第2話 シーディーイー、と聞こえた
正面の建物の前に立つ制服姿の人々は、依然として戸惑った顔で俺を見ていた。
その中の一人――おそらく女性――が、意を決したように一歩前に出る。施設の正面入口の脇に、受付窓口らしきカウンターがあるのが見えた。彼女はそこに俺を導こうとしているようだった。
俺は両手を軽く広げて、敵意がないことを示した。武器なし、攻撃の意図なし。とにかく穏やかな来訪者だと思ってもらえるように、努めてゆっくり歩いた。
カウンターの前まで来ると、女性は俺に何か話しかけた。
鈴を転がすような響きの言葉だったが、当然、意味はまったく分からない。
それは彼女も同じはずだった。彼女は俺の表情を見て、すぐに通じていないことを察したらしい。
少し困った顔をした後、彼女はカウンターの中から小さな箱を取り出して、その中から何かを摘んだ。
そっと俺に差し出してくる。
俺は手のひらで受け取った。
ヘアピン……?
それは小さな金属製のヘアピンだった。装飾はほとんどない、シンプルな形状。色は淡い銀色。
こんなものを渡されて、何をどうしろと言うのか。
女性は自分の髪を指差し、それから俺の頭を指差した。
髪に付けろ、と言いたいらしい。
二十歳の男に渡す物としては、随分と意外な選択だ。
俺は少し躊躇った後、ヘアピンを自分の前髪の脇に挟んだ。指先で軽く位置を整える。
その瞬間、女性が口を開いた。
「――付けていただいて、ありがとうございます。落ち着きましたか?」
意味が分かった。
正確には、意味が分かるとしか言えない感覚で、頭の中に入ってきた。耳から音として聞こえているのは確かに彼女の言葉――鈴を転がすような響き――なのに、それが俺の知っている概念として脳内で展開される。
これは……翻訳機なのか? いや、それより直接的だ。音声を翻訳しているというより、意味そのものが伝わっている感覚。
俺は試しに口を開いた。
「あの……これは、何ですか」
俺の声は日本語のはずだった。だが彼女は、当たり前のように頷いた。
「ヘアピンです。装着している間、あなたは私たちの言葉を理解でき、私たちもあなたの言葉を理解できます」
通訳が双方向で機能している。
これは、完全に未知の技術だ。日本にも、地球上のどこにも、こんなものはない。
俺の頭の中で、いくつかの仮説が同時に走り始めた。
電子機器? いや、装飾もインターフェースもないただの金属片に見える。生体技術? 装着するだけで脳に作用するなら、相当に高度なもの。あるいは――俺の知らない、まったく別系統の技術。
「驚かれているようですね」と彼女は微笑んだ。「お気持ちは理解できますが、まずは手続きをさせてください。ここは合衆国の入国管理施設です。あなた、外からいらっしゃいましたよね?」
外から、という言葉。
俺がどこから来たか彼女は知らない。だが外から来た存在であることは即座に見抜いている。
おそらく、こういう来訪者を以前にも見たことがあるのだろう。受付の流れがあまりにも整いすぎている。突然空間に人が現れる、という非常識な現象に対して、彼女は驚いたが混乱はしていなかった。
「……はい。たぶん、あなた方が想像されているよりも、ずっと遠くから」
俺は曖昧に答えた。平行世界から来たと最初に明かすのは得策ではない。情報は俺の手札だ。手札は安易に切らない方がいい。
「分かりました。詳しいことは手続きの中でお伺いします」彼女は事務的に頷いた。「先に、いくつかお渡しするものがあります」
カウンターの上に、一枚の紙が置かれた。
紙にはびっしりと、見たことのない文字が並んでいた。
「これは文字の表です」と彼女は説明した。「私たちの国の文字は三種類あります。それぞれを組み合わせて言葉を綴ります。基本的な対応関係はこの表で確認できます」
三種類の文字。組み合わせて使う。
日本語と同じ構造だ。
俺はざっと表を眺めた。一種類目は画数の多い表意文字らしき形、二種類目は曲線の多い柔らかい字形、三種類目は直線的でシャープな字形。それぞれが対応する音や意味を持っているらしい。
「文字を覚えるのには時間がかかります。ですが、今はヘアピンがありますから、緊急で読む必要はありません。落ち着いてから少しずつ覚えていただければ」
ヘアピンが翻訳してくれるのは音声だ。文字は別。
それでも、構造が日本語と同じなら、覚えるのはそれほど苦にならないだろう。興味のある分野なら、俺の脳は割と素直に暗記する。文字体系は、まあ、興味のある分野の範疇だ。生活に直結する知識は、優先的に覚えられる。
「次に、入国手続きについてご説明します」
彼女は別の紙を取り出した。
「合衆国に入国するには、二つの段階があります。一つ目は、個人情報の登録。二つ目は――シーディーイー、の付与です」
シーディーイー。
彼女が口にしたその音は、ヘアピンの翻訳を経由していなかった。ほかの単語は概念として頭に流れ込んでくるのに、その単語だけは音そのままで耳に届いた。
俺は思わず聞き返した。
「シーディーイー?」
「はい、シーディーイーです」
やはり、音そのまま。
何度聞いても、シー・ディー・イーとしか聞こえない。
ヘアピンは概念を翻訳する装置だ。翻訳できない概念――俺の頭の中に存在しない概念――は、音として通り抜けるしかないのだろう。
つまりこれは、固有名詞か、あるいは俺の世界には存在しない何かだ。
仕方ない、俺はそれをCDEと呼ぶことにした。脳内の独白の中で、勝手にアルファベット三文字に変換する。聞き慣れない音をそのまま頭に保持しておくのは効率が悪い。
「CDE、というのは、何ですか」
「説明が難しい概念ですが」と彼女は言った。「非現実的なものを実現させる、ある種の道具です。一人につき一つずつ与えられ、その内容は人によって完全に異なります」
非現実的なものを実現させる道具。
俺は、頭の中で何度かその言葉を反芻した。
つまり、現実ではないことを現実にする――それは、俺の知る言葉で言うと、超能力に近い。あるいは、魔法。
道具、という言葉が引っかかった。能力ではなく道具。何らかの物体として存在するものらしい。
「CDEは、生まれつき持っているものですか」
「いえ。手続きを経て、その人にランダムに付与されます」
「ランダム」
「ええ。何が付与されるかは、誰にも事前には分かりません」
俺は頭の中で情報を整理した。
ある種の超能力的な道具。一人一つ。手続きを経て付与される。何が出るかはランダム。
そしてここからが重要だ。
「手続きを受けないと、入国できないんですか」
「はい。合衆国はすべての市民および滞在者がCDEを保有していることを前提に成立しています。入国される方には、必ず手続きを受けていただく必要があります」
なるほど。
これは選択肢のある質問ではない。CDEを受け取らなければ、俺は街にも入れない。手続きを断るなら、俺はこの国境施設から去るしかない。
そして国境の向こうは未知の世界だ。合衆国を出て他に何があるのか、俺はまだ知らない。戻る場所がない状態で、ここで手続きを断るのは合理的じゃない。
「合衆国は、最近建国されたんですか?」と俺は話題を変えた。
「ええ、つい先日のことです」彼女は少しだけ誇らしげに答えた。「CDEの発明と普及が、私たちの独立を可能にしました。CDEが全国民に行き渡ったのと、合衆国が建国されたのは、ほぼ同時でした」
ほぼ同時。
国家のアイデンティティそのものがCDEだ、ということだ。
CDEがなければ独立できなかった。CDEがあったから独立できた。だから合衆国は、全市民がCDEを持つことを国家の前提としている。それが統治の基本単位になっている。
俺の中で、いくつかの推測が立ち上がった。
合衆国は新興国家で、外から来た人間を歓迎するスタンスを取っている。それは新しい国にとって自然な選択だ。人口を増やし、味方を増やし、国を成長させたい。だから外から来た俺にも、CDEを与えてくれる。
ただし、それは無償の好意ではない。CDEを与えるということは、俺を合衆国の管理下に置くということでもある。CDEを持った瞬間、俺は合衆国のシステムに登録される。身元が掌握されるということだ。
それでも、悪い取引ではない。
俺は外から来た人間として、この世界の何も知らない。生き延びるためにも、情報を集めるためにも、まずは合衆国に正式に入国するのが筋だろう。
そしてランダムに付与されるというCDE――それが何であろうと、俺は受け取らなければ前に進めない。
俺は彼女に向き直った。
「手続きをお願いします」
彼女は微笑んだ。
「ありがとうございます。それでは、まず個人情報の登録から始めましょう」




