第六話 止めるには、遅い
アンリが最初に見たのは、顔だった。
武装した四人が広間へ入った瞬間、信者たちの顔から同じものが抜け落ちる。怯えではない。困惑だった。この人たちは、自分たちがいま何を言われているのかを、うまく飲み込めずにいた。
「あの……秘宝、と仰いましたか」
サディアが訊いた。声は、卓を囲んでいたときと変わらない。
「そうだ」
「ここにあるのは、この街を守るものですよ」
「同じことだろう」
男は、松明を壇の縁へ挿した。
「守ろうが売ろうが、掘り出したものは地主のものだ。それが決まりなんだよ」
「私どもは、掘り出しに来たのではありません」
「では、その本は何だ」
サディアの言葉が、そこで一度切れた。
その一拍を、アンリは見逃さない。
この人はいま、自分たちのしていることを、初めて外側から見た。
「皆様」
アンリは、前へ出た。
僧衣は目立つ。広間じゅうの目がこちらへ向き、武装した男たちの目も向いた。
「一つだけ、聞いてください」
「教会の娘か」
「僧侶です」
頭は下げなかった。下げれば、この場の向きが向こうへ渡る。
「地下のものが、決まった方にしか従わないのだとしたら。その決まりを飛び越える手順を使って、何も起きないとお思いですか」
「起きるも何も——」
「起きます」
アンリは、言い切った。
「決まりというものは、たいてい、誰かが痛い目に遭ったあとで作られます」
サディアの目が、揺れた。
揺れたのだ、と、アンリは自分に念を押す。
◇
「兄さん、右をお願いします」
「承知」
鎧の音を立てて、シーザーが広間の中央へ出ていった。
抜いてはいない。盾も背に負ったままである。ただ、大きな体を、武装した男たちと教団の人々のあいだへ差し入れた。それだけで、双方の距離が一歩ぶん広がる。
「どけ」
「断る」
「七等が——」
「等級の話をしているのではない」
シーザーは動かない。
「ここには、刃物を持たぬ者が大勢いる。あなた方は四人だ。私は、間に立っているだけだ」
アンリはその背を目の端に置いたまま、周りへ声を掛けた。
「壇から離れてください。ゆっくりで結構です。押さないで」
人が動きはじめる。
動きはじめたところで、後ろで悲鳴が上がった。杖の老人が躓き、その脇で若い母親が赤子を庇って身を屈めている。流れが乱れ、押し合いになりかけていた。
「——〘加護詞〙」
温かいものが、床を這う。
押し合いが、解けた。誰かが動きを止めたのではない。慌てていた者が、一度だけ落ち着いたのだ。転んだ老人へ手が伸び、母親の背を支える者が出る。
「順に、壁際へ。大丈夫です。落ち着いて行動してください」
◇
そのあいだ、ドレッシングは床にいた。
膝をつき、袖で床を擦り、短刀の背を寝かせて窪みの粉を掻き出している。指の入らない、浅い溝だった。
「どのくらい」
「五十数えろ」
「三十で頼む」
「無茶を言うなよぉ」
シンは、その脇に立っている。
剣は抜いていない。抜きたい衝動は、何度も来た。壇へ走って本を叩き落とせば終わる、と体のほうが言う。
止めているのは、さっきの説明だった。
——線が二種類ある。古い彫りは、下へ繋がっとる。
叩き落としても、床の線は残る。残った線がどこへ届いているのかを、彼は知らない。
知らないことをやるな。教えたのは、この街だ。
「オタキラー」
「なんや」
「中央の蓋、剣で叩き割ったらどうなる」
「やめとけ」
即答だった。
「あれは開けるためのもんやない。閉めるためのもんや。閉めてあるもんを外から壊したら、何が出るか分からんで」
「分かった」
シンは柄から手を離し、その手で広間の反対側を指した。
「アミアンさん。壇の左、床の高いところ。何か光ってないか」
「……あるわ。小さいのが二つ。石が嵌まってる」
「オタキラー、あれは」
「線の中継や。潰したら、そこから先へ流れん」
「届くか」
「届くわ」
アミアンが、指を上げた。
「——〘魔光矢〙」
白い光が二つ、人の頭の上を越えていく。
小さな破裂音がして、嵌まっていた石が砕けた。床の白い線が、そこで途切れる。
外側は、それで終わりだった。
「残るのは、壇の下だけね」
アミアンはレイピアを鞘へ収め、代わりに両手を前へ出した。
指先へ、光が集まりはじめる。さっきのほのかな白ではない。もっと濃く、もっと重い。空気が指の周りで軋み、彼女の髪の先がわずかに浮いた。
「シン。蓋の鋲を撃つわ。魔光槍なら、四つのうち二つは飛ぶ。蓋が浮けば、下の線に手が届く」
「威力は」
「壁は破れないわ。でも人なら、胸から背中まで抜ける」
声は、平坦だった。
「まっすぐよ。壇の手前から奥まで、その線の上に誰も置かないで」
「分かった」
シンが、走る。
◇
ここから先を、アンリは後ろから見ていた。
シンは誰も怒鳴らず、誰も押しのけない。壇の手前で両腕を横へ広げ、そこから広間の奥まで、人を左右へ分けていく。
「この上、空けてくれ! 右でも左でもいい、真ん中だけ!」
「何をする気だ」
「あんたらの本を守るためだ!」
彼は、武装した男へ向かって叫んだ。
「その蓋を開けなきゃ、床の線が切れない。線が切れなきゃ、下のものが起きる。起きたら、あんたの言う秘宝だって無事じゃ済まないぞ!」
男の足が、止まった。
止まったのだ、とアンリは思う。この人はいま初めて、自分の欲しがっているものが壊れる側にもなり得ると考えた。
「兄さん!」
「承知!」
シーザーが道の中ほどへ立ち、まだ動けずにいた三人を盾の内側へ抱えるようにして、外へ運んだ。
道が、通る。
「アミアンさん、あと少し——」
言い終わる前に、広間の奥の石扉から、新しい灯りが差した。
◇
松明が、四つ、五つと続く。
その真ん中を、外套の裾を石へ触れさせまいとして歩く男がいた。
ヴァルドである。
彼はまず天井を見た。それから壇を見て、卓の本を見た。人は、最後まで見なかった。
「あった」
声が、わずかに上ずっている。
「掘れ。今夜のうちだ」
「旦那様、上が塞がりました。役所と、ギルドの受付が」
「掘れと言っている」
配下の言葉を、彼は終わりまで聞かない。
「あれは私のものだ」
アミアンの指先で、集まりきった光が行き場を失った。
松明の一団が、彼女の通した直線を、そのまま横切っていったからである。
「駄目。人がいるわ」
◇
サディアが、壇を降りた。
降りて、卿の前に立つ。背丈は卿のほうが頭一つ高い。それでも、先に足を止めたのは卿のほうだった。
「ヴァルド様」
「どけ」
「これは、金塊ではありません」
声の高さは、いつもと同じである。
「あの方を裏切り者と呼んだ世界に、思い知らせる力です」
アンリは、その一言を頭の中で聞き直す。
街を守るためのものです、と、この人は言っていた。あの晩、同じ卓で、同じ声で。
いま、同じ口から別のものが出た。
温度は、少しも変わっていない。
「思い知らせる、だと」
卿が笑った。
「言葉遊びは結構だ。掘るのは私の土地だぞ。私の倉へ、私の車で運ばせたのだからな」
「ええ。運んでくださいました」
サディアは頷いた。
「よく運んでくださいました。西の倉も、夜のお車も、届けの写しも」
「当然だ。私が雇ったのだからな」
「ヴァルド様」
彼女は、少しだけ首を傾けた。
子供の言い間違いを直すときの、ああいう傾け方だった。
「秘宝のお話。誰があなたの耳に入れたと、お思いですか」
卿の口が、開いた。
開いたまま、次が出てこない。
彼はゆっくりと後ろを振り返る。松明を持った配下の、その少し外に、若い男が立っていた。
レイフである。
卿と目が合うと、彼は困った顔をして、それからサディアのほうを見た。咎められた子供が、親を探すときの目だった。
「……お前」
「旦那様には、よくしていただきました」
レイフは、そう言った。
悪意はない。彼は本当に、そう思っている。
「馬鹿な。私は、闇の僧侶の残党を雇っただけだ」
「その名で、あの方を呼ばないでいただけますか」
サディアが、初めて人の言葉を遮った。
声は荒げていない。速くもなっていない。周りの温度だけが、急激に下がった気がした。
◇
彼女は卿から目を離し、祈っていた人たちのほうを向いた。
「あの方は、名乗りませんでした。名乗らないまま私どもを拾って、何も持たずに行かれた。世は、あの方を裏切り者と呼びます。呼ばせておけばよいのです。私どもが知っております。あの方が、どれほど——」
「あいつなあ」
オタキラーの声だった。
岩陰から出てさえいない。あんまり普通の調子で言ったものだから、広間の全員がそちらを向いた。
「そんな大層なこと考えて動いとらんで」
「ああ」
ドレッシングが引き取った。
「本能の赴くままに、やることやってるだけだ」
二人とも、否定はしていない。悪く言ってもいない。近所に住んでいる男の話をするときの言い方だった。何度もその男を見て、何度も呆れたことのある者の言い方である。
「なんで知って——」
シンが言いかけ、言い終わらなかった。
「お前たちに」
サディアの声が、広間を打った。
「あの方の、何が分かる」
アンリは、息を止める。
この人が声を荒げるところを、誰も見たことがない。信者たちの、誰も。壇の燭の炎が、その声で揺れたように見えた。
シンの問いは、その下で潰れて消えた。
◇
「サディア様」
アンリは、前へ出た。
「疑うことも、祈りのうちです」
サディアが、こちらを見る。
その目に、怒りはもうなかった。憐れみでもない。
ただ、通じなかった。
言葉が届き、意味も届いて、そのうえで何も動かない。アンリには、それが分かってしまった。
「あなたは、お優しい方ですね」
サディアはそう言って、壇へ戻っていく。
「サディア様! 決まりを飛び越えたら、何が起きるか——」
「伺いました」
彼女は、卓の本へ手を置いた。
「それでも、です」
◇
頁が、めくられた。
サディアは右の掌へ白い粉を取り、壇の足元へ膝をつく。
古い彫りと新しい線が、一箇所だけ繋がらずに残っている場所がある。ドレッシングが掻き出した、その先だ。
彼女は、そこへ指を下ろした。
人が一人、床へ短い線を引いただけだった。
「やめろ——!」
シンが走る。ドレッシングが床を蹴り、アミアンの指先で光が膨らみ、シーザーが盾を掲げ、オタキラーが何かを叫んだ。
六人とも、動いて——誰も、間に合わなかった。
◇
床の下で、金属の軋む音がした。遠い。とても遠い。それでも、確かに真下から来た音だ。噛み合っていた歯車が、力ずくで別の位置へずらされたような音だった。
シンの靴底へ、じわりと血の通うような温もりが上がってくる。
石の床が、下から温められ、壇の燭が、いっせいに傾いだ。
風はない。
卓の本が、ひとりでに開く。
レイフが、壇へ駆け上がった。
「サディア様、頁が——」
伸ばした指が、紙に触れる直前で止まる。
止まったのではない。触れられなかったのだ。開いた本の上で、空気が陽炎のように歪んでいた。
「熱っ——」
「レイフ様、下がって!」
アンリが走り、その前を鎧が横切った。
「——〘護誓〙!」
シーザーの盾に、淡い光が灯る。
「陽光の神よ」
祈りは、短い。
彼はレイフの体を左腕で抱え、盾を壇へ向けたまま、その場で膝をついた。
壇から、熱風が吹き荒れる。炎ではない。ただの熱だ。それが盾に当たって光が散り、兜の縁が白く曇った。
盾を下ろし、シーザーはレイフの焦げた袖へ手を当てる。
「大地の神よ」
同じ口から、違う名が出た。
「——〘癒手〙」
「アンリ、こちらは持ちこたえる。奥だ」
「はい!」
アンリは奥へ回り、動ける者から順に外へ出した。数えている暇はない。
◇
シンは、壇の前にいた。
本にも蓋にも触れない。代わりに、まだ広間に残っている人の頭を数えている。
「ドレッシング! そっちは!」
「線は切った! 切ったのに止まらねえ!」
ドレッシングが立ち上がる。彼が掻き出した白い線は、確かに途切れていた。それなのに、床石の隙間から光が漏れている。
白い粉ではない。床の下だ。彫り込まれた古い溝の底が、内側から橙色に光っていた。
「上の線が、もう要らなくなってる」
「どういう意味だ!」
「下で繋がったんだよ。あの人が、線を継いだところで」
石扉が、大きく開いた。
ガレスだった。役人と、ミルナと、親方が続いている。
だがガレスは、彼らを止めるように腕を横へ出した。
「全員、上がれ」
「あんた——」
「井戸だ」
声が、低い。
「街の井戸が、泡を噴いて煮えてやがる」
◇
シンは、足の裏でそれを感じた。
床が、動いた。
崩れたのではない。落ちたのでもない。
持ち上がったのだ。
広間の中央、壇の足元の床石が、内側から押されて、わずかに傾ぐ。
石と石の隙間から、橙色の光が、細く、まっすぐに立ち上った。




