第一話 俺は勇者になる
魔王が目を覚ましてから、いったい何度、世代が入れ替わっただろう。
闇の勢力は北から染み出すように広がり、王たちは討伐令を出し、それを何度も繰り返した。本物の英雄と呼ばれた者たちが挑み、届かず、いつのまにか名前だけが酒場の壁に残った。
残ったのは名前と、令だけだった。
誰でも手を挙げられる。誰も届かない。そういう仕組みが長く回り続ければ、あとに溢れるものは決まっている。
剣の抜き方も知らないまま名乗りだけ上げる者。勇者を騙って宿代を踏み倒す者。旅の途中で心が折れ、そのまま街道の脇で野盗に落ちる者。
——世界には、勇者候補が溢れていた。
その一組を乗せた馬車が、色づきはじめた木々のあいだを、のんびりと揺れながら進んでいる。
乾いた街道に轍の音が弾み、車輪が石を噛むたび、荷台がひとつ大きく跳ねた。
「うわっ」
その拍子に、荷台の男が手にした分厚い本を取り落としかけた。ローブに深く沈んだ体が、慌てて頁を押さえる。フードの奥から覗いたのは、年齢のよく分からない童顔だった。金の髪に、一房だけ緑のメッシュ。木漏れ日が動くたび、右の青と左の翠が交互に光る。
「シン。手綱。もうちょい丁寧に頼むわ」
訛り言葉が、木々のあいだの静けさに沈んだ。
その隣で、長い金髪を荷台じゅうに散らかすようにして、もう一人の男が寝そべっている。着崩した軽装。ベルトには投擲用の小ナイフが幾本も並び、揺れるたびに小さく鳴った。灰色の目は半分も開いていない。
「……揺れんの、やめてくんない」
御者台の男は、それを聞いていなかった。
軽装の鎧が金属の擦れる音を立てる。茶色の髪を風になぶらせ、彼は手綱を膝に放り出して立ち上がった。琥珀色の目が、梢の切れ間に覗く空へまっすぐに向く。
そして、抜いた剣を天へ突き上げた。
「俺は勇者になる!」
鳥が数羽、迷惑そうに飛び立ち、荷台の二人は、顔も上げなかった。
「おい、シンがまたやっとるで」
「ほっとけ。毎度のことだ」
シンが振り返る。
「まったく、ノリが悪いよね! そこは続くところだろ、普通! 『俺は世界一の剣豪になる!』とかさ!」
「あんたの得物、わいらの中でも一番ええロングソードやん」
ローブの男——オタキラーが、頁をめくりながら顎で示した。
「持ちもんだけ立派で中身が追いついとらん男が、天に剣掲げてどないすんねん。木、切れるで」
「もうさぁ〜」
寝ていた男が、ようやく身を起こした。長い金髪を無造作にかき上げ、背を伸ばす。三人の中では一番背が高そうだ。
「やめようぜ。魔王討伐、もう諦めてよ〜」
「またかいな、ドレッシング」
「またもクソもねぇって。オタキラーだって言ってたじゃんかよ〜」
「せやかて、シンがあの調子や。止まらへん」
「そうだよ! 何が不満なんだ、お前ら」
シンは胸を張りながら声を張り上げた。
オタキラーとドレッシングは、いちど顔を見合わせる。
それから、揃ってため息をついた。
「勇者といったら金銀財宝!」
ドレッシングが指を一本立てる。
「実際はド貧乏! ありえねぇんだけど!」
「勇者といったら未知なる世界の探求」
オタキラーが本を閉じる。
「実際は、田舎の村巡り」
「「こんなの勇者じゃねぇ」」
声が揃った。息の合い方だけは一級品だった。
「まままま、待った待った」
シンが両手を突き出す。
「俺ら、旅に出てまだ一ヶ月よ? 駆け出しよ? 言ってみたら、まだ竹槍でその辺の敵を突いてるレベルだよ?」
「どんなにのんびりした勇者でも、一ヶ月あればそれなりの武具くらい買ってるっつーの」
「ほんまに魔王倒す気あるんか」
「ある!」
シンはまた立ち上がった。今度は剣を抜かなかったが、代わりに拳を握った。
「いいか。俺たちには足りないものがある。何か分かるか、お前ら」
「金と飯」
「無謀を知る心」
「違う!」
「じゃあ宝石とご馳走?」
「金と食欲から離れて!?」
「ほな、あれや」
オタキラーが真顔で言った。
「ごっつい美少女。心が癒やされそうな」
「それはグッとくる——」
言いかけて、シンは咳払いをした。
「——じゃなくて! 情熱だよ! 魔王を倒して、民の平和を願う気持ち! その後で付け足すなら」
「「女っ気」」
シンとオタキラーの声が、綺麗に重なった。
ドレッシングが無言で荷台に倒れ込んだ。
しばらく、車輪の音だけが続いた。木漏れ日が三人の上を滑っていく。街道の脇では、まだ緑を残した葉のあいだに、赤や黄に色を移しはじめた枝がまじっていた。
「だいたいよぉ」
寝転がったまま、ドレッシングが天を指した。
「パーティの編成が悪いんだよなぁ」
指がシンへ向く。
「勇者見習いに」
オタキラーへ向く。
「魔法使いに」
最後に、自分を親指で示した。
「盗賊。……大怪我したらどうすんの、これ。貧乏で薬も満足に買えないんだぞ。だいたい勇者パーティに盗賊っていていいわけ?」
「せやから言うとるやろ。清楚で、かわいらしい僧侶さんが一人おったら、この旅もぐっと華やぐんとちゃうか」
「いやいやいや」
シンが振り返った。
「自分的にはさ、もっとこう、堂々としてて、大人の余裕があって、こっちが背筋を伸ばしちゃうような、そういうお姉様タイプの僧侶が——」
「シンのそれ、僧侶って言っていいわけ?」
「言っていいの! 祈られたら俺、たぶん改心するもん!」
「改心する前提で語るな」
そんな二人を黙らせるように、オタキラーが本の背で御者台を叩いた。
「シン。手綱。馬が道逸れとるで」
「え」
シンが前を向いた。
馬は、とっくに街道を外れていた。
道の脇の木立へ——木漏れ日の落ちる、涼しげな木陰へ——迷いなく首を向けて、そこで休んでいた誰かの、すぐ横へ。
「やばい」
「きゃっ」
悲鳴は、思ったよりずっと近い。
馬の脚が枯れ葉を蹴散らし、荷台が横ざまに振られる。シンは手綱を引き絞り、引き倒すようにして、辛うじて馬を止めた。
止まった車輪の脇で、小柄な人影が尻もちをついていた。
「アンリ! 大丈夫!?」
別の声が飛んだ。
鋭い。腹の底から出る種類の怒りではなく、刃を抜くように短い怒りの声だった。
「ちょっと、危ないじゃない!」
木立の奥から歩み出てきたのは、女だった。
銀の髪が背の半ばまで流れ、木漏れ日を弾いている。肌は白く、耳は笹の葉のかたちをして長く伸びていた。腰に吊っているのは細身のレイピア。
エルフだ。
シンより低くはない。目線が、ほとんど水平に合った。
その淡い翠の目が、まっすぐこちらを射抜いている。
「す、すいませんっ!」
シンは御者台から転がるように降りて、頭を下げた。
「謝って済んだら街道警備隊なんていらないのよ。——それとも何? 噂の勇者狩り?」
「とんでもないです! 本当に手元が狂っただけで……」
下げていた頭を上げる。
上げた先に、その顔があった。
シンの動きが止まった。
「お美しい」
「……は?」
「「出た。シンの病気」」
荷台から、二人分の声が降ってきた。
シンはすでに歩き出していた。エルフの女の前まで一息に詰め、片膝をつくような姿勢で、その手をうやうやしく取る。
「あなたのような方の肌を傷つけていたら、俺は一生悔やんでいました。お怪我はありませんか」
「怪我をしそうになったのは私じゃなくて」
手が振り払われた。
「——あの子」
指の先で、尻もちをついていた娘が、腰を押さえながら立ち上がるところだった。
「いたた……いえ、こちらこそ、すみません。ぼうっとしていたものですから」
頭をすっぽりと覆っていたフードが、その拍子に後ろへ落ちた。
亜麻色のショートの髪が、木漏れ日の下でふわりと淡く光る。癖のない髪の下から現れたのは、驚くほど清らかな面立ちだった。澄んだ空色の目が、こちらを見て、ゆっくりと瞬く。
荷台から、勢いよく人が降りた音がした。
「お嬢さん、大丈夫ですか!? うちの連れが、ほんまに失礼を」
オタキラーだった。娘の手を取り、腰のあたりへ気遣わしげに視線を落としている。
「はぁ……」
娘は困ったように、握られた手と、そのフードの奥の童顔を見比べた。
そのとき、茂みが割れた。
枝を押しのける音と、金属の擦れる重い音が、同時に近づいてくる。
「おーい、水を汲んできたぞ。この先に沢が——」
声が、途切れる。
現れたのは、全身を鋼の重装で固めた男である。頭半分ほどシンより高い。刈り上げた金髪の下で、濃い茶色の目が、握られたままの妹の手を捉えた。
空気が、音を立てて張り詰めた。
「——アンリ! おい貴様、妹に何をしている!」
「ちょ、待って待って待っ——」
鎧が地を蹴った。
男はオタキラーとアンリのあいだへ割り込み、二人を引き剥がすように腕を伸ばした。腰の剣にはまだ手をかけていない。かけていないだけ、まだ理性が残っているということでもあった。
「貴様ら、盗賊の類か! 場合によっては容赦せんぞ!」
「兄さん、違います。ただの事故で——」
「事故だと!? いや、待て。この辺りを闊歩すると噂の、勇者狩りだったか!」
「シーザー、落ち着きなさい」
軽い音がした。
エルフの拳が、上から鋼の兜を小突いた音だった。
「おお、アミアン! 手を貸してくれ、この悪党面どもは勇者パーティを襲って回っている連中だ!」
「だから落ち着きなさいって。確かに悪党面だけど、何もされてないわ」
「悪党面はよけいや……」
オタキラーが、フードの下で心底つらそうな顔をした。
その、張り詰めた空気が緩んだわずかな隙に——シンが、鎧の音を立てて姿勢を正す。
軽口の名残が、顔から消えていた。
「失礼いたしました」
声の調子が、変わっていた。
荷台の上のドレッシングが、片眉を上げる。
「私が手綱を誤ったばかりに、妹君を危険な目に遭わせてしまいました。名乗り遅れましたが」
胸に手を当て、深く頭を下げる。
「私はローエンガルド国騎士、シン・S・カタリナと申します」
背筋の伸びた、正しい騎士の礼だった。
シーザーと呼ばれた男の肩から、ゆっくりと力が抜けていく。振り上げかけていた腕を下ろし、彼もまた同じ形に胸へ手を当てた。
「……こちらこそ、失礼した。私はヘイムダルム国、騎士シーザー・ユリエルと申す」
「妹のアンリと申します」
娘が両手を前で組み、丁寧に腰を折った。指先が、祈りのかたちをしていた。
「アミアンよ」
エルフは名乗っただけだった。
「オタキラーや」
名乗り終えたあと、アンリがふと木立の奥へ視線を向けた。
「……あの方は。お仲間ですか?」
三十メートルばかり離れた木の陰から、こちらを覗いている長い金髪があった。
目が合った瞬間、その頭が引っ込んだ。
((あいつ、逃げる気だったな))
シンとオタキラーの視線が、いちど交差した。
「仲間のドレッシングです。……たぶん」
「たぶんて」
ドレッシングが不服そうに木の陰から出てきて、荷台へ戻っていった。エルフの横を通るとき、彼の視線が、そこだけ温度を失った。
アミアンは、それに気づいた。気づいて、何も言わなかった。
「見たところ、あんたらも魔王討伐の勇者パーティか?」
オタキラーが尋ねた。
アンリの唇が、わずかに開く。
その半拍前に、兄が口を開いた。
「いかにも」
よどみのない声だった。
「我々は国王陛下より直々のご下命を賜り、旅をしている」
シンの目が輝いた。
「国王の勅命! それはすごい!」
「わいらとは大違いや」
オタキラーが本を小脇に挟み直しながら、ちらりとアミアンへ目をやった。
「けど、人間の勅命に、エルフがなあ」
「私はたまたま途中で一緒になっただけよ。目的地が同じなだけ」
アミアンは即答した。
「そやろな。エルフが人間の命令に従うわけないわな」
「…………」
アミアンは答えなかった。
答えない代わりに、視界の端は、そのままにしておく。
——アンリの、笑みが、固まっていた。
ほんの一瞬だった。兄が「ご下命」と言い切ったその直後、少女の顎がわずかに引かれ、空色の目が地面へ落ちて、それからすぐに戻ってきた。時間にすれば、瞬きひとつ。
誰も気づかなかった。兄も、シンも、オタキラーも。
アミアンだけが、それを見ていた。
「皆様も、魔王の討伐を?」
アンリが顔を上げたとき、その表情はもう、清らかに整えられていた。
「はい!」
シンが胸を張る。
「我々は勅命ではありませんが、有志として討伐に参加しようと思っております」
「有志……」
アンリが小さく繰り返した。責める色はどこにもなかった。ただ、まぶしいものを見るような目だった。
「おーい!」
荷台から声が飛んだ。
「謝罪が済んだんなら行こうぜ〜」
「分かった!」
「なんや。あいつがあないなこと言うとは珍しいな」
「勇者道に目覚めたかな」
「絶対ちゃう」
シンはもう一度、アンリの方へ向き直った。
「アンリさん。この度のご無礼をお許しくださり、ありがとうございました」
「いえ。……旅のご無事を、大地の神ヴィルヴに祈っております」
アンリが胸の前で指を組んだ。
その仕草は、儀礼というより、癖のように自然だった。
馬車が動き出す。轍が枯れ葉を巻き上げ、色づきかけた枝のあいだへ、荷台の影が滑っていく。
三人はそれを、木陰から見送った。
「……追っ手ではないようだな」
シーザーが兜を脱ぎ、額の汗を拭う。
「はい」
アンリが頷いた。
「シン様の身なりは、ずいぶん質素でした。けれど」
妹は、遠ざかる馬車の方をまだ見ていた。
「あの方の剣の柄頭に、獅子と星の紋章がありました。ローエンガルド国の国章です」
「あの格好で、あの剣か」
「……ええ」
「シンという男に、悪意は感じなかったわ」
アミアンが、腕を組んだまま言った。
「ただ、あとの二人は要注意ね」
「というと?」
「一人は、人の腰と手ばかり気にしていたわ」
「うむ」
「もう一人は、私の顔を一度も正面から見なかった」
「「……はは」」
兄妹が、揃って笑った。
アミアンは笑わなかった。
組んだ腕をほどき、色づきはじめた木々の向こう、馬車の消えた方角へ目をやる。
——どちらも、得体が知れない気配がした。
声には出さない。
根拠を挙げろと言われれば、挙げられない。ただ、百年ばかり人と物を見てきた目が、あの二人の前でだけ、勝手に一歩下がったのだった。
街道へ戻った馬車の上では、まったく別の議論が交わされていた。
「よかった。アミアンさん、よかったな……! あの、すっと通った鼻筋とか!」
「アンリちゃんええわぁ。あの清楚な感じがまた、たまらん」
「お前らさぁ」
ドレッシングが荷台に大の字になった。
「本っ当に懲りないよなぁ。俺らが何でこんな旅する羽目になったのか、ちゃんと分かってるわけ?」
二人は聞こえないふりをした。
揺れる荷台の上で、木漏れ日が三人の顔を斑に染めていく。
「お前のエルフ嫌いも直らへんか」
「ふんっ」
「しかし……」
オタキラーが、開きかけた本を膝の上で伏せた。
「なんだよ」
「国王の勅命で、実質たった二人や」
フードの奥で、青と翠の目が細くなった。
「あいつらも訳ありっちゅう感じやな」
「勇者候補なんて、どいつもロクでもない連中だっつーの」
ドレッシングが吐き捨てる。
オタキラーは少し黙って、それから、伏せた本の背を指の腹で撫でた。
「わいら含めてな」
街道の先で、シンがまた立ち上がった。
「よし! 次の村だ! 人助けだ! 困ってる人を探すぞ!」
「手綱」
「手綱もって」
「あっ」
むか~しやってたテーブルトークRPGを小説にしてみました。
元はD&Dなんで、なんとなーく想像していただけたら幸いです。




