第4話 もろい、と書いた
街は思ったよりも静かだった。
地球の都市部と比べると、人通りはあるが密度が薄い。建国間もない国だから、まだ街の規模が小さいのだろう。あるいは、合衆国全体の人口がそもそも多くないのかもしれない。
俺は周囲を観察しながら歩いた。
すれ違う人々は様々だった。働き盛りの男女、買い物に向かう様子の中年女性、子供を連れた家族、年配の男。服装は地球の現代と概ね近い、シンプルな衣服が中心。ただし素材感がどこか違う。滑らかすぎる布、色ムラのない均一な織り――これも、誰かのCDEで作られたものなのかもしれない。
人々の所持品を観察すると、それぞれ何かしらの小物を身につけているのが分かった。指輪、ブレスレット、小さなバッグの中に何か。形は様々だが、共通点として機能的な造形をしている。
おそらく、あれが彼らのCDEだ。
全国民が一つずつ、自分のCDEを身につけて生活している。それがこの国の日常風景。
俺はポケットの中のペンに軽く触れた。
俺のCDEもまた、彼らの一人と同じように、ここに在る。
入国管理施設で受付の女性に教えてもらった通りに、俺はCDE管理局を目指した。施設から徒歩で十数分、街の中央部に近い場所にあるという。
道に迷うのを避けるため、俺は目印になりそうな建物を頭の中でメモしながら歩いた。
透明な大きなドーム状の建物。白い円柱が並ぶ広場。地面に埋め込まれた色違いの石畳が指す方向――どうやらこの石畳は、街の主要施設への道標として機能しているらしい。色の意味は分からないが、人々がそれを見て歩いているのは観察できた。
街の風景は、新興国家らしく新しさが満ちていた。
建物の角は鋭く、塗装はまだ褪せていない。広場の石畳はまだ磨かれている。建物の正面に掲げられた看板も、取り付けられて間もないように見える。
それと同時に、「整いすぎている」違和感もあった。
普通、街というのは雑然としているものだ。古い建物と新しい建物が混在し、商業地と住宅地が無秩序に隣接し、誰かが勝手に増築した変な構造物が街角に転がっている。
だがこの街は違う。全ての建物が同じ年代に、同じ思想で建てられたような統一感がある。計画都市――それも、極端に厳格な計画の上で建てられた都市。
合衆国の独立とCDE普及率百パーセントがほぼ同時だった、と受付の女性は言っていた。
ということは、この街の建設も、独立とほぼ同時だったはずだ。ゼロから一気に建てられた首都――そう考えると、街並みの均質さの理由が腑に落ちる。
歴史の浅い国家。
それは強みでもあるし、弱みでもある。
CDE管理局は、街の中央部に建つ大きな白い建物だった。
正面の入口の上部に、三種類の文字で何かが大きく刻まれていた。俺にはまだ読めない。だがこの規模と立地から、ここが管理局で間違いないと判断できた。
中に入ると、ロビーは広く、開放的だった。何人かの人々が窓口のカウンターで手続きを受けている様子。役所としての機能を果たしていることが、空気感で分かる。
俺は受付らしきカウンターに向かった。
「すみません」と俺は声をかけた。「鑑定を受けに来ました。入国したばかりで、自分のCDEの効果が分かっていません」
カウンターの担当者――若い男性――は、俺を見ても全く驚かなかった。外来者の鑑定は珍しくないのだろう。
「入国登録証をご提示ください」
俺は施設で受け取った紙を差し出した。彼はそれを一瞥して、何かの台帳に書き写した。
「神野隆二様、二十歳。鑑定の依頼を受け付けます。初回は無料です。鑑定者は現在、第三鑑定室に空きがあります。あちらの廊下を奥へ進み、右側の三番目の扉です」
俺は礼を言って、案内された方向へ向かった。
第三鑑定室の扉をノックすると、中からどうぞという穏やかな声が返ってきた。
部屋の中には、初老の女性が一人で座っていた。
服装は他の役所職員と似た制服だが、髪に着けた飾り――おそらくこれが彼女のCDE――がやや特徴的だった。透明な小さな結晶のような飾りが、髪の脇で微かに光を反射している。
彼女は俺を見て、優しく微笑んだ。
「ようこそ。鑑定担当のヴェラ・モリンスと申します。お座りください」
俺は彼女の前の椅子に座った。
「お名前と入国登録証を確認させてください」
俺は登録証を差し出した。
「神野隆二様、二十歳。ニホンという国からのご来訪、ですか。珍しい出身ですね」
彼女は登録証を一瞥した後、俺を改めて見つめた。外来者だ、ということは登録証から伝わるが、それ以上の詮索はしない――そういう訓練を受けた、プロの目だった。
「では早速、CDEを拝見しましょう」と彼女は言った。「テーブルの上に置いていただけますか」
俺はポケットから真っ白なボールペンを取り出して、テーブルの上に置いた。
ヴェラ・モリンスは、ペンを手で触れずにじっと見つめた。
彼女の髪の結晶が、わずかに光を強めた気がした。
数秒の沈黙。
彼女の表情に、わずかな変化が現れた。
それは驚きとも、戸惑いとも違う、静かな興味のような色だった。
「……非常に珍しいですね」
俺の心臓が、ほんの少し速くなった。
「珍しい、というのは」
「あなたのCDEは改変系です」と彼女は告げた。「これだけでも珍しい部類なのですが、それ以上に――条件が、少々複雑です」
「条件?」
「ええ。改変系というのは、CDEの大分類の一つで、現実の何かを書き換える機能を持つ系統を指します。一般的に希少で、合衆国の中でも保有者は限られます」
彼女は穏やかに、しかし慎重に言葉を選びながら続けた。
「ただ、改変系のCDEは発動条件や効果範囲が個別に大きく異なるため、私の鑑定でも大雑把な情報しかお伝えできません。あなたのペンの場合、条件が複雑な部類に入ります。口頭ですべてを説明するのは難しいので――」
彼女は引き出しから一枚の紙を取り出した。事前に印刷された定型の書類らしく、複数の項目が用意されていた。
「書面でお渡しします。お読みいただいて、不明点があれば後でまた鑑定を受けてください」
ヴェラはペンを取り、書類の空欄に手書きで条件を書き込んでいった。
書きながら、彼女は時折、目の前の俺の白いペンを確認するように見ていた。鑑定の結果を、書類の形式に落とし込んでいる作業らしい。
数分後、彼女は書類を俺に手渡した。
「これがあなたのCDE鑑定書です」
俺は書類を受け取った。
当然、書かれている文字は俺にはまだ読めない。
俺の困惑を見て取って、ヴェラは口頭で要点を説明してくれた。
「あなたのCDEは『書いたことを現実にする』機能を持ちます。書く媒体――紙でも、布でも、対象の表面でも、何にでも――に書けば、書いた内容が現実に発動します」
書いたことを現実にする。
チートじみた能力だ。
「ただし条件があります」と彼女は続けた。
「第一に、具体的に書くほど、効果が強くなります。曖昧な記述は、効果が弱いか、まったく発動しません」
「第二に、書いた本人が理解できないことは、書けません。あなたが知らない概念、理解していない事象は、紙に書いても発動しません」
「第三に、世界の根本的な法則に反することは、発動しません。たとえば『俺は神だ』のように、世界の根幹を覆すような記述は通りません」
「第四に、書く媒体に制限はありません。紙でも、地面でも、対象に直接でも書けます。ただし――対象に直接書いた方が、紙に書くより効果の優先度が高くなります。仮に洗脳されないCDE保有者を相手にしても、対象に直接書けばあなたの能力が勝ちます。紙に書いただけでは、相手のCDEに弾かれることがあります」
「第五に、書くたびにあなたの体力をわずかに消耗します。書く分量や効果の規模が大きくなるほど、消耗も大きくなります」
「第六に、効果は基本的に持続します。一度書いて発動した内容は、消えるまで続きます」
「最後に――これが重要ですが――矛盾が生じる場合、後から書いた方がキャンセルされます。先に書いた内容が、後から書いた内容より優先されます。書いたことを撤回するのは、原則として困難です」
俺は彼女の説明を、一語一句、頭の中で反芻した。
理解した、と思う。
整理すると――
俺は、書けば現実を書き換えられる。
ただし、書く対象を理解していなければならない。
具体的に書くほど強くなる。
直接書けば、他人の能力さえ突破できる。
書くたびに少し疲れる。
一度書いたら、撤回できない。
これは、強力な能力だ。
ただし、限界が明確な能力でもある。
俺は心の中で、自分のCDEを評価し直した。
ペン一本で世界を書き換える。派手な戦闘能力ではないが、応用範囲が極めて広い。隆二の知識と理解の深さが、そのまま能力の射程になる。学べば学ぶほど強くなるタイプ――これは、長期的にじわじわ伸びる能力だ。
そして、撤回不可という制約は重い。
書いたら戻せない。これは一度の書き込みに、慎重さを要求するということだ。法律で言うところの契約と似ている。一度結ばれた契約は、簡単には解除できない。
法律を齧った経験のある俺には、この制約は直感的に理解できるものだった。
「ご質問はありますか」とヴェラは静かに尋ねた。
「いえ……いや、一つだけ」と俺は言った。「これは――普通の改変系ですか? それとも、普通じゃないのですか?」
ヴェラはほんの少し、口元を緩めた。
苦笑にも、穏やかな笑みにも見える表情だった。
「改変系の中でも、書くという発動形式は珍しい部類です」と彼女は答えた。「そして条件の複雑さも、平均より多い方ですね。かなり個性的なCDE、と申し上げておきます」
かなり個性的。
彼女の言い回しの裏に、何かそれ以上の含みがあるような気もした。
だが、俺はそれを今、追究するつもりはなかった。情報は手札だ。彼女の側にも手札があるなら、それは彼女の側の戦略だろう。俺がこの場で詰問するべきものではない。
「ありがとうございます」と俺は鑑定書を懐にしまった。「大変参考になりました」
「鑑定の結果は、国家のデータベースに記録されます」と彼女は事務的に告げた。「これは合衆国の市民管理上、必須の手続きです」
俺は頷いた。
当然、そうなるだろうと思っていた。俺のCDEの存在と効果は、合衆国側に把握される。それは、入国時から覚悟していたことだ。
「鑑定は以上です。改めて、合衆国へようこそ、神野様」
ヴェラ・モリンスは、最後にもう一度、優しく微笑んだ。
管理局の建物を出て、俺は街路に立った。
懐の中に、二枚の紙がある。入国登録証と、CDE鑑定書。
ポケットの中には、真っ白なボールペン。
頭の中には、ヘアピン経由で受け取れるはずの依頼一覧――まだ何も来ていないが。
これで、俺は完全に合衆国の正式な滞在者になった。
だが、鑑定が終わっただけでは、俺はこのペンの本当の力を知らない。
言葉で説明されただけだ。実際に使ってみたわけじゃない。
理論は分かった。
実証が必要だ。
俺はプログラミングを少し齧ったことがある。
新しいAPIを覚えるとき、いきなり本番のシステムに組み込んだりはしない。最小単位で叩いて、戻り値を確認する。それが鉄則だ。
このペンも同じだ。まずは小さく試す。
俺は街の外れに向かって歩き出した。
人気の少ない場所、何かを壊しても誰にも迷惑のかからない場所を探したかった。
街を出て、しばらく歩いた先に、未開発地らしき空き地が広がっていた。地面は乾いた土、点在する雑草、そしてあちこちに大小の岩が転がっている。建設廃材か、自然の岩か、判断はつかない。
人影はない。
ここなら、試せる。
俺は手頃な大きさの岩を選んだ。膝丈ほどの高さ、灰色の表面、普通の硬い岩に見える。
俺はポケットからペンを取り出した。
ノックを押し込む。カチッ、と微かな音が鳴って、ペン先が現れた。
インクの色は――まだ分からない。書いてみないと分からない。
俺は岩の表面に、短い言葉を書いた。
『もろい』
書き終えた瞬間、ペンの先からインクが書きつけられているのを確認した。色は黒。普通のボールペンの色だ。
そして、岩の表面に書かれた文字は――確かに、文字として、岩の上にあった。
俺の知っている日本語の三文字。もろい。
書いた瞬間、特に何かが起こったわけではない。
岩は静かに、その場に在った。
俺の体力がわずかに減った気がした。本当にわずか、ほんの一段だけ階段を上ったような、軽い疲労感。
俺は岩に近づいて――
触れた。
その瞬間。
岩は、音もなく崩れ落ちた。
膝丈の岩塊が、一瞬で砂粒のような細かい砕片になり、地面の上に小さな山として崩れた。粉塵が薄く立ち上り、すぐに風に流されて消えた。
俺の指先には、何の感触も残らなかった。
触れた瞬間、岩は岩であることを止めた。
俺はその場で、しばらく動けなかった。
これが、俺のCDEだ。
書いた。もろい、と。
触れた。岩は崩れた。
それだけで、世界が書き換わった。
俺はペンを見つめた。
真っ白な、何の変哲もないボールペン。
そして、その先から、世界を書き換えるインクが流れている。
俺の中で、いくつもの感情が混在していた。
最初に来たのは、感動だった。理論が現実だった。鑑定書に書かれた説明は、本当だった。書いたものが現実になる。
次に来たのは、畏れだった。
俺は今、膝丈の岩を一瞬で消した。もろいという三文字を書いただけで。
これがもし、人間だったら? 建物だったら? 国家だったら?
このペンは、書く対象を選ばない。書く内容を選ばない。書けるなら、書ける。
そして最後に来たのは、自覚だった。
このペンは、俺自身を縛る力でもある。
書いたら戻せない。書いた本人が理解できないことは、書けない。世界の根幹は書き換えられない。
俺は法律を齧った時のことを、ふと思い出した。
契約は、結ぶ時より、結ぶ前が重要だ。何を結ぶか、誰と結ぶか、結んだ後の影響を、結ぶ前に全部考える。
このペンも、そういう道具だ。
書く前に、考える。
俺は深く息を吐いた。
ペンをポケットに戻し、ノックをしまった。
崩れた岩の山を一度だけ振り返って、それから街の方向に歩き出した。
俺は運がいい。
このペンを引いた。
そしてこのペンを、慎重に使う判断ができる頭がある。
これで、俺は合衆国で生きていける。
一年後のゲートに辿り着くまで、ペンと、運と、頭――それだけが俺の武器だ。
街に戻る道すがら、俺はヘアピンの感覚に意識を向けた。
依頼が、もうそろそろ届いてもいい頃だった。




