第四話 名もない教団
ギルドの卓には、鍵の話が残っていた。
資材庫の錠を開けるには、役所の立会いが要る。立会いを立てるには申し立てが要り、申し立てには、あの建物へ入るだけの理由が要る。そして理由を作るには、中を見なければならない。
どこかで輪になっている、とアンリは思った。
「向こうからは入れんな」
ガレスが、三枚の写しを卓の端へ寄せた。
「なら、逆から行く」
「逆?」
「地下にいた連中のほうだ」
彼は、地図の上へ指を置いた。
「あの広間に、四十人からいた。それだけの人数が夜ごとあそこへ下りているなら、街のどこかから出てきているはずだ。人は地面から湧かん」
「探すのはいいけどよ」
ドレッシングが、椅子の背へ体を預けた。
「相手は、アシュタロスを拝む連中なんだろ」
その名が出た途端、卓の温度が下がった。
「……アシュタロス教団って、なんだ」
口を開いたのは、シンだった。
声が、いつもより低い。
「なんで、あんな奴を拝む奴らがいるんだ」
アンリは、彼の手元を見た。卓の縁にかかった指が、白くなっている。
「あいつが裏切ったせいで、魔王はまだ生きてるんだぞ」
誰も、何も言わなかった。
オタキラーはフードを上げず、ドレッシングは椅子へ体を預けたまま、天井のほうへ目をやっている。頷きもしなければ、違うとも言わない。
話しづらい話題なのだろう、とアンリは思った。
やがて、シンが冷たい怒りを込めて言い放った。
「俺の国、ローエンガルドを含む五大国じゃ、あいつは禁忌扱いなんだ。名前を出すだけで席を立つやつがいる。ずっと昔に、あいつにまつわるものは全部灰になった。口の端に乗せることさえも、出すな、で終わりなんだ」
「まぁ、五大国では、暴れまわって、かなりの組織が丸ごと焼かれとったからなぁ」
オタキラーが引き取った。
「ほんまかどうかは分からん。誰がやったかも分からん。そのあとに、決まって教団の噂が立つ。人が消える、いう話も付いて回る。……ようは、化け物の集まりっちゅう扱いや」
「教会でも、禁忌となっています」
アンリも、言わなければならなかった。
「名を挙げることも、祈りの数に入れることも、認められてはおりません。破門の理由になります」
言いながら、自分の声が硬いのが分かる。
その名を口にしたのは、これが初めてだった。
シンは、しばらく黙っていた。
「……だけど」
彼は、卓の縁から指を離した。
「それでも行く。子供がいたんだ、あそこに」
「行くのか?」
シーザーが訊いた。
「行くよ」
シンが答えた。
「けど、剣は抜かないよ。抜くのは、向こうが抜いてからだ」
アンリは、そこで手を挙げた。
「先に、私が行ってもよろしいですか」
「一人でか」
「教会へです」
彼女は、坂の上のほうを指した。
「うちの司祭なら、街の祈りのことをご存知かもしれません。……こちらの祈りではない集まりのことも」
「司祭が、そんなことを知っているか」
「存じません、と仰るかもしれません」
アンリは、僧衣の襟へ指を掛けた。
「ですが、僧衣で訊けば、少なくとも門前払いにはなりません」
ガレスが、鼻から息を抜いた。
「そうか。行くなら行ってこい。日が落ちる前にな」
◇
訊いてしまってから、アンリは、司祭の沈黙の長さに気づいた。
祭壇の蝋燭が一本、芯を傾けたまま煤を上げている。ドワーフの司祭はそれを指で立て直し、掌についた蝋を前掛けで拭ってから、ようやく口を開いた。
「……おります」
この街に、西方教会とは別の祈りをしている人たちはいるか。アンリの問いは、それだけのものだった。
「咎めてはおりません。あの方たちは、朝夕の鐘を鳴らすのも、この堂の掃除も、率先して手伝ってくださる」
「どのような方々なのでしょう」
「普通の方々です」
司祭は、炎から目を離さない。
「三年ばかり前でしたか。坂下の、水の悪い区画で流行り病が出ました。うちも手は尽くしましたが、薬が続かなかった。あのとき、どこからか薬と食べ物が回ってきたのです」
「どちらから」
「存じません」
首の振り方に、迷いはなかった。分からないものを分からないと言うことに慣れた人の振り方だった。
「ただ、それを一軒ずつ配って歩いた方たちがおりました。いま集まっておられるのは、そのときの繋がりです」
「その方々が、何を拝んでいるかご存知ですか?」
「拝む先までは、存じません」
司祭は、そこで初めてアンリの目を見た。
「知ろうとも思わずにおりました。それが正しかったかどうかは、いまも分かりません」
「どちらに、集まっておいでなのでしょう」
司祭は、しばらく蝋燭を見ていた。
それから、坂の下のほうへ目をやった。
「坂を二区画下りた路地の、突き当たりの家です。……咎めに行くのではないと、約束してくださいますか」
「約束いたします」
◇
教えられた家は、路地の突き当たりにあった。
石を積んだだけの、どこにでもある造りである。窓の隙間から灯りが漏れていて、その明るさで、路地がもう暮れきっていることが知れた。この時季は、坂を下りきる前に日が落ちる。
五人は、路地の入口で待っていた。剣は、まだ誰の鞘からも出ていない。
「他の方は、少し離れていてください」
扉の前で、アンリは言った。
「一人で行かせられるか」
「兄さん」
見上げると、シーザーの顎が固くなっていた。
「あの方たちは、武装した集団ではないかもしれません。もしそうだったら、六人で押しかけるのは、脅すのと同じです」
シーザーは、しばらく妹の頭のあたりを見ていた。
「……扉は開けたままにしろ。譲るのはそこまでだ」
アンリが叩くと、中の物音が一度止み、それから足音が近づいてきた。
開けたのは、五十がらみの女である。前掛けの裾で手を拭きながら出てきた。指のあいだにまだ水が残っていて、夕餉の途中なのだと、それだけで分かった。
「はい?」
「夜分に失礼いたします。西方教会の僧侶で、アンリと申します」
女は、僧衣の襟を見た。それから、アンリの肩越しに、路地へ立っている五人を順に見た。
構えなかった。声も落とさなかった。
「あらまあ。こんなところで立ち話もないでしょう。お入りなさいな」
◇
卓には、すでに八人分の皿が、縁を揃えて並べてある。籠のパンはまだ割られておらず、鍋の湯気が天井のあたりまで上がっていた。
部屋には、鍛冶場の前掛け姿の男や杖を膝に立てた老人、十代の娘、赤子を抱く母親、腕を吊った男など、さまざまな人々がいた。扉を開けた女も、その中の一人だった。
武器は、どこにも見当たらない。
アンリは椅子を勧められ、勧められるままに腰を下ろして、自分の指が膝の上で固く組み合わさっていることに気づいた。
誰も睨んでいない。誰も声を荒らげていない。それでいて、指がほどけなかった。
「お客様ですよ」
「おや、教会の方かしら。よかったら夕餉をご一緒にいかが?」
「いえ、そんな……あの、不躾に伺います。皆様は、こちらで何を——」
「お祈りをしています」
答えたのは、いちばん奥に座っていた女だった。
歳は四十ほどだろうか。灰色がかった髪をひとつに束ね、着ているものは他の者と変わらない。声を張ってもいない。ただ、その人が口を開いたとき、卓の全員が同じだけ静かになった。
「サディアと申します」
背後で、鎧がわずかに鳴った。
兄が息を吸ったのか、重心を移したのか、それだけの音である。振り返らずとも、意味は分かる。
顔は覚えていない。眠っていたのだから、覚えているはずもなかった。ただ、その声の高さだけが、熱の底で聞いた覚えのあるところへ落ちた。
礼を言いたいと思いながら、まだ言えずにいる名前が、いま目の前で名乗っている。
「……アンリと申します」
「教会の方が、私どもへ何のご用でしょう」
責める色はなかった。試す色も、身構える色もない。
「地下の広間で、皆様をお見かけしました」
言ってから、アンリは部屋の空気を待った。
張り詰めるだろうと身構えていた。そうはならなかった。
「まあ、見られてしまいましたか」
「あんな夜中に、坑道へ入る人がいるとは思わないでしょうにねえ」
困った顔が、卓をひと回りした。子供がいたずらを見つけられたときの困り方に、それはよく似ていた。
「危ないところです」
「承知しております」
サディアは素直に頷き、その頷きの続きのように言った。
「それでも、あそこでなければならないのです」
「なぜでしょう」
「あの下に、この街を守るものが眠っております。その加護を皆に分け与えてほしいのです」
◇
卓上が片付けられる合間に、少しずつ話の断片が、ぽつりぽつりと語られ始めた。
この街は、竜に一度焼かれている。そのときのために用意されたものが地下にあり、けれど、使われなかったこと。使える者がいなかったのか、間に合わなかったのか、そこまでは誰も知らないと。
「けど、あるんですよ」
鍛冶場の前掛けの男が、汁の椀を置いた。
「うちの婆さんの、そのまた婆さんが言っていたそうでね。地下には火の守り手がいる、と。街角に祠があるでしょう。丸いものを両手で包んでいる形の」
「祠……」
「毎日、誰かが花を置いてるやつです。よそから来た人には、ただの石にしか見えないでしょうが」
男が、両手で丸いものを包む形をつくってみせる。
言われて、ようやく思い当たった。坂を上り下りするあいだに、何度も脇を通り過ぎている。目には入っていたが、見てはいなかった。
何を祀っているのかも訊かなかった。
「それをどうするおつもりですか」
「起こす、と申したほうが近いでしょうね」
サディアは、匙を椀へ置いてから言った。
「眠っているものを、正しい順序で起こす。それだけのことです」
「起こすとは?」
「本があります」
「本?」
「ええ。今日、この街へ届くことになっております」
サディアは、入口のほうを一度だけ見た。
「ずいぶん遠くから参りますので、手元に来るまでは、私も開いておりません」
アンリの指が、また固くなった。
「その本は、どちらから」
「あの方のところにあったものだ、と教えられました」
卓の空気が、そこで変わった。
悪いほうへではない。何人かが、ごく自然な手つきで胸のあたりへ手をやった。祈るときの仕草だった。
「あの方、とは」
「アシュタロス様です」
名は、あっさりと出た。伏せる素振りは、誰にもなかった。
「私どもは、あの方に助けていただいた者の集まりです」
「皆様が、その……直接、お会いになったのですか」
「いいえ」
サディアは、首を横に振った。
「会ったのは、私だけです」
「俺は家を焼かれて、路上で寝てた」
腕を吊った男が、パンの端を汁へ浸しながら言った。
「拾ってくれたのは、サディア様だ」
「うちの子は、売られる寸前でした」
赤子を抱いた母親が、小さく続ける。
「買い戻してくださったのも、サディア様です」
十代の娘は何も言わず、湯気の立つ椀を両手で包んだまま、名を出された恥ずかしさで耳のあたりを赤くしていた。
アンリは、サディアを見た。
その指が、木の椀の縁をひとつ撫でる。
「私は、娘を病で亡くしかけました。そのときに助けていただいたのが、あの方です」
言い終えてから、彼女は少しだけ笑った。
「その娘も、もう嫁ぎましたけれど」
「では、この方たちを助けられたのは」
「私は」
サディアは、当たり前のことを言う顔をした。
「あの方にしていただいたことを、皆さんへお返ししているだけです」
誇る色も、謙遜する色もなかった。
アンリは、卓を見回す。
助けたのは、目の前にいるこの人だ。
拝まれているのは、この人が一度しか会っていない、誰かだった。
「あの方は、名乗りませんでした」
サディアは、少しだけ目を伏せて続けた。
「顔も、私は一度きりしか見ておりません。ただ、後になって知ったのです。世間があの方を、どう呼んでいるかを。あなたはご存知のようね」
「……闇の僧侶と」
「はい」
否定は、なかった。
「ですから、私どもの祈りは、教会の方から見ればよくないものでしょう。それは承知しております。ですが」
そこで、冷静な物言いだったサディアの声が、わずかに熱を持った。
「私どもは、あの方に返せるものを何一つ持ちません。持たない者が、それでも返そうとするのは、いけないことでしょうか」
アンリは、答えられなかった。
答えが出ないことよりも、出ないまま座っていられる自分のほうが、彼女には怖かった。
◇
鍋が空になり、皿の重なる音がしはじめた頃に、アンリはもう一度口を開いた。
「一つだけ、伺ってもよろしいですか」
「どうぞ」
アンリは、卓の上で指を組み直した。
「私は、地下に何があるのかを存じません。ですから、皆様の仰るとおりのものがあるとして、伺います」
「はい」
「先ほど、どなたかが仰いました。使える者がいなかったのかもしれない、と」
言葉を選ぶあいだに、鍋の湯気が細くなっていく。
「守るために用意されたものが、街の焼けるその時に、使われなかった。……さきほどから、そこが引っかかっております」
「と、申しますと」
「教会の聖具にも、聖別を受けた者の手でなければ働かないものがございます。持ち手を選ぶ物は、選ばれた者がいないかぎり、目の前で人が焼かれていても動きません」
サディアは、黙って聞いていた。
「地下のものが、もし、決まった方にしか従わないのだとしたら。……順序の本が要るというのは、つまり、そういうことではありませんか」
「かもしれません」
「では、その本に書かれているのは」
アンリは、そこで初めて相手の目を見た。
「決まりを踏む順序でしょうか。それとも、決まりを飛び越える順序でしょうか」
サディアは、少し首をかしげた。
真面目に検討している顔だった。年下の言うことを、頭ごなしにしない人の顔である。
「それは、考えたことがありませんでした」
正直な答えだ、とアンリは思った。
思ったから、なお、背中が冷えた。
「けれど」
サディアは、空になった椀を卓へ戻した。
「あれは、この街を守るためのものです。守るためのものが、私どもに怒ることがありますか」
「それは……」
「私どもは、盗もうとしているのではありません。返していただこうとしているのです」
その目に、悪意はなかった。
ひとかけらも見つからなかった。
◇
アンリが腰を上げたとき、扉が鳴った。
入ってきたのは、若い男である。二十歳そこそこ。肩で息をしていて、外套の肩に細かい土埃が乗っていた。
その外套だけが、この部屋のどの布とも織りが違っている。
彼は見慣れない顔に気づいて足を止め、止まった格好のまま、人懐こく笑った。
「お客さん? 珍しいな」
「レイフ。こちらは教会の——」
「どうも! いや、ちょうどよかった」
外套も脱がずに卓へ寄ってくる。その顔は明るかった。心底いいことがあった人間の明るさだった。
「サディアさん。届きました」
「本が?」
「はい。たったいま、資材庫のほうへ。欠けもなく揃ってます」
彼は、両手を握り合わせた。




