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第七話 呼んではならないもの

「全員、奥へ! 石扉の向こうへ!」


 シンは怒鳴っていた。

 人は動いている。動いてはいるが、信者たちは自分たちが思うほど速く動けない。老人がいて、赤子がいて、腕を吊った者がいる。

 その足元で、床石の傾きが増していた。橙色の筋が、指ほどの太さになっている。


「オタキラー! 止められないのか!」

「もう止まらん」


 オタキラーは、床の光から目を離さない。


「これは呼ぶ術やない。呼ぶ機械や。歯車が回りはじめとる。上の線を切ったところで、回っとるもんは止まらんで」

「じゃあ——」

「逃がすほうが早い」


 シンは、それを一度で飲み込んだ。

 止められないなら、逃がす。


「シーザーどの、奥の扉! 人が詰まる!」

「承知!」

「ドレッシング、そっちの扉! 閉まらないようにしろ!」

「石を噛ませてある! 勝手には閉まらねえ!」

「アンリさんは、自分で歩けない人から! アミアンさん、いちばん後ろ! 人が固まってる!」

「見えてるわ」


 流れが、できはじめた。

 教団の人々が二つの扉へ分かれ、上の口ではガレスと役人が受け、ミルナが数を読み上げている。

 サディアは、動かない者の背を押していた。最後に出る気なのだと、シンにも分かる。


       ◇


 残りが十人ほどになったところで、音が消えた。

 消えた、というのが、いちばん近い。

 それまで広間には逃げる者たちの足音があり、押し殺した声があり、松明の爆ぜる音があった。それが、一斉に遠のいた。

 耳が塞がったのではない。音が、届く前に吸われている。

 シンは、自分の靴が石を擦る音を聞こうとした。

 聞こえなかった。

 喉が乾く。唾を飲もうとして、飲むものがない。息を吸うと、鼻の奥が痛んだ。空気が、乾ききっている。

 床石が、外れた。

 その音も、しなかった。


       ◇


 穴から先に出てきたのは、炎ではなかった。

 鉄だった。

 人の背骨と肋骨に似た形へ組まれた、太い梁の束である。赤熱していて、継ぎ目の一つ一つに古い鏨(たがね)の跡が残っていた。それは床の高さまで押し上げられ、そこで止まる。

 止まったまま、動かない。

 シンは、その形をどこかで見たと思った。武具屋の奥で、親方が卓へ置いた小さな胸当て。あの留め具と同じ律儀さで、この梁は継がれている。

 次に、下から炎が来た。

 噴き上がったのではない。溢れたのだ。穴の縁から粘るように盛り上がり、赤熱した梁へ絡みつき、隙間という隙間を埋めていく。

 埋め終わった瞬間、梁が動いた。

 肘に当たるところが、曲がったのだ。

 シンは息を止める。さっきまでただの鉄だったものが、いま、内側から動かされていた。炎が乗り移った、としか言いようのない動き方だった。

 立ち上がると、高さはシーザーの倍ほどある。

 腕があり、脚があり、頭がある。だが輪郭は定まらない。肩の線が見ているあいだに崩れ、また結び直される。左腕が半ばから薄れて向こうの壁が透け、透けたと思うと、また濃く戻った。あることと無いことのあいだで、その体は揺れている。

 顔は、なかった。目も口も鼻もない。頭の形をした炎が、そこに乗っているだけである。

 そして、足の裏に。

 シンは、それを踏んでいる床から受け取った。

 何かが、下で張ったのだ。

 糸か綱を、ぴんと引き絞ったときの手応えである。それが一つではないことだけは分かった。いくつなのかは、分からない。ずっと深いところから、何かが吸い上げられて上がってくる。

 彼は、それが何なのかを知らなかった。


       ◇


「……ああ」


 声は、シンの後ろからだった。

 レイフである。

 焼けた腕を押さえたまま、彼は立ち上がっていた。その顔は明るい。祈りが届いた者の顔だった。


「起きた」

「レイフ様、下がって——」

「起きたんだ、サディアさん! やっぱり、いたんだ!」


 彼が一歩、前へ出る。

 二歩目で、シンが腕を伸ばした。

 届かない。半歩ぶん足りなかった。


「ありがとうございます」


 レイフは、炎へ向かって頭を下げた。


「この街を、守ってください」


 頭の形をした部分が、動いた。

 彼のほうを、向いたのだ。

 シンは走った。走りながら、この距離では届かないと分かっていた。ドレッシングの刃も、アミアンの光も、シーザーの盾も、間に合う位置にない。

 炎が、腕を上げる。

 音は、しなかった。

 空気が一度、内側へ吸い込まれた。

 それから——

 シンは、目を閉じられなかった。

 白が広間を塗り潰し、白がすぐ橙へ変わり、橙が薄れたあと、そこには何もなかった。

 誰の声もしない。悲鳴もない。

 あるべき音が、全部、抜け落ちていた。

 床に、外套の留め金が一つ落ちていた。


       ◇


「レイフ——!」


 サディアの声が、静寂を裂いた。

 走ろうとした彼女を、腕を吊った男が抱き止める。男は泣きながら、彼女を後ろへ引きずっていた。


「違う」


 声が、掠れていた。


「違います。あなたは、私どもの——」


 言葉が、そこで途切れた。

 男の腕が緩んでも、彼女は動かない。

 やがて膝をつき、床の留め金を拾い、両手で包んで埃を払った。丁寧な払い方だった。子供の襟を直してやるときの手つきである。

 シンは、その手を見ていた。

 悼んでいる、と思った。この人は、本当に悼んでいる。

 サディアが、顔を上げた。


「……ああ」


 息を吐くような声だった。


「そうですね」


 留め金を、胸のところで握り直す。


「あの子は、受け入れられたのです」


 シンの背中を、冷たいものが走った。

 悲鳴ではない。怒りでもない。

 納得が、来たのだ。


「よかった」


 サディアは、そう言った。

 優しい声だった。留め金の埃を払った手と同じ手が、その言葉を言っている。

 炎は、答えない。答えるための口を、それは持っていなかった。

 ただ、頭の形をした部分が、ゆっくりと動く。

 広間を、見回していた。

 教団の人々を。武装した男たちを。六人を。石扉の向こうの、上へ続く道を。

 その動きに、意思はない。怒りも憎しみもなかった。ただ、そこに何があるかを順に見ている。畑の畝を数える目つきに似ていた。


「……なんだ、あれ」


 シンの声が、震えた。


「怒ってるんじゃない。あれ、俺たちのこと——」

「見とるだけや」


 オタキラーが、後ろから言った。


「見て、数えとる。どっちが敵かも分かってへん。……あれには、命じる者がおらんのや」

「命じる?」

「あれは兵器や、シン」


 声が、低い。


「使われるために作られたもんが、使う者のおらんまま起きてしもうた」


       ◇


「全員、上へ! 走れ!」


 ガレスの声が、扉の向こうから飛んだ。

 残っていた人々が、いっせいに動く。

 シンは、動けない者の腕を掴んで走った。シーザーが二人を担ぎ、アンリが老人の背を押し、アミアンが最後尾についた。

 その混乱の中を、影が一つ、壇へ走る。

 武装した男の一人だった。

 彼は床へ弾き飛ばされていた本を拾い上げ、外套の内側へ押し込むと、上への石扉へ向かった。


「おい——!」


 ドレッシングが叫んだが、追える距離ではない。

 男は、扉の向こうへ消えた。


       ◇


 そのとき、上のほうで音がした。

 鐘だった。

 街の鐘が、鳴っている。

 井戸だろう、とシンは思った。街じゅうの井戸が泡を噴いていると、ガレスが言っていた。誰かが異変に気づいて、鐘を鳴らしはじめたのだ。

 遠い。石を何層も隔てた、ごく微かな音である。

 それでも、その音は確かに届いている。

 炎の人型が、動きを止めた。

 それまで広間を順に見回していた頭が、ぴたりと止まる。

 そして、ゆっくりと上を向いた。

 顔のない頭が、天井の一点へ——鐘の音の来るほうへ、まっすぐに向いている。

 鐘は、鳴りつづけていた。

 シンの背中が、冷たくなった。

 あれはいま、街の方角を見ている。


「ガレスさん!」

「見えてる」


 老ドワーフは、石扉の縁を掴んでいた。

 その声から、初めて余裕が消えていた。


「地上へ行かせるな」


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