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第7話 解体という仕事

朝、目が覚めて、しばらくは天井を見ていた。

知らない部屋の天井。白い、均質な素材の天井。

地球ではない、と俺は再確認した。

これは夢じゃない。昨日の続きだ。

俺は身を起こして、宿舎の小さな浴室で身支度を整えた。水道は普通に出る。鏡もある。地球の生活と大きく変わらない。文明レベルそのものは、こちらと同等――あるいは、CDEの存在分だけ、こちらの方が便利かもしれない。

机の上のペンを、俺はもう一度確認した。

真っ白な、何の変哲もないボールペン。


宿舎の入口を出ると、ちょうどクレハがやって来るところだった。

「おはようございます、神野さん。よく眠れましたか?」

「おかげさまで。意外なほど、ぐっすりでした」

「移動でお疲れだったでしょうから、それは何よりです」

クレハは今朝も研究着を着ていた。だが昨日と違って、手元に小型の端末らしきものを持っていた。情報の確認用の機器だろう、たぶん。地球のタブレットに似た形状だが、画面の発光が違う。これも何かのCDE由来かもしれない。

「今日から正式に業務開始です。まずは、業務の全体像をご説明しますね」

クレハは並んで歩きながら、よどみなく説明を始めた。

「神野さんに関わる業務は、大きく分けて二つあります。一つは、建物解体補助。もう一つは、研究参加です」

俺は頷きながら、頭の中でメモを取った。

「解体補助は、午前中の業務になります。アレクサス内には、計画都市の建設前から存在していた旧構造**――古い建物がいくつか残っています。これらを順次撤去し、新しい研究施設や住居に置き換える作業が進行中です**」

旧構造、と俺は心の中で復唱した。

アレクサスは更地から新築されたわけではないということだ。既存の街か村か、あるいは別の何かの上に、計画都市が上書きされている。前時代的な合衆国の、その下にあった層。

「研究参加は、午後から夕方にかけての業務です。CDE研究の各部門に交代でご協力いただきます。神野さんの能力の検証、観察、関連データの収集、こういった内容になります」

「観察、というのは具体的には?」

「そうですね、具体的には――」とクレハは少し言葉を選んだ。「神野さんがCDEを使う様子を、私を含む研究員が観察します。書く対象を変える、書く内容を変える、書く媒体を変える――そういった条件設定での発動を、現象として記録するのが基本です」

つまり実験ではあるが、被験者の身体に介入する形のものではない。書く実験であり、俺の身体に何かを試す実験ではない。

クレハの路線――観察重視、非侵襲的――が、業務内容にしっかり反映されている。

「神野さんに無理な負担はかけません」とクレハは念押しするように言った。「観察というのは、神野さん側に意思のある協力をお願いする形になります。書きたくないものは書かないでいいということです」

「分かりました」

俺は内心で少しだけ安心した。クレハが研究方針を貫いているのは、最初の数十分の付き合いだけでは判断できなかった。だが業務説明という具体的な場で、彼女はその方針を明文化した。これは口先だけではない、ということだ。

少なくとも、今のところは。


解体現場は、アレクサスの北端にあった。

新しい白い建物群がある中心部から、徒歩で十数分の距離。歩を進めるにつれて、周囲の景観が変わっていくのが分かった。透明な建材で作られた建築が減り、代わりに木造や、地味な石造りの建物が点在し始める。

前時代的な建物――クレハの言葉で言えば旧構造――が、ここに集まっていた。

「この区画一帯が、解体予定地です」とクレハは説明した。「今日は、こちらの倉庫らしき建物の撤去から始めていただきます」

彼女が指差した先に、二階建ての石造りの建物があった。

窓は割れていて、屋根の一部は崩落している。長く使われていない放置建築だ。元の用途は分からないが、もはや機能していないことは一目で分かる。

「解体作業班は、すでに現場で待機しています」


倉庫の前には、七、八人ほどの作業員らしき人々がたむろしていた。

全員、くたびれた作業着を着ている。研究都市の整然とした雰囲気とは違う、現場仕事の空気。石粉や土埃が衣服についている人もいて、日常的に肉体労働をしていることが見て取れた。

その中の一人――四十代くらいの男性――が、俺たちに気づいて近づいてきた。

がっしりした体格、短く刈った髪、日に焼けた顔。叩き上げの現場監督、という風貌だった。

「クレハ主任、お疲れさまです」

彼の口調は丁寧だが、研究者に対する形式的な敬意だった。心からの敬意かどうかは分からない。

「ガルドさん、お疲れさまです」とクレハも頷いた。「こちらが、本日から解体補助に入っていただく神野さんです。改変系のCDE保有者です」

ガルド、と俺は心の中で復唱した。この男が、現場の責任者ということになる。

ガルドの視線が、俺に向いた。評価する目だった。役に立つかどうか、現場仕事に耐えられるかどうか――そういう観点で俺を見ている。

「改変系か。珍しいな」とガルドは短く言った。「俺は現場主任のガルドだ。改変系で何ができる? 解体に使えるのか?」

率直な問いだった。愛想笑いも、社交辞令もない。現場で動ける能力かどうかだけを聞いている。

「書いたものを現実にする能力です。書いた対象が、書いた内容の通りになります」と俺は答えた。

ガルドの眉が、わずかに動いた。

「……要するに?」

「たとえば、岩にもろいと書いて触れると、岩が崩れます」

俺は具体例で答えた。抽象論ではなく、結果で示す――それが現場の人間に通じる説明だ、と直感した。

ガルドはしばらく俺を見つめた後、ふっと息を抜いた。

「……それが本当なら、解体作業は楽になるな」

その口調には、まだ半信半疑のニュアンスがあった。実演を見るまでは信じない――そういう類の警戒。

俺はそれで構わないと思った。信じてもらう必要はない、見せれば分かる。

「ガルドさん、本日の作業手順をお願いします」とクレハが促した。

ガルドは頷いて、倉庫の方を指差した。

「この倉庫を、本日中に完全撤去する。残骸は中央広場で処理場に運ぶ。あんたが書いて崩せるなら、まずは外壁の一部から試してくれ。一気に全部崩さなくていい。手順を確認しながら進めるぞ」

慎重な指示だった。未知の能力を、いきなり全力で使わせない。これは現場の鉄則だ。

俺はガルドの指示に頷いた。実用的な現場監督だと、内心で評価し直した。


倉庫の外壁の前に立った。

石造りの壁。厚さは目算で三十センチほど。見た目は普通の石壁――地球の古い建築物と大差ない。

俺はポケットからペンを取り出した。

ガルドと作業員たちが、少し離れた場所から見ている。クレハは俺の真横ではなく、斜め後ろに立った。観察しやすい位置取りだ。彼女のカラコンは、この瞬間も俺を分析しているはずだ。

俺は壁の表面に手を当てて、何を書くかを考えた。

最初の選択肢――もろい。

昨日の岩で試した一語。結果は、一瞬で完全崩壊。

だが、それはこの場面では適切ではない。

今日の依頼は、完全撤去だが、残骸の処理まで含めた作業だ。一瞬で砂粒にしてしまうと、処理場に運ぶ手間が変わる。粉にしてしまえば運搬は楽だが、作業手順がガルドの想定と合わなくなる。

俺はもう少し考えて、書く内容を変えた。

『この壁は、外側に向かって、ゆっくり崩れる』

そう書いた。

具体性を上げた。方向を指定した。速度も指定した。

鑑定書に書かれていた条件――具体的に書くほど効果が強くなる――を、今度は「制御」のために使った。

書き終わって、俺は壁から手を離した。

ペンの先で書いた文字は、石壁の表面に黒インクで残っていた。

数秒後――。

壁が、ゆっくり崩れ始めた。

外側に向かって、水のように、しかし固体のまま――石片が一つ、また一つと、重力に逆らわない自然な動きで外側に倒れていった。音は、思ったより静かだった。石材の鈍い擦過音が断続的に鳴る程度。

俺の足元の方には、何も崩れてこなかった。

書いた指定の通り、外側にだけ崩れている。

そして崩れる速度は、ゆっくり――数秒で全部崩れるのではなく、十数秒かけて、徐々に。

俺の体力が、昨日の岩より明確に減った感覚があった。

規模が大きい分、消耗が大きい。だが動けないほどではない。もう一壁分くらいは余裕がある。

崩れ終わった瞬間、現場が静かになった。

ガルドが、ゆっくり前に進み出てきた。

崩れた石片の山を見て、それから俺を見た。

「……あんた」

ガルドの目が、少しだけ大きくなっていた。

「書いて崩せる、と言ったな。これは、想定の十倍速い」

「そうですか?」

「あの規模の壁を、人手で解体すれば半日かかる」とガルドは石片の山を顎で示した。「それを、あんたは数秒で崩した。しかも外側だけに。中の作業員に石が落ちてこない」

ガルドは息を吐いた。

「――合格だ。やれるな、あんた」

「ありがとうございます」と俺は短く返した。

ガルドの表情から、最初の警戒が消えていた。現場で使える人間として、彼の中で俺の評価が確定した瞬間だった。

クレハが、俺の斜め後ろでわずかに微笑んだのが、視界の端で見えた。

観察した結果、彼女も何かを確信した――その笑みだった。


その日の作業は、順調に進んだ。

倉庫の残りの壁、屋根、内部の柱――すべて、書いて崩した。書く内容を変えながら、結果をガルドの作業手順に合わせて調整した。

倉庫の半分まで崩したところで、俺は疲労を感じ始めた。

ペンを使うほどに、体力が消耗する。鑑定書の通りだ。規模が大きく、回数が多くなれば、消耗は累積する。

ふと、頭の中で別の選択肢が浮かんだ。

俺は疲れない――そう書けば、たぶん効く。

俺の体力は無限――これでも効くかもしれない。

書けば、楽になる。

書ける。

俺は手を止めて、ペンを宙で止めた。

そして――書かなかった。

自分の身体を書き換えるのは、最も慎重にやるべき領域だ。書いたら戻せない――この制約は、自分の身体に対しては、最大限重い。俺は自分の身体を、安易に書き換えない。疲労は人間として当たり前のことだ。それを書き消したら、俺は何かを失う気がした。

俺は手の中のペンを握り直した。

書ける状況で、書かない。それが俺の使い方だ。

「少し休憩しよう」とガルドが声をかけてきた。

俺の手の動きが止まったのを、彼は見ていた。現場の人間として、消耗を見抜いている。

「この規模の作業を一日でやれっていうのが、そもそもの無茶だ。半分崩しただけで十分すぎる」

「続けられますよ」と俺は返した。

「続けられる、と、続けるべき、は別だ」とガルドは肩をすくめた。「初日は加減が分からないだろう。残りは明日でいい」

俺は彼の言葉を受け入れた。現場の人間の判断を、外から来た俺が拒否する理由はない。ガルドは俺を保護する側に回っている――そういう変化が、午前中の数時間で起きた。

クレハが歩み寄ってきた。

「お疲れさまでした、神野さん。素晴らしい初日でした」

「仕事として、成立してよかったです」

「それ以上ですよ」とクレハは言った。「書く内容を書きながら調整する**――あなたは、能力を思考しながら使うタイプの保有者です。これは、研究観察上、極めて貴重なケースです**」

彼女のカラコンが、ふっと俺を見つめた。

観察データが、また一つ蓄積された瞬間だった。


午後の研究参加は、初日は軽めの説明で終わった。

クレハが、研究都市内の各部門を案内してくれた。観察棟、実験室、データ管理室、関連する研究員の紹介――俺が今後関わる人々の顔と名前を頭に入れる作業。業務というより、オリエンテーションだった。

最後に、クレハは俺を一つの大きな部屋の前まで連れて行った。

「ここが、明日からあなたが書く実験を行う部屋になります」

部屋の中には、様々な書く媒体が並んでいた。多種類の紙、布、金属板、木板、陶器、植物の葉――書くことのできる素材のサンプルだ。

そして書く対象らしき様々な物体――石、植物、水、特殊な液体――が、別の棚に並んでいた。

「色々な媒体に、色々な対象に、色々な内容を書いていただきます。書けるもの、書けないもの、効果の出方――それを観察するのが、ここでの研究です」

「理解しました」

「ただし」とクレハは静かに付け加えた。「ここでも、神野さんに無理は強いません。書きたくない内容、書きたくない対象は、すべて拒否できます。強制は一切ない――これは、私が運営責任者として保証します」

その言葉は、ゼノスへの牽制でもあった。運営責任者の私が保証する――つまり、ゼノスの主張がどうあれ、私の管理下では強制実験は行われないということ。

俺は彼女の言葉に頷いた。

「心強いです」

クレハは満足そうに微笑んで、その日の業務を終えた。


宿舎の部屋に戻って、俺は身体を倒した。

身体の疲労は確かにある。だが、心地よい疲労だった。

今日、俺は初めて、外で稼ぐ経験をした。

この世界での最初のリブが、俺の口座――に相当する何か――に入った。

俺は、生きていける。

そして俺は、現場仲間に、能力で実証する経験をした。ガルドという男に、役に立つ人間として認められた。信用されることの価値を、俺は思い出した。

情報を持ち帰るのが俺の任務だが、それは信用される人間にしかできない仕事でもある。

俺は手の中のペンを、もう一度見つめた。

真っ白なペン。

書ける、けど書かない――今日、俺は自分の身体に書かない選択をした。

それも、俺の使い方の一部だ。

明日からは、研究参加も本格化する。

書く媒体、書く対象、書く内容――俺自身の能力を、より深く理解する機会になる。

そして、それはクレハの観察対象にもなる。双方が双方を深く知っていく。

俺は窓の外を眺めた。

アレクサスの夕焼けは、地球と同じ色だった。

明日もまた、この街で生きる。



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