第5話 アレクサス、と聞いた
岩を崩した空き地から街へ戻る道すがら、俺は自分の体力を確認していた。
ペンを使った直後の疲労感は、思っていたより軽かった。もろいと三文字書いて膝丈の岩を消したのに、徒歩で一駅分くらい歩いた程度の疲れしかない。
これなら、日常的に使っても問題ない範囲だ。ここぞの時に大規模に使えば疲れるだろうが、小規模な使い方なら気軽に試せる。
ポケットの中のペンを、俺は軽く握り直した。
街の中央部に戻ろうとしていた、その時だった。
頭の中に、何かが入ってきた。
ヘアピンを装着した時と似た感覚。音として聞こえているわけではないのに、意味そのものが脳内に展開する。
それは、文字でも音声でもない、概念の塊として届いた。
俺は思わず立ち止まった。
通行人の邪魔にならない壁際に寄って、頭の中の情報を整理した。
「入国登録者・神野隆二様。あなたのCDEに適合する依頼が一件、配信されています。詳細を確認しますか」
なるほど。
これがヘアピン経由の依頼通知らしい。
俺は心の中で、確認すると意思を向けた。
それだけで、頭の中の情報が詳細展開された。
依頼の中身は、思っていたよりも具体的だった。
依頼名:研究都市アレクサス開発計画への参加
依頼主:合衆国政府/アレクサス開発局
業務内容:建築物解体補助、ならびに研究施設運営補助
契約期間:短期(試用期間)一ヶ月。延長可能
報酬:月額三十万リブ。住居・食事は支給。研究参加分の成果報酬は別途
募集対象:改変系CDE保有者を優先的に募集
備考:滞在型業務。アレクサスは合衆国の中心部から離れた新興研究都市である
頭の中で情報を読み終わった俺は、しばらく動かずに考え込んだ。
月額三十万リブ。 物価が日本円とほぼ同等なら、これはかなり破格の好条件だ。住居と食事まで支給されるなら、生活費はほぼゼロ。俺の手元には、稼いだ額がそのまま残るということになる。
それに改変系CDE保有者を優先的に募集――鑑定で「改変系は珍しい」と聞かされたばかりだ。俺のCDEが、この依頼を呼び寄せたのだろう。
俺は頭の中で、この依頼の構造を分析した。
メリット側:
高額の安定収入。生活基盤の確保。
住居支給。今夜寝る場所の問題が解決する。
研究都市――情報が集積する場所。情報を持ち帰ることが俺の任務でもある。
改変系として優遇される立場。舐められない。
一ヶ月の試用期間。合わなかったら抜けられる。
デメリット側:
滞在型。自分の行動範囲が研究都市に縛られる。
研究施設での業務――俺自身が観察される側になる可能性が高い。
中心部から離れた場所。他の派遣者と接触する可能性が下がる。
研究機関の内側で動く以上、身元情報が深く把握される。
しばらく考えて、俺は結論を出した。
受ける。
理由は単純だった。今の俺には、これより良い選択肢がない。
俺は外来者で、リブを一銭も持っていない。今夜泊まる場所もない。文字も読めない。自分の足で稼ぐといっても、何の足掛かりもない状態だ。
それに比べれば、研究都市での業務は確実に金になる。情報も集まる。観察される代わりに、こちらも観察し返す。
双方が双方を観察する関係は、フェアな関係でもある。
俺の頭の中で、ふと別の選択が浮かんだ。
ペンを使えば、もっと簡単に金を作れる。ここに千リブ札があると書けば、たぶん紙幣は現実に出る。具体的に書けば書くほど効果は強くなる、と鑑定書には書かれていた。
だが――やらない。
俺は心の中で、その選択肢を棚にしまった。
通貨偽造は合衆国の経済を壊しかねない。合衆国を敵に回せば、情報集めどころじゃなくなる。それに、もし帰還できた時、俺は日本側で戦犯扱いされるかもしれない。派遣事業の規約には、派遣先の国家秩序を毀損しないことが明記されていたはずだ。
ペンは強力だ。だからこそ、使い所を選ぶ。
俺は頭の中で承諾の意思を向けた。
「承諾を受け付けました。アレクサスへの移動経路を案内します。出発地は現地点から徒歩五分の交通拠点となります。本日中に到着可能な便があります」
依頼通知の声――いや、概念――は、淡々と続いた。
交通拠点は、街の中央部からやや外れた広場にあった。
そこには、俺が地球で見たことのない乗り物が並んでいた。
形状は車に近い。だが車輪がない。地面から数十センチほど浮いていて、何の音もなく停止している。表面は白とごく薄い青が混ざった素材で、合衆国の建物と同じ質感。
これも誰かのCDEで動いている乗り物なのだろう。
操縦士らしき人物が運転席に座っていて、彼の手にも、彼の身体のどこかにも、何か装着された道具があるはずだ。
俺は乗り場の係員らしき女性に、頭の中の依頼通知をヘアピン経由で共有した。彼女のヘアピンと俺のヘアピンが、何かを確認し合うような感覚があった。
「承りました、神野様。アレクサス行きの便にご案内します。所要時間は約二時間です」
二時間。
合衆国はそれなりに広いということだ。俺は今、その地理を知らない。
俺は浮いている乗り物に乗り込んだ。座席は思ったより快適で、シートの素材は柔らかいが沈み込みすぎない――現代日本の高級車の座席に近い質感。
他にも数人の乗客がいた。皆、それぞれの所持品らしきCDEを身につけている。腕輪、指輪、髪飾り、首飾り――形は違えど、全員が自分のCDEと共に旅をしている。
俺もポケットの中のペンに軽く触れた。
俺もこの国の市民相当として、自分のCDEと共に移動している。
乗り物は、ほぼ無音で発進した。
車輪がないのに、振動もほとんどない。窓の外を流れる景色だけが、移動していることを教えてくれた。
街を出ると、合衆国の地方の風景が広がった。
白と透明の建物は街の中心部だけのものらしく、郊外に出ると石造りや木造らしき素朴な建物が点在していた。畑のような区画もある。農作業をしている人々もちらほら見える。
合衆国は首都だけが計画都市で、地方はまだ前時代的な景観を残しているのかもしれない。建国間もない国らしく、整備の手が首都から外側に広がっている途中といった様子だった。
俺は窓の外を観察しながら、頭の中で情報を整理した。
この世界の地理は、まだ何も分かっていない。合衆国がどれくらいの規模か、隣国があるのか、海があるのか、山脈があるのか――事前情報はゼロだ。派遣事業の運営側も知らない情報。
そして俺がゲートから帰還するためには、カランドラ高地という地点を見つけなければならない。この世界での名称が違う以上、地形と気候の特徴から推測するしかない。
今日から一年。
それが、俺に与えられた時間。
二時間ほど経過したころ、車内の空気がわずかに変わったのを俺は感じた。
他の乗客たちが、窓の外を見始めていた。
俺もそれに倣って外を見た。
そして、息を呑んだ。
地平線の手前に、真っ白な街が広がっていた。
入国した街の中央部と同じ――いや、それ以上の、完全に統一された白の建築群。透明な部分の比率がさらに高い。
首都の建物がランダムに白と透明だったのに対して、こちらは設計図に従って配置されたような整然さがあった。建物の高さがほぼ揃っている、通路の幅が均一、広場の配置が幾何学的。
街の中心には、ひときわ大きな円形のドームらしきものが見えた。透明な素材で覆われた、巨大な複合施設。あれが研究施設の中核だろう。
これが――アレクサス。
研究都市アレクサス。
俺の依頼先。
そして、これからしばらく俺が生活し、観察され、観察し返す場所。
乗り物が停止した。
俺は他の乗客と一緒に降り立った。
降車場には、俺を待つ係員らしき人物が立っていた。白い研究着を着た、若い男性。彼は俺の顔を確認すると、軽く頭を下げた。
「神野隆二様ですね。アレクサスへようこそ。お待ちしておりました」
彼の口調は丁寧だった。だが、彼の視線は俺のペンを探していた。胸ポケットあたりに、無意識に視線が向いている。
改変系のペン――それが彼らの興味の中心だ。俺自身ではなく、俺のペン。
俺はそれに気づきつつ、気づかないフリで会釈を返した。
「神野です。よろしくお願いします」
「まずはご案内したい人物が二名おります。研究都市の運営責任者と、研究主任です」
俺は頷いた。
運営責任者と研究主任。
それが、これから俺が出会う、この場の二つの軸ということになる。
俺は係員の後について、アレクサスの中心部に向かって歩き出した。
ペンが入ったポケットを、軽く押さえながら。




