第9話 街には街の歴史がある
朝、目が覚めて、俺は天井を見上げていた。
昨日の研究室の疲労は、思っていたほど引いていなかった。書く実験が累積した分、回復に時間がかかる――身体がそう告げていた。
ベッドから身を起こして、宿舎の窓に向かう。
窓の外、アレクサスはまだ静かだった。白と透明の建物群の輪郭が、朝の薄い光の中で浮かんでいる。遠くの統合研究棟のドームが、空気の密度の違いで歪んで見えた。
俺はゆっくり身支度を整えた。焦る理由はない。今日も明日も、業務はある。俺はこの街の住人だ――そう内心で確認する。
宿舎を出ると、解体現場までの道のりを歩いた。
朝のアレクサスは、活動が始まったばかりの空気だった。研究員らしき白衣の人々が、統合研究棟の方向に歩いていく。彼らもこの街の住人だ。それぞれが自分のCDEを身につけて、それぞれの仕事に向かっている。
俺は道を歩きながら、観察を続けた。
首都の中央部とは、街の質感が違う――その感覚を、改めて確認する。首都はもっと整然としていた。白と透明の建物が均質に配置され、人通りも均一だった。
アレクサスは新興の研究都市として作られているが、首都ほどの完成度はない。所々に旧構造――古い石造りや木造の建物――が残っている。新しい建物が、古い建物を上書きしていく途中。その境目の不揃いさが、街並みに奇妙な層を生んでいた。
俺はそういう景色を、興味深く眺めた。
完全に整いきった首都より、整備の途中の地方の方が、この国の本当の姿を見せている気がした。整いきった街並みは、何かを見せないために整えられている――そういう感覚があった。
解体現場には、ガルドが先に来ていた。
「おう、神野」とガルドは短く言った。「今日は、隣の建物に取り掛かる。一日で済ますぞ」
「了解です」
ガルドが指差した先には、昨日まで作業していた倉庫の隣にある、もう一つの古い建物があった。石造りの二階建て――倉庫よりは小さいが、かなり頑丈そうな構造をしていた。
ガルドは少し離れた場所からその建物を眺めた。
そして、彼の目が一瞬、変な動きをした。
集中している、というより、読み取っているような目。彼の視線が、建物の外壁、窓枠、屋根の継ぎ目――そういった構造の重要部位を、一つずつ確認しているように見えた。
数秒後、彼の目が普通に戻った。
「外壁の北側、石材が劣化してる。下手に崩すと、屋根が予想外の方向に倒れる。先に屋根から落とせ。屋根を片付けてから、外壁を東西方向に崩せ」
俺は、彼の指示に頷きながら、気づいた。
「ガルドさん、CDEは?**」と俺は聞いた。
ガルドは意外そうに俺を見た。
「おう、見抜いたか」
「今、建物を眺めてた時の目つき」と俺は答えた。「何かを読み取ってる感じでした」
ガルドは短く笑った。今までで一番、表情が緩んだ笑いだった。
「**俺のCDEは、建物のステータスを把握するだ。見れば、どこが弱いか、どこが強いか、どの順番で崩せば安全か――全部見える」
「現場主任として、最高の能力ですね」
「だな」とガルドは頷いた。「**派手じゃない。戦闘にも使えない。だが、現場では重宝される。俺はこれで生きてる」
そして彼は少しだけ遠くを見るように続けた。
「……戦時には、こんな能力、何の役にも立たなかった」
俺はその言葉に、反応しなかった。
深掘りすべきではない――そう直感した。ガルドが自分から漏らした言葉**であって、こちらが引き出すべきものではない。労働の現場で、過去を語ることの作法を、俺は守った。
ガルドは数秒、自分の言葉に苦笑するような表情を浮かべた後、現場の指示に戻った。
「さて、屋根からだ。北東の角から、ゆっくり崩せ。落とし方は、書きながら調整しろ」
俺はペンを取り出した。
現場が動き出した。
午前の作業の途中、休憩時間になった。
俺とガルドは、作業現場の脇に並んで座った。水筒の水を飲んで、軽く息を整える。夏ではないが、肉体労働は身体を温める。
「この建物」と、しばらくしてから、ガルドがぽつりと言った。「戦時には弾薬庫だったらしい」
俺は彼の方を見た。
ガルドの視線は、半分崩した建物に向いていた。
「……弾薬庫?」
「ああ。連邦軍が使ってた」とガルドは続けた。「**この辺りはな、戦時には連邦の防衛拠点だった。前線からは離れてたが、物資の集積場所になってた。敵が来ることもあった」
俺は黙って聞いた。
ガルドの口調は、感慨を込めるでもなく、特別重く語るでもない。ただ、事実を淡々と伝えている。**だがその淡々さの奥に、実際にここで何かを見た男の感覚があった。
「……この土地は、戦場だったんですね」と俺は静かに返した。
「全部が戦場だったわけじゃない」とガルドは肩をすくめた。「**この地方は、敵の進軍ルートの一つだった。侵攻はあったが、最終的に押し返した。今、この街が建ってる場所も、かつては破壊された村があった場所だ」
破壊された村。
俺の頭の中で、この街の地下にかつての村の記憶が眠っている――そういうイメージが浮かんだ。
「今、解体してるこの建物も、戦時の遺物ということですか」
「そういうことだな」とガルドは頷いた。「この弾薬庫は、戦争が終わった後も使い道がなくて、そのまま放置されてた。何十年もな。今、ようやく片付けられている」
何十年。
戦争が終わって十年程度だと、俺は把握していた。だがこの建物自体は、戦争の前から弾薬庫だった可能性もある。何十年も前から、この土地は戦争の準備をしていた――そういう歴史の層がある。
ガルドは水を一口飲んで、少しだけ姿勢を直した。何かを言いかけている――そう感じた。
「神野、お前は外から来たんだな」とガルドは静かに聞いた。
俺の心臓が、ほんの少し速くなった。
ガルドは、俺の出自について何かを察している――これは確かだ。受付やクレハから情報が伝わったか、あるいは現場での俺の言動から推測したか。
「そうですね」と俺は短く答えた。
詳細は語らない。まだ、すべての手札を切る時ではない。
ガルドはそれで満足したようだった。
「外から来たなら、たぶん知らないだろうから言っておく」とガルドは続けた。
「昔はな」――ガルドの声が、少しだけ低くなった。「こういう力は、貴族の特権だった。CDEって名前すらついてなかった、ただ家系で受け継がれる神秘みたいな扱いでな。庶民にゃ、永遠に縁のない話だった」
俺は驚いたことを隠さなかった。
「……今、普及率100パーセント、ですよね」
「そうだ。今は、誰もがCDEを持てる」とガルドは頷いた。「だが、それは戦争で勝ち取った権利**だ。連邦が二か国を返り討ちにした時、CDEのライセンス――付与権だな――を奪った。それまでは、敵の二か国がそれを独占してた。連邦は、勝った後、そのライセンスを国民全員に開放した」
国民全員に開放。
俺はその言葉の重みを、ゆっくり呑み込んだ。
現代日本の感覚で言えば、特権技術の民主化――工業化革命や情報革命に近い構造変化。それが戦争の戦勝処理として一気に行われた。この世界の歴史の中で、最も大きな転換点だったろう、これは。
「**……ガルドさんは、その変化を見てきたんですね」と俺は静かに言った。
「**ああ。全部見てきた」
ガルドは遠くを見た。
「**俺の故郷は、戦時に消えた」と彼は言った。事実を伝える口調で。「**敵の侵攻ルート上にあった村だ。何も残らなかった」
俺は黙った。
何を言うべきか分からなかった。慰めも、共感も、安易には返せない。
ガルドは俺の沈黙を察したらしい。少しだけ口元が緩んだ。
「気にするな」と彼は言った。「**もう昔の話だ。今は、こうやって新しい街を作ってる。**俺の故郷を取り戻すことはできないが、ここで誰かの故郷を作ることはできる。それで、十分だ」
「……CDEがな、街を作ってるんだ」とガルドは続けた。
その言葉には、ある種の感慨が滲んでいた。
「昔、戦時の俺にとっちゃ、CDEは敵の力だった。貴族や敵兵が使う、俺たち庶民を踏み潰す道具でしかなかった。それが――今は、こうやって街を作る道具になってる。俺自身も、CDEを持ってる。**こんな日が来るとは、戦時には思わなかったな」
ガルドは水筒を握り直した。
「**だから、俺は復興に前向きだ」と彼は淡々と言った。「**CDEは、変わった。**戦争に勝った連邦が、その変化を実現した。今の合衆国は、本物の新しい国だと、俺は信じてる。**だから、この街を作る仕事は、俺にとって意味がある」
俺はガルドの言葉を、頭の中で反芻した。
戦争を経験した人間が、戦争の結果として実現した変化を肯定する――これは、重い言葉だ。簡単に出てくる言葉ではない。**ガルドは、自分の喪失を抱えながら、その喪失を生んだ戦争の勝利を、意味あるものとして受け入れている」。
これはゼノスとは違う、と俺は内心で思った。
ゼノスは戦時の研究の蓄積を肯定し、戦時の論理が今も通用すると考えている。
ガルドは戦時の不平等を否定し、戦後の民主化を肯定している。
**同じ戦争を経験しても、何を見て、どこに立っていたかで、歴史の評価は正反対になる。
休憩が終わって、解体作業が再開した。
俺はペンを使い、ガルドの指示通りに建物を崩していった。屋根を北東の角から落とし、外壁を東西方向に倒し、最後に基礎を片付ける。現場の手順は、ガルドの指示通りに進んだ。
そして昼前には、かつての弾薬庫は、ただの瓦礫の山になった。
ガルドは満足げに頷いた。
「……いい仕事だ」と彼は短く言った。「**この弾薬庫が、やっと役目を終えた」
俺は彼の言葉を、そのまま受け取った。
**この建物の解体は、ガルドにとって、戦争の終わりを一つ確認する作業でもあった。戦時の遺物が、新しい街の素材に変わる。**そういう意味の重みを、俺はようやく理解した。
午後、俺は研究室に向かった。
クレハは既に研究室で待っていた。いつものように、彼女のチームの研究員数人もいた。
「おはようございます、神野さん」とクレハは挨拶した。「今日は、昨日の続きで、書く対象のバリエーションを増やしていきます」
俺は頷いて、作業台の前に立った。
実験は淡々と進んだ。様々な対象に、様々な内容を書く。石、木材、金属片、布製品、液体――それぞれに対する反応を確認する。結果はおおむね、昨日までの傾向の延長だった。書く対象の元の状態と、書く内容の組み合わせで、結果が決まる。俺は、自分のペンの仕組みを、少しずつ理論化していた。
実験の合間、休憩時間に、クレハと短い会話になった。
「**神野さんは、この街、どう思われますか?」とクレハは聞いた。
率直な質問だった。
研究の話ではなく、街の話――これは、研究者ではなく、立案者としての彼女の質問だった。アレクサスを作った彼女が、外から来た俺に評価を求めている。
「……整いすぎているところと、整っていないところが、混在していますね」と俺は静かに答えた。
クレハはわずかに笑った。
「正直な感想ですね」と彼女は言った。「**まだ建設の途中ですから、整っていないところが多いんです。それでも、首都とは違う街を作りたかった。完成しすぎて、何かを見せないために整えられている街ではなく、まだ余地のある街を」
何かを見せないために整えられている街――それは、俺が朝、街を歩きながら感じたことだった。**首都の整いすぎは、何かを隠しているように見えた。
クレハは続けた。
「……戦争が終わって十年」と彼女は言った。「**首都は、復興の象徴として急ピッチで作られました。新しい合衆国の顔として。**でも、**首都が完璧であることが、逆に、戦争の傷を見せないようにする圧力になっている部分もある、と私は思っています」
「戦争の傷を、見せないように」
「ええ」と彼女は頷いた。「**地方には、まだ戦争の傷が見える。**完全には復興しきっていない場所が、地方にはある。**ガルドさんのような、戦争を経験された方も、地方にはまだ多い。そういう人たちのための街を、首都とは違う形で作りたかった」
俺は彼女の言葉を、ゆっくり呑み込んだ。
クレハは、首都の論理ではなく、地方の論理で街を作ろうとしている。戦争の傷を隠すのではなく、戦争の傷を抱えた人々が前を向ける場所を作ろうとしている。**26歳の彼女が、この発想を国家戦略レベルで通した理由が、今、ようやく見えた。
「……素晴らしい志ですね」と俺は静かに言った。
「志があるだけです」とクレハは少し恥ずかしそうに笑った。「**実現できるかどうかは、これから次第です。**神野さんのようなご協力者の力を借りながら、何とか形にしていきたい」
俺は彼女の言葉に、頷きを返した。
研究の業務が終わって、俺は研究棟の出口に向かった。
廊下を歩いている時――。
前方から、深い色の帽子を被った人物が、ゆっくり歩いてくるのが見えた。
ゼノスだった。
俺は反射的に身構えそうになった。彼の存在感は、意識すると一気に重みを増す。
ゼノスは俺に気づいて、軽く目礼した。
「やあ、神野くん」と彼は穏やかに言った。「研究は、順調かね」
「おかげさまで」と俺は短く返した。
ゼノスは立ち止まった。俺と並ぶような位置で、少しだけ視線を遠くにやった。
「……アレクサスは、いい街だ」とゼノスは言った。「**クレハ君の理想が、形になりつつある」
その言葉に、敵意は全くなかった。穏やかな評価として聞こえる。
**だが、続きの言葉には、わずかな含みがあった。
「**ただ、理想が形になるかどうかは、結果次第だ。アレクサスがCDEの研究で目に見える成果を出せるか――それが、この街の運命を決める」
「……そうですね」と俺は答えた。
ゼノスは俺を見た。急がない目で。
「**君のCDEは、この街にとって極めて重要だ」とゼノスは言った。「**改変系で、外来者で、クレハ君のチームが熱心に研究している――君の存在が、アレクサスの成果を左右する。**それは、君も理解しているだろう」
俺は沈黙で答えた。
理解している。自覚している。**それを、ゼノスは知っている。
「期待しているよ、神野くん」とゼノスは静かに言った。「**研究の結果が、歴史の中でどう評価されるか――これからの数か月で、多くのことが見えてくるだろう」
そして彼はゆっくり歩き出した。**急がない歩調で、廊下の奥に消えていった。
俺は動かずに、彼の後ろ姿を見送った。
廊下に俺一人が残った。
ゼノスの言葉が、頭の中で繰り返された。
期待している――その言葉は、穏やかな表面を取れば、圧力だった。結果を出せ、結果が出なければ、評価は変わる――そういう含み。
**ゼノスは、俺の研究の結果を見ている。クレハの路線が成功するか失敗するかを、じっと観察している。**直接の脅威ではないが、**彼の存在は、俺の業務全体に重みを加える」。
そして俺は気づいた。
ゼノスが、「歴史」という言葉を使ったこと。
彼の口癖――今進めている研究の間違いは歴史が証明している――のうちの**「歴史」**。それを、未来形で、「歴史の中でどう評価されるか」**として使った。
現在の研究が、未来の歴史の中で評価される――これは、ゼノスにとって、今の状況も将来の歴史の一部として捉えているという意味。彼は、長期的な視点で動いている。焦らない、待つ、結果を見る――その姿勢が、さっきの会話の本質だった。
宿舎に戻って、俺はベッドに座った。
今日学んだことを、頭の中で整理した。
合衆国は戦争を経た新興国家――それは知っていた。
戦時にはCDEは貴族の特権――今日、ガルドから知った。
戦勝でCDEのライセンスを獲得し、全国民に開放した――これも今日。
首都は復興の象徴として急ピッチで作られたが、戦争の傷を隠す側面もある――今日、クレハから示唆された。
地方にはまだ戦争の傷が残っている――ガルドの故郷の話、解体している建物の歴史。
ゼノスは、戦時の論理を保持し、戦後の方針を懐疑的に見ている――今日の廊下での会話で確信した。
そしてゼノスは長期的視点で動いている、結果を待っている――これは、警戒を継続する必要があるという意味。
俺はこの世界を、徐々に理解しつつある。
**そしてこの世界は、**俺をどう扱うか、まだ決めかねている。
派遣事業の任務として、情報を持ち帰ることが俺の使命だった。今日得た情報は、日本にとって貴重なものになるだろう。他世界の戦争史、CDEの社会史、新興国家の現状――これらは、情報報酬の対象として高く評価されるはずだ。
だが、それ以上に――。
俺は窓の外を見た。
**アレクサスの夜景は、昨日と同じだった。白と透明の建物に、点々と明かりが灯っている。
**この街には、この街の歴史がある。
**そしてこの街の人々は、それぞれの理由で、復興に関わっている。
**俺は、この街の一部として、今、ここにいる。
派遣事業の任務だけではない、何かがここにある。
**それが何かは、まだ俺には言葉にできない。
俺はペンをポケットから取り出して、机の上に置いた。
真っ白なペン――今日も、彼女は書く道具だった。
明日もまた、書く日が来る。
俺は目を閉じた。
少し、深く考えすぎたかもしれない――そう内心で苦笑して、意識を手放した。




