれが、あいつの全力なのか?」
「いや」
答えは、短かった。
「命じる者がおらんさかい、力が制限されたままなんや。……本調子やない」
シーザーは、しばらく何も言わなかった。
兜の下で息を整えているのが、アミアンには分かる。焼けて垂れた石。天井から絶え間なく落ちてくる砂。壁のあちこちで、置き去りにされた松明が炎に炙られて自分から燃えていた。
「これで、全力ではないというのか」
誰も、答えなかった。
この街は、これを持っていて、なお竜に焼かれたのだ。
◇
「退くわよ。試掘路から坑口へ、背中を見せずに」
アミアンが声を張ると、復唱が順に返ってきた。前の坑道行きから続けている作法で、誰の口からも返らなければ、誰かが聞いていないということになる。
シンだけが、返さなかった。
広間の隅で、逃げ遅れた教団の男が床の熱に足をやられて転がっており、彼はもうその腕を自分の肩へ回している。
「シン!」
男を背負い上げながら、彼は怒鳴った。
「わかっている! 退く!」
◇
担いだ男を挟んで六人が身を寄せ、試掘路は息苦しいほど狭かった。先に逃げた者たちの落としていった灯りの残骸を踏み越す背中へ、熱が焼き尽くさんと迫ってくる。
振り返るまでもなかった。前を走るシーザーの背が、後ろからの光ではっきりと縁取られている。
「あれ、通れるのか!? この幅だぞ!?」
男を担いだままのシンが、後ろから叫んだ。
「通るわ」
アミアンは、振り返りもせずに答えた。
「形なんて、あってないようなものよ」
実際、そのとおりだった。人型は、狭いところでは細くなる。肩の張りが落ち、腕が縄のように伸びた。定まらない輪郭とは、閊えないという意味でもあったのだ。
坑口の光が見えたとき、アミアンは初めて、外がまだ夜であることを思い出した。
◇
坑口を抜け、ガレスが誘導していた最後の一団を追い越して、六人は坂の上へ走った。
背後で、坑口が飲まれる。
枠が内側から押し広げられ、木組みが弾け、支柱が真ん中から折れる。その音が届いたのは、光が目を灼いたずっとあとだった。
それから、坑口の脇の地面が盛り上がる。
石畳が浮き、割れ、隙間から橙色が噴き出す。噴き出したものは坂の上へ向かって膨らみ、膨らみながら、また人の形へ組み上がっていった。
地下では、天井が低かったのだ、とアミアンは遅れて理解する。
外へ出たそれは、二階建ての屋根に頭が届いていた。
それが、足を大きく上げて踏み込んだ。
石畳が、その足の形に沈む。沈んだ縁から白い煙が上がり、昼のうちに撒かれた打ち水の跡が、たちまち乾いて粉になった。二歩目で、坂の脇に据えてあった水桶が音を立てて空になる。沸いたのではない。中身が、一息に消えたのだ。
◇
すぐ上の段の物干しで、洗濯物が燃えた。
夜のうちに取り込むのを忘れた誰かの白い布が、火の粉も届かないうちに端から茶色く縮れて、干し綱ごといっせいに燃え上がる。
次は、荷車の馬だった。綱を引きちぎり、荷を引いたまま坂を駆け下りていく。途中で外れた荷から樽が転がり出て、石垣に当たって割れた。
戸口から、窓から。何が起きたのかを見に人が出てくる。そして、見た。
悲鳴は、上がらない。
坂の中ほどで、一人の男が指をさしていた。腕だけを上げて、口を開けたまま、隣の女に何かを伝えようとしている。声は出ていない。女はその指の先を見て、それから男の袖を掴み、二人とも動かなくなった。
声が戻ってきたのは、そのあとである。
どこかで女が子供の名を呼び、その声を追いかけるように、坂じゅうで戸が鳴りはじめる。閉める者がいて、開ける者がいて、開けたまま飛び出してくる者がいた。荷を抱えて坂を下る者と、家財を取りに戻る者が、同じ道の上ですれ違っている。
誰も、まだ逃げ方を知らなかった。
アミアンは、レイピアの柄を握り直した。掌が汗で滑って、いくら握っても手応えが薄くなるのを感じていた。
◇
「アミアンさん!」
シンの声だった。
彼は担いできた男を、駆け下りてきた教会の司祭へ預けているところだった。
「どうする!」
「私に訊かないで」
答えてから、自分の声が思ったより低いことに、彼女は気づく。
「訊いていいのは、あれを止められる人よ。私たちの中に、いる?」
誰も、返さなかった。
◇
そのとき、鐘が鳴った。
坂の上の教会である。
一度、二度、三度。間を置かずに、続けて。
誰かが綱を引いている。街の者が、この夜の異変を街じゅうへ報せようとしていた。
音は坂を下り、石畳の上を滑り、市場を越えて、坑道の口のあたりまではっきりと届く。
アミアンは、その音を聞いた。
街の誰もが、その音を聞いていた。




