第二話 困ってるなら、助けるよ
村の入口で、シンは三度、声をかけた。
三度とも、返ってきたのは扉の閉まる音だった。
「……なあ。今の人、俺が見えてたよな?」
「見えとったから閉めたんやろ」
オタキラーが馬の口を取り、フードを押し上げて斜面を仰いだ。針葉樹が谷を埋め尽くすなかに、広葉樹がまだらに混じっている。その梢の先が上のほうから順に赤と黄へ灼けていて、色が山の高みから下りてきているのが見て取れた。
日はまだ稜線の上にある。それなのに、谷底のこの村には、もう影のほうが先に届いていた。
「早いなぁ、日が落ちんの」
荷台から降りたドレッシングが、大きく伸びをした。吐いた息が思いのほか白く散って、自分でその白さに顔をしかめる。
「冷えるって。屋根の下、屋根の下」
「そうだな。今日はここで休めそうだ。久々の宿だよ!」
シンだけが元気だった。
村は、斜面に貼りつくようにして家々が段になっていた。石を積んだ低い塀、薪を高く積んだ軒下、屋根はどれも急な角度で下りている。畑には、刈り取られた茎が根元だけ黒く残り、その向こうを一人、鎌を担いだ男が歩いていく。
馬車を見た。それから、シンの腰の剣を見た。
男は、鎌を担ぎ直して足を速めた。
「見てみぃ、あの顔」
オタキラーが顎で示す。
「歓迎しません、て顔に書いてあるやんか。村中そればっかりや」
「今どき旅してんのなんて、物好きか勇者もどきくらいだしなぁ。今じゃ王様連中の悩みの種なんだよ」
ドレッシングが荷台の縁に肘を預けながらぼやく。
「俺らみたいなの、って言うな!」
「言い方の問題ちゃうで」
シンは口を開いて、そのまま閉じた。
閉まった扉のほうを、もう一度だけ見る。
「……そんな連中と一緒にされたくないけどさ」
声が、少しだけ落ちた。
「歓迎はされないよね」
「そらそうや」
オタキラーはあっさりと言って、馬の首を叩いた。
◇
宿屋の一階は酒場になっていた。
扉を押した瞬間、湿った熱が顔に当たった。奥の暖炉で薪が爆ぜ、天井の低い部屋いっぱいに煙と煮込みの匂いが溜まっている。外の冷えを抱えたまま入ってきた三人の頬が、じんと痺れた。
客は数えるほどしかいない。丸テーブルの一つに三人が座ると、それまで低く続いていた話し声が、空気が凍ったようにやんだ。
誰も、こちらを見ない。そのことが、よほど雄弁だった。
「お客さん、ご注文いいですかぁ」
周りに気を取られていた三人の横に、お盆を胸に抱えた娘が待っている。髪を後ろで束ね、前掛けの紐を腰で二重に結んでいる可愛らしい子だ。
「エール三つと、適当につまみを二、三品」
ドレッシングが、いつのまにか背筋を伸ばしている。眠そうだった灰色の目が、まっすぐ相手に向いていた。
「君みたいな可愛い子が給仕してくれるなんて、いい酒場だ」
差し出した手が娘の手を包み、離れたときには、その掌に硬貨が一枚残っていた。
「俺たち、ここは初めてなんだけどさ。何か、いい話とか村でのタブーとかある?」
娘の頬が、暖炉の色とは別の理由で染まった。
お盆で口元を隠すようにして、身を屈める。
「……お客さん達、もしかして勇者様?」
「見習いだけどね……。でも魔王は倒すよ!」
「ふふっ」
娘の目が、少しだけ和んだ。
和んで、それからすぐに、声をひそめた。
「でも、気をつけてくださいね。最近このあたりで、勇者狩りが多いんです」
薪が、ぱん、と鳴った。
「ここへ来る前にも耳にしたんやけどな。勇者狩りって、なんや」
「そのままの意味です。勇者候補の方を襲って、殺してしまうんですって」
「魔物なの?」
「それが分からないんです。隣の町で、生き残った魔法使いの方が、そう言い残して……」
娘は、そこで言葉を切った。
言い残して、どうなったかは、言わなくても伝わった。
「怖いなぁ」
ドレッシングが、心底そう思っている口調で言った。目だけが、まったく怖がっていなかった。
「お客さん達、どちらから?」
その問いに、シンは待ってましたとばかりに背筋を伸ばした。
「ローエンガルドから! 世直しの修行の旅です!」
ごほっ、と音が二つ重なった。
オタキラーがフードの奥で咳き込み、ドレッシングが握った拳を口に当てて肩を震わせている。
「……大丈夫ですか?」
「なんでもあらへん。ちょお、埃が」
「暖炉の煙だよ、煙」
娘が首をかしげて厨房のほうへ目をやり、その隙に、二人はそっと顔を見合わせた。
「……修行、ねぇ」
ドレッシングが、テーブルの木目に向かって呟く。
「言い方は合うとる。……合うとるけどな」
オタキラーが指で本の背をこつこつと叩いた。
「なんだよ、二人とも。何がおかしいんだ」
「なんもおかしないわ」
「ぜんぜん。まったく」
シンは眉を寄せたが、追及はしなかった。追及するより先に、聞きたいことがあったからだ。
彼は身を乗り出した。
「ところで。この村で、何か困ってることはない?」
「……えっ?」
娘の手から、お盆が滑りかけた。
「俺たちの目的は魔王討伐だけどさ。困ってる人がいたら助けるのも、勇者の役目だから」
「で、でも、あたし、お金なんて」
「お金なんていらないよ」
シンは、少しも力まずに言った。
「言ったろ。みんなを幸せにしたいんだって」
娘は、答えなかった。
答えるより先に、まじまじとシンの顔を見ていた。珍しい生き物でも見るような、あるいは、聞き間違いを疑うような目だった。その目が、シンの粗末な普段着から、不釣り合いに立派な剣の柄へ滑り、また顔へ戻ってくる。
束ねた髪の先が、わずかに揺れた。
「……そんなことをおっしゃる勇者様、初めてです」
声が、さっきまでより低かった。低くて、少しだけ、湿っていた。
「そう?」
「はい」
娘は、お盆を抱え直した。
「あたし、勇者様って、人のものを持っていく人たちだと思ってました」
「持っていく?」
「この前、あたしのメダルが奪われたんです!」
言った瞬間、その顔が本気で悔しそうに歪んだ。
「あたし、こつこつ集めてたんです。ちゃんと数を揃えたら、景品と交換してもらえるやつ。それを、勝手に袋ごと」
「えっ、それって、あの有名な!?」
「あと少しだったんですよ! あと少しで、あのバニーの衣装が」
「どこで交換するの? 着るの? よかったら俺が取り寄せて——」
脛を蹴られた。テーブルの下で、ドレッシングの爪先が正確にそこを捉えていた。
「い、いや、そうじゃなくて! つまり、その、集め直すのを手伝うというか、ええと」
「シン。落ち着け」
「落ち着いてる!」
「顔が前のめりや」
娘が、こらえきれずに吹き出した。
その笑い声は、この酒場に入ってから初めて聞く、まともに明るい音だった。低く続いていた客たちのささやきが、一瞬だけ止まったほどに。
「……あの」
笑いを収めて、娘が言った。
「村長さんなら、何か相談したいことが、あるかもしれません」
「村長さん?」
「はい。あの、あたし、そろそろ戻らないと」
そして、そこで。
娘の顔から、表情が抜けた。
笑みの形だけが唇に残り、目のほうが先に、どこか遠くを見た。ほんの瞬き一つぶんの空白だった。次の瞬間には、もういつもの給仕の顔に戻っていて、お盆を胸に抱え、軽く頭を下げて厨房へ小走りに去っていく。
シンは、気づかなかった。
ドレッシングの視線だけが、その背中を追っていた。
「案外さぁ」
娘の姿が暖簾の向こうへ消えてから、彼は椅子の背に体を預けた。
「この村の仕業だったりしてな」
「え!? どういうこと?」
「魔法使いは逃げ出した……か?」
オタキラーが、誰にともなく言う。
「何? さっぱり分からないんだけど」
二人は同時にため息をつき、同時に肩を落とした。
◇
宿の三人部屋は、二段ベッドが二つあるだけの部屋だった。机も椅子もない。窓は小さく、板戸を押すと、外の空気が冷気の刃のように入ってきた。
ドレッシングはすぐに板戸を閉めると、奪われた体温を取り戻すように身体を擦る。
「ねえ! 俺にも事情を説明してよ!」
下の段に腰を下ろしたシンが、身を乗り出す。
ドレッシングは壁に背を預け、腕を組んだまま立っていた。
「……どこもかしこも、最近の落ちぶれ勇者どもにはうんざりしてんだよ」
軽口の調子が、少しだけ削れていた。
「魔王討伐って大義を振りかざして威張り散らす。物資を巻き上げる。強いやつには媚びへつらって、弱いやつは叩きまくる。そういう勇者にな」
「勇者ってそんなイメージなの!? 英雄じゃないの!?」
「おとぎ話の世界ならそやろな」
オタキラーは上の段に腰かけ、足をぶらぶらさせていた。
「けど現実はちゃう」
「簡単な話だ。小さな村や町は、勇者パーティに来てほしくないのさ」
「そこで噂を流す。このへんに来たら襲われるで、てな」
「じゃあ、逃げ出した魔法使いっていうのは……」
「この村の人間が演じたか」
「実際に襲ったか」
シンは、口を半分開けたまま黙った。
暖炉の熱は二階まで届かない。板壁の隙間から、山の冷気が細く忍び込んできていた。
「……そんなの」
膝の上で、拳が握られる。
「そんなのって、ないだろ。困ってるって言えばいいじゃないか」
「言えるかい。言うたら余計に来るわ、腕試しのアホどもが」
オタキラーが懐へ手を入れた。
巻いた羊皮紙の束が、ばさりと膝の上に置かれる。彼はそれを一枚ずつ、指で弾くようにして数えはじめた。
「宵灯。……宵灯。ああ、これ昨日使うたやつの残りか」
「けち臭ぇなぁ」
「けちで結構。これ一枚が、専用紙と魔法インクと触媒でいくらすると思とんねん。わいら三人が半月宿に泊まって、飯食うて、それでもまだ釣りが出えへん」
「そんなに!?」
「静壁は……二枚あるな。よし」
一番奥の一枚を、オタキラーは数えなかった。
指先で押さえて、そのまま懐へ戻した。
「それは?」
「それは切らん」
フードの奥で、青と翠の目が細くなる。
「切るときは、死ぬときや」
部屋が、ひとつ静かになった。
沈黙を破ったのは、壁際からだった。
「俺は魔法が使えないからな。身一つで安上がりだろ」
ドレッシングがベルトの小ナイフを一本抜き、指の上でくるりと回して、また鞘へ戻した。
「よく言うわ。刃こぼれの研ぎ代は誰が出しとる思とんねん」
「そこは経費だろ、経費」
「オタキラー! 俺だって魔法くらい使えるぞ!」
シンが割り込んだ。
オタキラーが、鼻で笑った。
「見習いが」
「見習いだって使えるものは使える!」
「剣も術も半人前で、両方持っとるだけやろ。あんたのは足し算やのうて割り算や」
「そんなことないって! 今度見せてやるからな、絶対!」
「はいはい」
オタキラーが手をひらひらと振り、その手を止めた。
止めて、そのまま、ドアのほうへ目をやる。
ドレッシングは、すでに動いていた。足音を殺し、壁に沿って三歩。ノブに指をかけ、一気に引く。
人が、部屋に転がり込んできた。
「わっ」
前掛け。お盆。束ねた髪。
床に手をついた娘が、髪のあいだから三人を見上げた。
「詳しく聞かせてもらおうか、お嬢さん」
「え? あ、いや、違うの! これは違うの!」
「聞き耳立てといて何が違うんや。わいらを襲いに来たんか?」
オタキラーが上の段から身を乗り出しながら娘を凝視した。
「誤解です! あたし、事情を説明しようと思って来たんです!」
娘は膝立ちになり、それから、うつむいた。
うつむいたその視線の先に、シンの靴があった。
「……そこの方が。困ったことがあったら……って言ってくれたから」
シンの目が、輝いた。同じ速度で、他の二人の目が沈んだ。
「二人とも! 可愛い女性を困らせるものじゃないよ! この勇者がすべてを解決してみせよう!」
「出た」
「出たわ」
「ありがとうございます」
娘は立ち上がり、前掛けの埃を払って、深く頭を下げた。
「村長が、お話をしたいと申しております。ご一緒していただけますか」
◇
外へ出ると、息が白くなった。
昼のあいだ谷に溜まっていた熱は、とうに抜けている。踏んだ土が硬く、下り坂の石段には夜露が薄く乗って、ランタンの光を鈍く返した。空はよく晴れていて、山の稜線がそのまま星の切れ目になっている。
先を行く娘の少し後ろを、シンが歩いた。
オタキラーとドレッシングは、わざと距離を空けて続いた。
「そういえば、名乗っていませんでしたね」
シンが言った。
「私はシンと申します」
「あたしは、ラティアです。突然の不躾を、お許しください」
「いえ! 困っている民を助ける。それが勇者の役目ですから」
ラティアが、白い息のなかで小さく笑った。
笑って、その笑いが、途中で形を失った。
「……あたし」
石段を一つ下りる。
「勇者様に、いい印象を持っていませんでした」
シンは何も言わなかった。
黙って、歩調を彼女に合わせた。
「酒代を踏み倒す方がいました。人の家に勝手に入って、物を漁っていった方もいました」
声は、震えていなかった。震えていないぶん、聞いていて痛かった。
「村に魔物が下りてきたときは……そのとき泊まっていた勇者様が、村の男の人を前に立たせて、自分は後ろに」
言葉が切れた。
ランタンの光の輪の中で、彼女の肩が一度だけ上下する。
「それを見てから、あたし、扉を開けるのが怖くなったんです。旅の人が来るたびに、今度は何を持っていかれるんだろうって」
夜風が、斜面の枯れ葉を鳴らして通り過ぎた。
シンは足を止めなかった。
止めないまま、彼女の隣に並んだ。
「怖かったな」
「……え」
「ずっと、怖かっただろ」
ラティアが顔を上げた。
ランタンの火が、隣を歩く男の横顔を下から照らしている。そこには気の利いた慰めも、勇者らしい大言壮語もなかった。ただ、聞いた話をそのまま受け取っただけの顔があった。
「困ってるなら、助けるよ」
シンは前を向いた。
「そのために来たんだから、俺は」
ラティアは、返事をしなかった。
できなかったのかもしれない。彼女はもう一度うつむいて、それから、ランタンを持つ手を持ち替えて、鼻をすすった。
「……こっちです。あの、灯りのついてる家です」
少し後ろで、二人の男が小声を交わしていた。
「馬鹿正直についていって大丈夫かいな」
「待ち伏せしてズドン、か」
「わいが罠にかけるんやったら、そうするわ」
「普通は疑うよなぁ、これ」
「せやのにシンは」
「「輪をかけてバカだからな」」
声は揃ったが、どちらも笑っていなかった。
オタキラーがちらりと後ろを振り返る。村の家々の、閉じた扉が並んでいる。そのどれもが、こちらへ向けて何も語らない。
ドレッシングは、前を見たままだった。
「……あの娘さん、さっき厨房に戻る前」
「気づいとったんか」
「顔が固まってた。一瞬な」
「な」
オタキラーは、それ以上言わなかった。
村長の家は、村のいちばん高い段にあった。
◇
通されたのは、天井の梁が黒く煤けた広い部屋だった。
暖炉には熾火が残り、その前に、背もたれの高い椅子が据えられている。細身の、歳を重ねた男が、そこへ体を沈めるようにして座っていた。
シンたちは向かい合わせの長椅子に腰を下ろした。ラティアは給仕のために、部屋の壁へ背を預けるようにして立っている。
「勇者様。ようこそおいでくださった」
男が両手を膝の上で組んだ。指の節が太い。若い頃に何かを握って生きてきた手だった。
「村長のリンバでございます」
「突然のお呼びだてですが、何か急なご用でしょうか」
リンバは、すぐには答えなかった。
熾火が一つ、静かに崩れる。
その音が消えてから、老人はゆっくりと顔を上げ、三人を順に見た。
「——勇者狩りの噂は」
目だけが、笑っていなかった。
「すでに、お耳に入っておりますかな」




