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被害者③ 少女

 なにもかもが崩れてしまう感覚を、わたしは知っている。


 突如として理不尽に、見えている世界のすべてがズレてしまうのだ。


 目の前の壁が床になると、床と天井は壁になる。照明は折れてしまい、カレンダーは踏まれてしまう。


 一週間後に花丸の付いた日付は、わたしの誕生日だった。

 踏んだ。


 わたしを取り巻くすべてに違和感を覚えたわたしは、なにもかもが怖くなった。もう高校生になったのに、わたしはそうじゃない気がした。どこかで、心が動くのをやめていたような。でも、また動き出したのか。


 違和は、数えきれない。


 なにかがおかしい――自分以外の、すべてがおかしい。


 なら、本当におかしいのは周りではなく自分だ。


 大きなことを忘れている気がする。思い出そうとするのを、脳が拒否している。

 それでも、思い出さなきゃいけないと思った。


 英愛の様子がおかしくて、彼の両親に問い詰めた。そして、お義母さんに教えてもらった。


 なにかがわたしの心に触れた気がした。だけど、わたしはまだ思い出せなかった。


 記憶の奥底に、閉じ込められている気がした。


 この違和感の正体は、なんだ?


「英愛」

「ん、どうしたの?」


 呼びかけると、英愛は優しい声で返事してくれた。どうして、こんなにも平気そうな顔でいられるんだろう。


 英愛がそのことをなんとも思っていないのであれば、そっちのほうが絶対にいい。


 でも、昨日の様子を見るに、そんなわけがないと思った。


「………………行ってらっしゃい」

「ありがと。行ってきます」


 英愛が今からどこに行くのかは、すでに察しが付いている。彼は、警察のところに行くのだ。


 そういえば、と私は警察から連想する。この家の近所に、警察の人が住んでいるお家があるのだけど――彼は、いったいどんな人だっただろうか? 正直、あまり覚えていない。最近はまったく会わないので、もう引っ越してしまったのかもしれない。


 もしまだあの人がこの地域にいれば、英愛が性被害に遭うことなんてなかったんじゃないか――そんな考えが頭をよぎり、私はすぐに首を横に振った。これじゃまるで、彼に責任を押し付けているみたいだ。


 そう、性被害――英愛は、被害者として事情聴取を受けるのだ。


 ……………………性被害の、事情聴取。


 ………………。




「英愛、泣いてるの?」

「え?」


 聴取から帰ってきた英愛は、自分が涙を流していることに気付いていなかった。

 それは、頭が思考を止めている証拠だ。


「…………………………」


 彼を抱きしめて、あやしたりして、なんとか癒してあげられないかと考える。

 なんだか、英愛が赤ちゃんみたいな顔をしているように見えた。


「ねえ、大丈夫なの?」

「大丈夫だよ。目にゴミが入ったのかな?」


 笑おうとして、上手く笑えなかったらしい英愛が、話題を逸らそうとする。


「あ、そういえば――」

「話はまだ終わってないよ」


 本当は、英愛のためにも早く終わらせてあげたい。

 でも、ここで知らないフリをすれば、英愛は一生苦しむことになるかもしれない。


「泣いてよ、英愛」

「…………いや、泣いてるんでしょ?」


 涙を流しただけでは、泣いたことにならない。


 だから泣いてよ、英愛。


「わたしみたいに」

「……………………っ」


 英愛は、声にならない声で応じてくれた。


 容赦なく体重を預けてきた英愛を、わたしは全身で受け入れる。倒れはしなかった。


 しばらくそうしていると、いつの間にか英愛は寝てしまった。男の子を持ち上げられるほどの力はわたしにはないので、このままでいるしかなかった。意識がある状態だと耐えられなさそうだったので、わたしも眠ることにした。


 断片的に思い出せた自分の過去が、夢に出てこないことを祈りながら。




 何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返しいつの間にかまともなわたしはいなくなっていた。


 芹梨と名乗ったあのお姉さんは、妙な格好をしていた。警察のくせに、なぜか可愛い服を着ていた。


『この服、可愛いでしょう?』


 当時のわたしは、頷くことすらしなかった。興味以前に目の前の出来事がよく理解できなかったのだ。


 あの時は常に涙を流していたから、視界がぼやけていた。理解できるはずもない。


 可愛い服を着ていたことは、芹梨さん自身が教えてくれたから知っているけど。


『まずは、なにをされたか教えてほしいのです』


 なにをされた?


 それは


『すべて話してください。胸を触られましたか? それ以外も? 性行為は初めてでしたか? 膣や肛門に陰茎や指を挿入されましたか? どのように? なにか言われましたか? なにを言われましたか? 痛かったですか? 嫌でしたか? 気持ち悪かったですか? 生理中でしたか? 今も痛いですか? 殴られましたか? 陰茎を咥えさせられましたか? 体液をかけられましたか? 飲まされましたか? なにか漏らしましたか? その時の衣服はどこですか? カッターでどこを切られましたか?』


 それは、確認作業だったのかもしれない――芹梨さんの質問に、無駄なものはひとつもなかった。


 でも、つらかった。


 脳が忘れようとしている出来事を強制的に思い出させてくる。


 高画質無修正のグロ動画をスロー再生させられているような気分になった。

 限界に近付くごとに、自分の欠片がひとつひとつ腐っていくような気がした。


 だからこそ、防腐処理を施さなければならなかった。


『………………では、これで質問はおしまいです。もう、帰っていいですよ?』


 芹梨さんはそう言って、わたしに背を向けた。それから先、あの人と会うことは二度となかった。


 しばらくして、とある女性刑事の手によって犯人が捕まったらしいことを、英愛が教えてくれた。


『柏にひどいことをした犯人、捕まったらしいよ。よかったね』


 犯人が捕まって、わたしはなにもよくならなかった。




「あの人、ドレス似合わないよね」


 英愛が突拍子もなくそんなことを言った。

 なんの話か分からなかったので、わたしは首をかしげるしかなかった。


 わたしの態度でようやく説明不足を自覚したのか、英愛は笑いながら言った。


「芹梨さん、ドレス似合わないよね」

「………………え?」


 なんの話か分からなかった。

 ドレスが似合わない体格、ってこと?


「あれ、芹梨さんのこと覚えてないの」

「覚えてるけど…………、ドレス?」


 突拍子がなさすぎて、なにも理解できなかった。


「あの人、いつも着飾ってるじゃん。一時期はウェディングドレスで仕事してたらしいし」

「………………そうなの?」


 そういえば、わたしは芹梨さんの顔を知らなかった。

 まだ思い出せていないというわけではなく、あの人の顔を見たことがないだけだ。


「芹梨さん、めちゃくちゃ変だよね」

「…………………………」


 やけに楽しそうにあの刑事について語る英愛に、わたしは困惑する。


 少なくとも、ソレは楽しい思い出じゃない。


 芹梨さんが人を楽しませられるタイプだとも思えないし、本当に意味が分からない。


「うん、確かに変だ――」

「朗報なんだけど」


 わたしの返事をスルーして、英愛は言った。

 朗報?


「………………え?」


 さっきから、英愛の様子がおかしい。


 話題がコロコロと変わるし、どことなく情緒もおかしい。だいたい、あの事件のことを思い出して笑うだなんて、被害者には無理だろう。


「英愛、どうしたの?」

「朗報があるんだ。実は」


 英愛は心底嬉しそうにはにかんだ。


「芹梨さん、警察やめたらしいよ。ぼくの事件で失敗したからだって」

「…………………………」


 だからなに? というのが最初に抱いた感想だった。


「面白いよね」


 英愛は相変わらず不気味な笑顔を携えて、ふらふらと頭を揺らしながら意味の分からないことを繰り返している。


 芹梨さん――わたしを担当したあの刑事が今なにをしようが知ったことではないが、英愛が関係しているならそれは別だ。


「ははっ。あはは…………」


 いったい彼女は、英愛になにをしたんだ?




 それから、英愛は壊れた。


 英愛はあの時、ちゃんと泣けなかったのだろう。


 常に笑顔を絶やさず、笑顔で笑顔で笑顔で笑顔で笑顔でいるようになった。


 ……………………わたしは、どこで間違えたんだろう。


 それとも、わたしは間違えていないのか?


 あの時――もっと、ちゃんとできていれば。


 英愛は、大丈夫になっていたんじゃないか?


 いくら考えても、答えが出ることはない。少なくとも、今すぐには。


 そして、わたしがその答えを知ることもなかった。




 英愛のレベルに合わせて、わたしは志望大学のレベルを数段下げた。


 わたしは、英愛と一緒にいなければならないのだ。ずっと一緒にいなきゃ、ダメだ。


 英愛にはわたしが必要だし、わたしには英愛しかいらない。


 わたしにとって英愛は、自分や家族以上に大事な存在だった。


「英愛、おいで」

「うん」


 わたしが呼ぶと、英愛はのそのそと歩いてくると、隣に座った。そして、思いきりもたれかかってきた。


 なんだか、子どもといる気分になってきた。この気持ちは、恋愛感情をとうに追い越しているのだ。


 ひとり用のソファにふたりが密着している状況。季節は秋に突入したところで、めちゃくちゃ暑いというほどでもない。ぜんぜん、我慢できる範囲だ。


「……………………」


 会話すらない、静かな空間。

 でも、心地が良い。

 できることなら、わたしは永遠にこうして生きていたかった。


 ………………………………。


「あっ」


 思わず、声が出た。


 しばらくぼうっとしていたら、英愛のママに頼まれていたおつかいを思い出したのだ。


「忘れてた………………」


 天才少女と褒めそやされていたわたしだって、忘れ物くらいはするのだ。


 すでに英愛は寝息を立てていて、わたしは動けない。

 ………………いや、頑張れば抜け出せるな、これ。


「仕方ない」


 惜しい気持ちをなんとかこらえ、わたしは心地の良いソファから抜け出す。


 着替えはせずに制服のまま、肌寒いので上着を羽織って、わたしは近所にあるスーパーに向かった。


 片道十分くらい。そこまで遠くはないが、胸を張って近いとは言えない位置にそのスーパーはあった。


 Lサイズの卵を買ってきてくれと頼まれていたから、きちんと遂行しよう。卵コーナーで目的の品を見つけると、わたしはすぐにレジへと向かった。


 レジ袋をもらって会計。わたしがバーコード決済で支払いをしている隙に、店員さんがレジ袋に卵を詰めてくれていた。礼と言って袋を受け取ると、わたしはそのまま店を出た。


 帰り道。すでに、暗かった。

 人通りの少ない道。

 段々、不安に駆られた。


 また――


「………………」


 突然、小学五年生の記憶がフラッシュバックした。

 その場に倒れ込むと、必死にこらえたが無駄で吐いた。


「っぉえ、ぁっ、がっ!」


 人通りがないことに気付いた。


 迂闊だった。


 油断してた。


 自分のことをすっかり忘れていた。


 頭の中で汚いものがたくさん映って気持ち悪くなる。

/

自分《《でもじっく》》り見たことのないソレをか(ノないそをれ)き回され、痛い痛い痛《《いと喉が裂》》けて血を吐いてそれが誰かの顔に当た《《ってわたしは殴》》られた。罰だと言って、生えていた毛を掴んで引っ《《こ抜いたの》》は誰かだった ・


-

 それ《《が序》》盤で、次は




「あ」




 視界が反転する。


 現実なのか、夢なのか、過去なのか、分からない。


 ここがスーパーからの帰り道であることは理解できた。


 しかし、なに?


 視界が赤で覆い尽くされると、


 いつの間にかすべては赤だった。

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