第五話 持ち去られた本
夜間の入坑には届けが要る。ミルナが判を押し、ガレスが名を連ねた。
板へ自分の名を書き入れたとき、シンの指先は、思ったほど言うことを聞かなかった。
詰所の灯りはとうに落ちている。窓の内側で、当直のドワーフが片目だけ開けてこちらを見ている。
「二手に分かれる」
ガレスが、鶴嘴の柄で坂の上を指した。
「わしは上から行く。資材庫の錠は、ギルドの立会いがあれば役人が開ける。ミルナが手配した。役人が来るまで、あの建物の前で待つ」
「待つんですか」
「待つんだ」
鶴嘴の柄を肩へ預けたまま、ガレスはシンを見た。
「勝手に押し入れば、こっちが咎人になる。あの男が突いてくるのは、そこだ」
「じゃあ、俺たちは」
「下から行け。あんたらが開けた石扉から入れる」
「間に合いますか」
「間に合わせろ」
◇
道は、覚えている。
二度通った道である。分岐にはチョークの印が残っていて、前に打てなかった場所へも、帰りに打ち足してあった。
走らない、とドレッシングが決めた。走れば灯りが暴れ、暴れれば見落とす。六人はその速さを守って、確実に下りていった。
例の広間を抜ける。グールの群れは、いなかった。爪音が遠くで一度だけ鳴って、それきり近づいてこない。
「……いないほうが気味悪いな」
「下が温いのよ」
アミアンが壁へ掌を当て、そのまましばらく押さえていた。
「石が温いわ。この前より、はっきりと」
シンも壁へ触れる。人の肌ほどではない。それでも、地下の石が持っているはずの冷たさが、そこから抜け落ちていた。
◇
隠し扉の先で、通路が二又になっていた。
前に来たときは迷わず下りを選んだ。今度はドレッシングが上りのほうへ首を突き出して、すぐに引っ込めた。
「こっちも道だな。上へ出るんだろ。……行かないぞ、そっちは」
下りへ向き直ったところで、彼の足が止まる。
「待て」
通路の床が、白かった。
砂かと思って灯りを寄せ、シンは息を止めた。壁と床の境目に、灰白色の茸が群れて生えている。傘の縁が細かく震え、そのたび、粉のようなものが立ちのぼっていた。
立ちのぼった粉は、落ちてこない。通路の半ばまで、白く漂ったままである。
「墓塵茸ね」
「知ってるのか」
「坑道の茸よ。胞子を吸うと咳が止まらなくなるの。ひどいと、自分がどっちを向いているのかも分からなくなるわ」
「引き返すか?」
「他に道がありません」
アンリが前へ出て、水筒の栓を抜いた。
「濡らした布を、口と鼻に。皆様、必ずです」
布が回された。シンは口元へ押し当て、染みてくる冷たさに顔をしかめる。
アンリは自分の布を当てるより先に、杖を掲げた。
「——〘浄息〙」
風が吹いたわけではない。六人の息の届く範囲だけが、澄んだ。白い漂いが、見えない膜に押しのけられて輪の外へ寄っていく。
「息を止めないでください。あとで深く吸ってしまいますから」
「これ、どのくらい保つんだ」
「短いです。走らず、止まらず」
白い通路を抜けきったところで、輪が解けた。振り返ると、押しのけられていた漂いが、ゆっくりと元の濃さへ戻っていく。
「アンリさん、便利すぎないか」
「便利ではありません。使ったぶん、疲れます」
◇
唱和は、その先で聞こえた。
前より近く、前より厚い。
灯りを絞って岩陰から覗くと、広間の人数が増えていた。
中央に石を組んだ壇があり、その上に燭が円を描いて並べてある。円の芯に、卓が一つ。
卓の上に、本があった。
厚い本である。表紙は黒く、金具で綴じてある。光ってもいないし、禍々しい形でもない。ただの古い本にしか見えない。
だからシンは、右で足音が途切れたことの意味を、しばらく取り違えていた。
オタキラーが、止まっている。
本を見たまま、動かない。フードの奥で、青と翠の目が大きく開いていた。ローブの合わせへ差し込みかけた手が、そこで止まったまま忘れられている。
「……オタキラー?」
返事は、なかった。
「あの本、知ってるのか」
それでも返らない。唱和だけが、二人のあいだを埋めていく。
「知ってるのかって、訊いてるんだ」
「シン」
ようやく口が動いた。だが、問いには当たらなかった。
「あれを、開かせたらあかん」
「答えろよ」
「片が付いたら話したる」
継がせない言い方である。シンは、二の句を継げなかった。
広間の唱和が一度だけ乱れ、六人は身を沈める。旋律は、すぐに元へ戻った。
「……開いたら、何が起きるんだ」
「分からん」
「分からないのか」
「本当に分からん」
オタキラーの声は、早口ではなかった。
「あれが何のための本かは知っとる。せやけど、あの人らがここで使うたときに何が起きるかは、わいにも読めん。……読めんから、危ないんや」
◇
「シン様。壇の下を」
アンリの指した先へ、シンは目を凝らした。
壇の足元の床に、線が引かれている。
白い線だった。石粉か、砕いた貝殻か。円と、それを横切る幾何の模様が、壇を芯にして広間いっぱいへ広がっている。
新しい線ではなかった。線の一部は床石そのものに彫り込まれていて、その古い溝の上を、白い粉がなぞっている。誰かが埋もれた模様を掘り起こし、上から書き足したのだ。
「あの模様、床に元からあったのか」
「そうやろな」
オタキラーが懐へ手を入れ、残り二枚のうちの一枚を抜いた。
「見とき。一枚使うで」
「見えるのか、それで」
「痕が見えるだけや」
封が弾けた。
「〘透眼〙」
シンの目に、変化はない。
オタキラーにだけ何かが見えていると分かったのは、彼の顎の動きからだった。広間の床を、右から左へ、ゆっくりと視線で舐めていく。途中で、それが止まった。
「……なるほどな」
「何が見える」
「線が二種類ある」
彼は、床の模様をなぞる手つきをしてみせた。
「古い彫りのほうは綺麗や。太さも間隔も揃うとる。作った奴は相当な腕やで。ほんで、こいつは下へ繋がっとる」
「下?」
「床の下や。壇の足元で潜って、そこからずっと深いところまで伸びとる。どこまでかは分からん」
彼は、視線を戻した。
「新しい白い粉のほうは、古い線に重ねてあるように見えて、ところどころ外しとる。わざとや。古い道順を避けて、別のところへ繋ぎ直しとる」
術の切れた目を、彼は指で軽く揉んだ。
「元の持ち主に断らんと、勝手口から入るための線やな」
◇
ドレッシングは、その説明を最後まで聞いていなかった。
途中からもう、彼の目は床の上を這っている。
「オタキラー。新しいのがどれか、もう一回」
「壇の右を回っとるやつと、左の縁を這っとるやつ。あとは、中央へ寄っとるほうや」
「……見えた」
彼は岩陰から半身を出した。灯りの届かない場所である。それでも燭の明かりが、床の白を浮かび上がらせていた。
「外側は楽だ。粉で描いた線ってのは、繋がってなきゃ意味がない。床の継ぎ目のところは粉が薄いから、擦れば終わる。縁を這ってるのは窪みに溜まってるぶん手間はかかるが、掻き出せば済む」
そこで、彼の口調が落ちた。
「問題は、壇の下だ」
シンは目を凝らした。
壇の足元に、鉄の板が嵌め込まれている。四隅を太い鋲で留めた、古い蓋だった。表面に何かが彫ってある。粉ではなく、鉄そのものへ、深く。
「あの蓋、こじ開けようとした跡がある。鋲の周りが削れてる。だが、開いてない」
「開かないなら、そのままでいいんじゃないのか」
「逆だ」
ドレッシングは首を振った。
「開かないから、迂回したんだよ。あの白い線は、蓋を開けずに向こうへ届かせるための線だ」
シンは、集団の背中を見た。
誰も刃物を提げていない。誰も争っていない。ただ揃って、一つの旋律を唱えている。
その足元で、線は静かに繋がろうとしていた。
「行こう」
シンは立ち上がった。
「押さえつけるんじゃない。話す。話して駄目なら、線を切る」
ドレッシングが、床の粉をすくう手つきをした。
「切るのは俺なんだよなぁ。外側はやるよ。窪みのほうは誰か手伝え」
真っ先に前へ出たのは、アミアンである。
「私が」
だが、シンは首を振って壇のほうを指し、それからシーザーへ目をやった。
「アミアンさんは、そっちを頼む。誰かが蓋に触ろうとしたら止めてくれ。窪みは、シーザーどの」
灯りを絞ったまま、六人は岩陰を出た。
◇
出た瞬間、広間の反対側で石が鳴った。
扉の開く音である。六人の入ってきた側ではない。壇の向こう、広間の奥だった。
差し込んできたのは松明の光だ。それも、一つではない。
入ってきたのは四人。全員が革の鎧を着け、剣を提げ、冒険者のギルド証を胸に下げていた。先頭の男の顔に、シンは見覚えがあった。ギルドの二階で、卿の後ろに立っていた男である。
唱和が乱れ、途切れた。全員の目が、いっせいにそちらを向く。
「レイフはどこだ」
先頭の男が、松明を掲げたまま言った。
「本は、そこか」
「あの、まだ手順が済んで——」
「手順はいい」
男は壇へ向かって歩き出す。教団の人々が慌てて道を空けた。空けてしまった。争うということを知らない人たちだった。
男は壇の前で立ち止まり、卓の上の本へ手を伸ばしかけて、その手を止める。
止めて、広間を見回した。六人を見つけて、口の端をわずかに上げる。
「聞いていたとおりだな。七等が」
「あんた——」
「言っておく」
男は、松明を高くした。
「この下にあるものは、ヴァルド卿の所有だ。この土地の権利は卿にある。地下から出たものも、同じことだ」
彼は、信者たちの顔を順に見た。
「秘宝は卿のものだ。誰も、手を触れるな」




