被害者② 少年
失敗した。
ぼくがいちばん警戒しなければならなかったのに。
思考がまとまらない。
外は、雨が降っている。
体中が冷たい。皮膚に水が墜落して、段々痛くなってきた。
それでも、さっきの痛みよりはマシだった。
未だに残っているあの感触が、ぼくに頭で考えることを許さない。
家に帰っても、ダメだ。
彼女とは――柏とは、もう会えない。
今のぼくが、会っちゃいけない。
思い出させてしまうかもしれないから。
親に。
まずは、親に言おう。
警察を呼んでもらおう。
でも、どうしよう。
玄関でぼくの帰りを待っているあの子の姿が、容易に想像できてしまった。
中学二年生になったのに、未だぼくにべったりで。
羞恥心くらいはさすがに身に付けてくれたようで、身体を密着させてくるみたいなことはもうなくなったけれど。
わがままを言うなら、ぼくは彼女に抱きしめられたい。
そのまま死んで、すべてを上書きしたまま幸せに包まれて死にたい。
ああ、気分が悪い。
吐きたい。
家に帰ったら吐けない。
Yシャツだけで、下にはなにも履かずに、ぼくはゆっくりと歩きながら、足を引きずりながら、壁にもたれかかりながら、家を目指す。この格好では、露出魔として通報されても文句は言えない。
スマホは壊されて、使い物にならない。
ぼくは、自宅ではなく、近くの家に避難するべきだったのかもしれない。
近所には、元警察の人が住んでいる。柏の実家だって、ここからそう遠くない場所にあるのだ。
でも、ぼくはやっぱり自分の家に帰りたかった。
過去に、あの子が受けた傷をようやく体感できた。
あまりにも最悪だった。
死にたくなる。
汚された。
汚い。
ぐちゃぐちゃにかき混ぜられたような気分だった。
「………………事件について、話せそうですか?」
「大丈夫です、ちゃんと話せます」
目の前に、女性警官がひとり。やっぱり、こういう事件では女の人が活躍するのだろうか。
「………………………………」
狭い密室の中に、ふたり。さっきまでいたガラの悪い人間は、ぼくに気を遣ってくれたのか。
「では、あなたがされたことを覚えている限り言語化してください」
「…………………………」
そういえば、見覚えがある。
この人――時々、柏となにか話していた人だ。
なにを話していたんだろう。
あの子に、なにをさせていたんだろう。
「されたこと、だけですか?」
「それは、昨日教えてくれたでしょう? 昨日のあなたは、少し取り乱していたようなので、日を改めたのです」
「そうですか」
それはお恥ずかしい限りで。
「………………」
ぼくは頭の中で、昨日の出来事をどのように表そうか考えてみた。
高校生レベルの語彙では、説明しきれない事象もたくさんあるのだ。
とりあえず、言葉に詰まるまでは話そうとぼくは口を開いた。
「まず、ぼくは後ろから殴られました。だけれど、気絶はしなかったんです――」
捜査が円滑に進むように、なるべく分かりやすい表現を心がける。
どうか、犯人がすぐ捕まりますように。
ぼくの心なんて、どうでもいいから。
さっさと犯人を捕まえて、柏が安心して暮らせるような街にしてくれ。
「――みたいな感じです。あと、チクチクしたので髭が生えてました。でも、見た目的にはそこまで目立っていなかったと思います。無精ひげかな。あ、指輪もつけてたと思います」
「…………………………」
ぼくの証言をもとに、似顔絵を作成している目の前の刑事――芹梨さん。
彼女はなにかをぶつぶつと呟きながら、恐るべきスピードで人間の顔を描き上げていた。
「中年男性、大きい身体、細い一重、腕時計、薄い髪、無精ひげ、指輪………………」
そして、似顔絵が完成に近付くごとに、芹梨さんの表情は曇っていった。
もしかして、ピンとくる人間がいたのだろうか。
「…………その、大丈夫ですか?」
心優しい人のように他人の心配をしてみると、芹梨さんは集中しないと聞き取れないような声で言った。
「……………………」
「え、なんて?」
ぼくは集中していなかったので、もう一度言ってくださいとお願いする。
すると、芹梨さんは言った。
「犯人、分かりました。多分ですけど」
「え?」
ぼくにあんなことまでさせたのだから、そりゃ全力で犯人を捕まえてくれとは思ったけれども…………、こんなに、あっさり見つかるものなのか。
「なら、すぐ捕まえてくださいよ」
「……………………」
ぼくの言葉に、芹梨さんは苦い顔をして黙ってしまった。どこか、ぼくの態度に不満があったのだろうか?
しばらく経ってから、芹梨さんは言った。
「逮捕は、不可能です」
「………………は?」
逮捕は不可能って…………、どういうことだ?
もしかして、ぼくを襲った犯人はとんでもない権力者だったのか?
それとも、ほかになにか原因があるのか………………?
疑問が頭の中で七転八倒する。もうこれ以上、困惑させないでほしいのだけれど。
「どういうことですか」
分からないなら、人に訊けばいい。
ぼくの質問に、芹梨さんは虫のように小さな声で答えてくれた。
「今朝四時」
とあるアパートの一室で――彼の遺体が発見されたんです。
つまり、柏には被害が及ぶ心配はないということだ。
ああ、よかった。なにもかもがハッピーエンドだ。
それなのに、
「……………………どうして、芹梨さんはそんなに暗い顔をしてるんですか?」
ぼくの問いかけに、芹梨さんは力ない声で応じた。
「犯人に逃げられたからですよ」
「逃げられた………………」
確かに、今回の事件の犯人は、自らの犯した罪を償ってはいない。むしろ、その償いから逃げている。
芹梨さんに正義感や被害者への思いやりがあるようには到底見えないが、それでも犯人を逃すことだけはけしてしたくなかったのだろう。
「すでに、事件の犯人と思われる人間は死亡しています。犯人に罪を償わせることができないのであれば、捜査する必要なんてありません。警察なんていりません」
「……………………」
芹梨さんは、犯人に罪を償わせるために警察という職を選んだのか。
詳細はどうでもよくて、ただ犯人が不幸になればそれでいい――そういうタイプ。
「ロープで首を絞めて、宙ぶらりんで汚物をまき散らして、最期に高校生を犯して、警察に無駄働きをさせる。まさに害悪ですよ。あんな男、最初から生まれなければよかったですね」
「………………」
そうですね、と心の中で肯定した。
「あーあ、警察やめたいです」
「……………………あの」
本当になんとなくだが、訊いてみたくなった。
「いつも、つらいんですか?」
「当たり前でしょう」
もしかしたらぼくは、自分よりも痛々しい人間を見て、自分の痛みを誤魔化そうとしたのかもしれなかった。
「被害者は、被害を受けた時点で終わりなんですよ。だから、セカンドレイプに抵抗はありません。でも――内心が、行動とまったく噛み合わないんですよ」
目の前の刑事と、目が合わなかった。
「私は、罪悪感を抱きながら罪のない人を傷付けることができます。犯人の人生を終わらせるために、被害者の人生を終わらせます。でも、気持ちはずっとつらいです」
ぼくが本当に言いたいことを、芹梨さんは察しているのかもしれない。
「あの子を故障させたのは、理性を抑えられなかった私の善意なんですよ? アレを覚えている限り、あの子はまともに生きられない。だから私は、あの子を限界まで追い詰めることで、防衛機制を発動させたんです。完全に崩壊する前に」
それを故意にやってのけたと? そんなの、さすがにあり得ないだろう。
あまりにも非現実的すぎるし、人間業ではないとか以前に、人の心がない。
「信じられませんよ、そんなの」
「関わりのない人にどう思われようがかまいません。私は警察ですから」
慣れています、と芹梨さんは言った。その言葉が本音だったかどうかは、知ろうともしなかった。
人として、目の前の女性刑事はあまりにも違いすぎた。
彼女は、人じゃない――そう感じた。
過去に柏がこの人にされたことも、今ぼくがされたことも、全部がどうでもよく感じた。
ただ、関わりたくなくなった。
ぼくは席を立った。
「………………そろそろ、帰ってもいいですか?」
「いいですけど、また呼ばれますよ」
「柏に会いたいんです」
「そうですか…………、なら、最後にひとつ」
芹梨さんは、すべてを見透かしたように言った。
「警察にはついても、自分に嘘をついちゃ駄目ですからね」
柏ちゃんの前では泣かないでくださいね――芹梨さんの言葉に、少なくとも嘘は見つからなかった。




