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第3話 真っ白なボールペン

「では、まず個人情報の登録から始めますね」

受付の女性はそう言って、カウンターの上に新しい紙を一枚広げた。

何も書かれていない、白い紙。

「ご自身の名前と、年齢と、生まれ育った地域をお教えください」

俺は少しだけ躊躇った。

身分情報を相手に明かすことの意味を考える。一度渡した情報は、回収できない。合衆国に俺の名前と背景が記録されるということは、俺はこの国に把握される存在になるということだ。

ただ、考えても結論は変わらなかった。

合衆国に入らなければ生き延びられない。生き延びなければゲートにも辿り着けない。最低限の身分情報を渡すリスクより、入国を拒否されるリスクの方が、ずっと致命的だ。

「神野隆二、二十歳。日本という国の出身です」

彼女はその名前を聞いて、特に表情を変えなかった。日本という国名がこの世界に存在しないことを彼女は知らないし、もしかしたら同名の国があるのかもしれない。

あるいは、彼女は単に外から来た人間の出身地に深く詮索しない訓練を受けているだけかもしれない。

「カミノ・リュウジさん、二十歳、ニホン出身、ですね」

彼女は声に出して繰り返した。音そのものとして俺の名前と出身を発音している。これも、ヘアピンの翻訳を通らない情報だ。固有名詞は、概念に変換できない。

「では、こちらに触れていただけますか」

彼女が差し出したのは、金属製の小さなインク瓶のようなものだった。蓋がついていて、表面はざらりとした質感。シンプルだが、どこか普通じゃない存在感がある。

「これが、私のCDEです」

俺の頭の中で、いくつもの疑問符が浮かんだ。

CDEは道具、と聞かされた。だがインク瓶? それで何ができるのか。

「私のCDEは、触れた相手の個人情報を、こちらの紙に転写する機能を持ちます。お名前と年齢、出身、それから――こちらが指定した範囲の基本情報が、自動的に書き出されます」

彼女は淡々と説明した。

「触れることがあなたの合意を意味します。あなたが触れない限り、転写は発動しません。触れた瞬間に、紙に情報が現れます」

俺はそのインク瓶をしばらく見つめた。

これは情報を抜く能力だ。しかも、こちらの合意がトリガーになっている。手を引けば抜かれない。手を出せば抜かれる。選択は俺の側にある――形式上は。

ただし実質的には、入国手続きを進めるなら触れるしかない。

俺は手を伸ばし、インク瓶の表面に指先を当てた。

ひんやりとした、金属の感触。

それだけだった。

特に何かが脳内に起こるわけでも、身体のどこかが熱くなるわけでもない。触れただけ。

しかし、俺の視界の端で、白い紙が勝手に動いていた。

紙の上に、見たこともない文字が次々と現れていく。誰も書いていない。文字が紙の上に勝手に湧いて出ている。

最初の数文字は、おそらく俺の名前――カミノ・リュウジ――を、この世界の文字で表記したものだろう。続いて、年齢らしき数字。出身地らしき表記。それから、俺自身もよく分からない情報が、どんどん紙の上に綴られていく。

俺は思わず手を引いた。

インク瓶から指が離れた瞬間、紙の上の文字の生成がぴたりと止まった。

「これで、登録は完了です」と彼女は微笑んだ。「驚かせてしまいましたね」

「……これは、どんな情報を抜き取っているんですか」

俺は警戒を隠さずに尋ねた。

「身分の確認に必要な範囲だけです。お名前、年齢、出身、それから――あなたの個体としての基本特徴。詳細な思考や記憶までは抜けません。ご安心ください」

個体としての基本特徴。

それが何を意味するのか具体的には分からなかったが、彼女の口ぶりからすると、遺伝子情報のような何かを含んでいるのかもしれない。指紋に相当するもの、あるいはもっと深いレベルの個体識別情報。

合衆国に俺の存在の指紋が登録された、ということだ。

今後、俺がこの国の中で何をしても、俺がやったこととして記録される可能性がある。

良くも悪くも、俺はこの国の正式な滞在者になった。

「次に、こちらをお渡しします」

彼女がカウンターの下から取り出したのは、小さな番号札のようなものだった。何かの金属製。表面に三種類の文字が刻まれている。

「個人番号です。あなたが合衆国に滞在する間、これがあなたの公的な識別子になります。番号の刻印をご確認ください。それから――ヘアピンと連動させていただきます」

「連動?」

「ヘアピンに、あなたの個人番号情報を登録します」彼女は事務的に説明を続けた。「これによって、あなたは依頼を受け取ることができるようになります」

「依頼?」

「合衆国では、CDEを持つ国民が労働の対価としてリブ――通貨ですね――を稼ぎます。仕事の依頼は、国家の管理する依頼網を通じて配信されます。依頼の通知は、ヘアピンを介して頭の中に直接届きます」

頭の中に届く。

ヘアピンが翻訳機能だけでなく、情報配信端末としても機能するらしい。

「あるいは、役所のような場所で現状の依頼一覧を直接閲覧することもできます。ただ、最初は脳内通知の方が便利かと思います」

合衆国の労働市場がヘアピン経由で機能しているということだ。

俺は受け取った個人番号札を眺めた。三種類の文字が並んでいる。今の俺には読めない。だが、この一枚が俺の合衆国市民相当の身分証になる、ということだろう。

「ヘアピンへの登録は、私の方でこの場で行います。少々お待ちください」

彼女は俺のヘアピンに何かをするでもなく、ただ俺と俺の個人番号札を順番に見つめた。彼女のCDE――インク瓶――の蓋が、ふっとひとりでに数センチ動いた。

それだけだった。

「完了しました」

俺は何も感じなかったが、ヘアピンが「登録された」感覚も特になかった。だが彼女が言う以上、何かが起こったのだろう。

「これで、個人情報の登録は完了です」と彼女は紙を一枚、俺に手渡した。

「こちらが入国登録証になります。お名前と個人番号が記載されています。大切に保管してください」

俺は紙を受け取った。

真っ白だった紙が、いつの間にか俺の身元を証明する書類になっていた。


「では次に、CDEの付与に進みます」

彼女はそう言って、奥の扉に向かって声をかけた。

扉の向こうから、別の制服姿の男性が現れた。年齢は四十代くらい、落ち着いた物腰の人物。

「こちらがCDE付与担当のミルスです」と彼女は紹介した。「ミルスのCDEが、あなたに新しいCDEを生み出します」

ミルスと呼ばれた男は、軽く頭を下げた。

「ようこそ、合衆国へ。これから、あなたに固有のCDEを付与します」

固有のCDE。

俺の頭の中で、緊張がじわりと立ち上がった。

ここまでの手続きは、要するに合衆国側が俺の身元を確認するためのものだった。次は逆だ。俺が合衆国の市民相当として、固有の能力を授かる段階。

「CDEの内容は、完全にランダムです」とミルスは説明した。「私のCDEは、他者にCDEを生み出すもので、これ自体には方向性を制御する機能がありません。何が出るかは、運です」

運。

運、だ。

俺は口元が緩むのを抑えられなかった。

俺は運がいい。何度もそう思ってきた。親の事故という運の悪さを差し引いても、要所では運に救われてきた男だ。

派遣事業の抽選にも当たった。半径百キロのランダム転移で国境施設の前に降りた。俺の運は、ここでも通用するはずだ。

「では、こちらに手をかざしてください」

ミルスはカウンターに、透明な石のようなものを置いた。直径十センチほど、表面が滑らかで、内部に薄い光のようなものが揺らいでいる。これがミルスのCDE、らしい。

「手を石の上にかざすと、私のCDEが反応します。あなたに固有のCDEが生み出されます。手を引かない限り、生成は完了します」

俺は手を石の上にかざした。

数秒の静寂。

そして、石の表面から、何かが光と一緒に滑り出てきた。

それは石の上で形を成し、すぐに実体を持った物として存在した。

俺はそれを見つめた。

ミルスも、それを見つめた。

横で受付の女性も、それを見つめた。

カウンターの上にあったのは、真っ白なボールペンだった。


ペン軸はシャープな円筒形。

ノック式のクリップが付いている。

全体のフォルムは、地球のどんな文房具メーカーが出していてもおかしくない、ありふれたボールペン。

ただし――色がない。

軸も、クリップも、ノック部分も、全て完全な真っ白。塗装ではない、素材そのものが白いような質感。表面には何の文字も刻印もなく、ロゴも、装飾もない。インクの色を示すマークすら、ない。

俺はそれを摘み上げた。

重さは普通のボールペン程度。手に持った感触は、何の変哲もない普通のペン。

「……これが、俺のCDE?」

「そうです」とミルスは答えた。

ただし、彼の表情にはわずかに戸惑いが浮かんでいた。

彼は俺の出した白いペンを、何か言いたそうに見つめていた。

「あの」と俺は尋ねた。「これは、何ができるんですか」

ミルスは数秒、沈黙した。

「……申し訳ありません。情報が来ていません」

「情報?」

「通常、CDEが生み出される際には、そのCDEの基本的な使用方法に関する情報も、私のCDEを通じて伝わってきます。たとえば『炎を出すライター』『重い物を持ち上げるロープ』『音を遠くに届ける鈴』のように、何の能力かを判別できる情報が、付与時に届くのが普通です」

ミルスは申し訳なさそうに続けた。

「ですが、あなたのCDEは――真っ白なボールペン、という見た目以外に、何の使用情報も伝わってきていません。これは、稀にあるケースです」

「稀に、ということは、こういうこともある?」

「ええ。情報が来ないタイプのCDEというのが、一定数存在します。発動条件が複雑だったり、効果が幅広かったりする場合に、私のCDEでは情報を捕捉しきれないことがあるのです」

俺は手の中の白いペンをもう一度見つめた。

用途不明のペン。

ミルスも、受付の女性も、俺がどんな能力を引いたかを把握できていない。俺自身も把握できていない。

これは、運がいいのか、運が悪いのか。

普通の人間は、CDEを与えられた瞬間に「自分は炎を出せる」「自分は物を持ち上げられる」と理解する。それが当たり前の手続きの流れだ。

俺はそれすら教えてもらえなかった。

俺は心の中で呟いた。

珍しく運が悪いな。

そしてすぐに、自分で自分を訂正する。

まあ、いいか。

CDEを引き当てた、という事実は変わらない。ペンが手元にあるという事実も変わらない。俺は合衆国に正式に入国できる立場になったという事実も変わらない。

情報がないなら、自分で調べればいい。CDEは試せば分かる――たぶん。

俺はペンをポケットに収めた。

「使い方は、自分で見つけることになるんですね」

「はい。ただし――」とミルスは言った。「合衆国の法律として、入国者は自分のCDEを国家に申告する義務があります。用途不明のままでは申告ができません。ですから、あなたにはCDE管理局で鑑定を受けていただく必要があります」

「鑑定?」

「他者のCDEの効果を読み取る能力者が、管理局に常駐しています。あなたのペンを鑑定すれば、私のCDEより詳しい情報が得られるはずです」と彼は説明した。「初回の鑑定は無料です」


すべての手続きを終えて、俺は施設の外に出た。

正面の出口は、合衆国の街側に向いていた。

街――というより、合衆国の入り口の街、と言うべきかもしれない。国境施設のすぐ奥には、整然と区画された街並みが広がっていた。

俺は最初の一歩を踏み出して、思わず立ち止まった。

街は――白かった。

そして透明だった。

通り沿いに並ぶ建物の多くが、白を基調とした色合いだった。それも、自然な石材の白というより、人工的に作られた均質な白。素材として白い、という質感。

そしてその白い建物の壁の一部、あるいは大部分が、ガラス張りのように透明だった。

ガラスではないのだろう。少なくとも、地球で見るガラスとは透明度が違う。完全に透き通っているくせに、よく見ると微かな色のゆらぎがある。ガラスではない、何か別の素材。

街路樹のような緑も植わっていたが、それさえもどこか整いすぎていた。

人通りはそれなりにあって、すれ違う人々はそれぞれ普通に生活している様子だった。異常というほどではない。だが、街全体の質感が地球とは違う。

これも、CDEの賜物なのだろうか。

誰かのCDEが、白い素材を生み出す。誰かのCDEが、透明な板を作る。誰かのCDEが、街路樹の形を整える。全市民がCDEを持つ国は、街並みからしてCDEで作られている――そういうことなのかもしれない。

俺は深く息を吸った。

これが、平行世界の街だ。

俺は今、完全に外から来た人間として、ここに立っている。

誰も俺のことを知らない。俺もこの世界のことを知らない。ペン一本と、ヘアピンと、入国登録証と、個人番号札。それが俺の全財産だ。

それで、一年間、生き延びる。

そしてゲートに辿り着いて、帰る。

最初の目的地は決まっていた。

CDE管理局。

俺の白いペンが何をするのか、まずはそれを知る必要がある。

俺はポケットの中のペンに軽く触れて、街並みの中へと一歩を踏み出した。

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