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第12話 真っ白なタブレット

朝の光の中を、俺と雫は国境近くの街に向かって歩いた。

東に半日かかった道を、今度は二人で戻ることになる。朝早く出発すれば、夕方には街に着く――俺はそう計算した。

「……先輩」と歩きながら雫が尋ねた。「**入国の手続きって、どんな感じなんですか?」

「**俺の時は、国境施設の前に直接転移したから、手続きはそこで全部済んだ」と俺は答えた。「**ヘアピンをもらって、文字表をもらって、個人情報を登録して、CDEを引いて――それで終わり」

「……スムーズだったんですね」

「運が良かった」と俺は短く答えた。「俺は、百キロランダム転移でちょうど国境施設の目の前に降りた。普通は、もっと不便な場所に降りるはずだ」

「……運」と雫は反復した。「**先輩は、昔から自分の運を信じてましたよね」

「ああ」

雫は少し笑った。

「**そういえば、私も、今、ここで運に救われている気がします」と彼女は言った。「転移した場所は確かに不便でしたけど、**キャンプグループに出会えて、生き延びました。**そして先輩を、見つけました」

「**お前の場合は、運じゃなく、お前の実力だ」と俺は答えた。「敗戦国難民として話を合わせる判断、ヘアピンを借りる交渉――全部、お前の頭の動きで生き延びた」

雫は少し恥ずかしそうに首を振った。

「**……それでも、**運が悪ければ、最初の三日で死んでました」と彼女は言った。「**運と実力、両方が必要だったんです」

俺は頷いた。雫は自分を過大評価しない。運と実力の両方を認める――合理主義者として正確な自己認識。


街に着いたのは、夕方近くだった。

俺は雫を昨日訪れた宿屋に案内した。老齢の主人は、俺が一人で出かけて、一人連れて戻ったことに少し驚いた様子だったが、詳細は聞かなかった。地方の宿屋らしい節度だった。

「今晩はここに泊まろう」と俺は言った。「翌朝、国境施設に向かう便を手配する」

「……国境施設、ですか」

「**そう。**正式な入国手続きをするには、国境施設に行く必要がある」と俺は説明した。「俺の時とは違って、お前は今、合衆国の外にいる。普通の入国ルートで入る必要がある」

雫は頷いた。


夜、宿屋の小さな部屋で、俺たちは別々の部屋を取った。

雫は長旅と二か月のキャンプ生活の疲れが一気に出たらしく、早めに休んだ。

俺は自分の部屋で、ヘアピン経由で通信を試みた。

クレハの言葉――「何か困ったことがあれば、ヘアピン経由で連絡してください」――を思い出した。緊急ではないが、進捗を報告しておくべきだった。

俺はヘアピンに意識を集中した。研究都市側に短い報告を――そう念じると、ヘアピンが微かに反応した気がした。

「神野隆二、報告」と俺は心の中で発信した。「**他の派遣者を発見した。**地球時代の知人だった。**入国の意思があり、明日、国境施設に向かう。詳細は到着後」

数秒後、返信らしき感覚が、頭の中に届いた。

「了解しました、神野様」――クレハの直接の声ではない、事務的な合衆国側の応答だった。「**国境施設での手続きを優先で対応します。情報は研究都市側にも共有します。ご無事のお戻りをお待ちしています」

これで準備は整った。明日、雫は正式に合衆国に入る。

俺はベッドに身を沈めた。


翌朝、俺と雫は国境施設行きの便に乗った。

移動中、雫は窓の外をじっと観察していた**。合衆国の地方の景色を、彼女は初めて見ている――**外側で二か月過ごした彼女にとって、境界の内側は、完全に新しい世界だった。

「……景色が、国境を境に全然違うんですね」と雫が呟いた。

「ああ」と俺は答えた。「**合衆国側は、人の手で整備されている。外は、戦争の傷が残ったままだ」

雫は頷いて、また窓の外を見た。

「……合衆国って、新しい国ですよね」

「十年前にできた」

「新興国家にしては、整いすぎてる気がします」と雫は静かに言った。「整いすぎてる、というか――全部が計画通りに作られている、というか**」

俺は少し驚いた。雫の観察眼は鋭い。首都の整いすぎの本質を、移動中の景色だけで察知している。プログラミング以外なら天才的な雫の本領発揮だった。

「**……合衆国にも、色々な事情があるんだ」と俺は答えた。「**整いすぎている部分と、整っていない部分が、混在している」

雫は俺の言葉を反芻するように頷いた。


国境施設に着いたのは、昼前だった。

施設の外観は、俺がアレクサスの近くで見た合衆国の建物――白と透明の建材が中心の、清潔な建物――そのものだった。入国を歓迎する施設らしい、明るい雰囲気。

雫は施設の正面で、少しだけ立ち止まった。

「**……ここに、入るんですね」と彼女は静かに言った。

「そうだ」

「**……何だか、緊張します」と雫は珍しく感情を漏らした。

俺は少しだけ笑った。いつもの雫らしくない――でも、これから自分の人生が大きく変わる場面で、彼女が緊張するのは当然だった。

「大丈夫だ」と俺は言った。「俺がついている」

雫は頷いた。**そして、**深く息を吐いて、気持ちを整えた。

「……行きましょう」


入国受付の前に立つと、俺の時と同じ受付窓口が見えた。**カウンターの奥には、制服姿の女性――だが、俺の時の受付の女性とは違う、別の女性だった。

彼女は俺たちを見て、少し戸惑った表情を浮かべた。俺の入国登録証を見て、雫が登録証を持っていないことを察知した。

俺はヘアピンを通して、事前報告の状況を説明した。研究都市側から、雫の入国の手続きを優先で対応する指示が出ているはず**――**そう告げると、受付の女性は端末で確認してから、頷いた。

「了解しました」と彼女は対応した。「**シズク・キタザワ様、ですね。こちらにお進みください」

雫は自分の名前を呼ばれて、少しだけ嬉しそうな反応を見せた。長く偽名で過ごしていた彼女が、本名を呼ばれるのは、久しぶりだった。

受付の女性は、カウンターから小さな箱を取り出して、ヘアピンを差し出した。

「まず、こちらをお受け取りください」と彼女は説明した。「**ヘアピンです。装着している間、あなたは私たちの言葉を理解でき、私たちもあなたの言葉を理解できます」

雫はヘアピンを受け取って、じっと見つめた。

「……これが、CDEの一種、ということですね」と雫は確認するように尋ねた。

受付の女性は少し意外そうに頷いた。**普通の外来者は、ヘアピンの意味を即座に理解しない――でも雫は、事前情報を持っている。

「**そうです。便宜上、来訪者の方にお貸しするための、翻訳機能を持つCDEです」

雫はヘアピンを自分の髪に着けた。慣れた動作だった――借りていた一つで、二か月、装着していたから。


「次に、文字表をお渡しします」と受付の女性は続けた。俺の時と同じ手順――**雫はそれを受け取り、じっと表を眺めた。

「……三種類の文字、組み合わせ式ですね」と雫は短く確認した。

「そうです」と受付の女性は答えた。「**お時間のある時に、少しずつ覚えていただければ」

雫は表を丁寧に折りたたんで、懐に収めた。勉強の準備が早い――雫らしい行動。

「次に、個人情報の登録を行います」と受付の女性は言った。「こちらに触れていただけますか」

彼女が差し出したのは――金属製の小さな箱のようなもの。俺の時のインク瓶とは違う形だった。この受付の女性のCDEは、俺の時の人とは違うのだろう。

雫は俺を見た。確認の視線――触れていいかどうか。

「触れてくれ」と俺は答えた。「個人情報が紙に転写される。それで合衆国側の登録になる」

雫は頷いて、金属の箱に指を触れた。

数秒後、カウンターの上に――真っ白だった紙が、勝手に文字を書き始めた。雫の名前、年齢、出身、その他の情報が、順番に紙に湧いて出ていく。

雫は**それを観察しながら、少しだけ目を見開いていた。自分の情報が、自分以外の力で書き出される――現代日本の感覚とは違う体験。

数十秒で、転写は完了した。


「登録は完了です」と受付の女性は言った。「続いて、個人番号の発行と、ヘアピンへの登録を行います」

雫は個人番号札を受け取った。俺の時と同じ、三種類の文字が刻まれた小さな金属札。

「これで、シズク・キタザワ様は、合衆国の正式な滞在者として登録されました」と受付の女性は告げた。「最後に、CDEの付与に進みます」

雫の表情に、緊張が走った。何が出るか分からない――ランダム付与の本質が、彼女に迫っていた。


受付の女性は奥の扉に向かって声をかけた。扉の向こうから、ミルス――俺の時のCDE付与担当の男性――が現れた。

「ようこそ、合衆国へ」と彼は穏やかな口調で雫に言った。「**ミルスと申します。**これからあなたに、固有のCDEを付与します」

「……ミルスさん」と雫は礼儀正しく頭を下げた。

ミルスは俺の方を見て、少し驚いたような表情を浮かべた。俺を覚えていたらしい。

「神野様」と彼は言った。「お知り合いの方を、お連れになったんですね」

「はい」と俺は短く答えた。「よろしくお願いします」

ミルスは頷いて、カウンターの上に例の透明な石を置いた。

「この石に手をかざしてください」と彼は雫に指示した。「**手を引かない限り、生成は完了します。何が付与されるかは、運です」

雫は俺の方を一瞬見た。確認の視線。

俺は頷きを返した。

雫は深く息を吸って――手を石の上にかざした。


数秒の静寂。

そして、石の表面から、何かが滑り出てきた。

光と共に、形を成していく――それは俺の時の真っ白なペンとは違う、より大きな形状だった。

最終的に石の上に現れたのは――。

真っ白なタブレットだった。


ペン軸のような細さではなく、手のひらより少し大きい板状。**薄く、軽く、完全に白――**俺のペンと同じ、色のない真っ白。地球のiPadを連想させる形状だった。

雫はそれを見つめた。**そして、少しだけ口元が開いた。

「……これ」と彼女は呟いた。「……タブレット?」

ミルスは興味深そうにタブレットを眺めた。

「**……これは、興味深いCDEですね」と彼は言った。「**形状としては、現代的な情報処理機器に近いですね。**こちらの世界では、この形のCDEは珍しい」

雫はタブレットを摘み上げた。手に持つと、地球のタブレットと同じくらいの重さ――**ただし、完全に画面が真っ白で、何も表示されていない。

「……これが、私のCDE」と雫は確認するように呟いた。

「そうです」とミルスは頷いた。「**ただし、**こちらも、詳細な使い方の情報は来ていません」と彼は申し訳なさそうに付け加えた。「神野様の時と同じく、情報の来ないタイプのようです」

俺は少し驚いた。俺と雫、両方とも情報の来ないタイプのCDEを引いた――これは偶然か、それとも何らかの意味があるのか。

雫は**少し考えてから、頷いた。

「……分かりました」と彼女は言った。「**使い方は、鑑定で確認します、ですね」

雫の理解の早さに、俺は内心で感心した。**先輩の説明を聞いただけで、手続きの全体像を把握している――雫らしい吸収力。


CDE管理局での鑑定は、俺の時と同じく、ヴェラ・モリンス――俺を鑑定した初老の女性――が担当した。

ヴェラは雫を見て、穏やかに微笑んだ。

「シズク・キタザワ様、ようこそ」と彼女は言った。「鑑定担当のヴェラ・モリンスと申します」

「よろしくお願いします」と雫は頭を下げた。

ヴェラは**俺の方を見て、少しだけ目を細めた。

「……神野様、お元気そうで」

「ありがとうございます」と俺は短く返した。ヴェラは俺を覚えていた――改変系の珍しいCDE保有者として、彼女の記憶に残っていたのだろう。

「……シズク様のCDE」とヴェラは雫に向き直った。「拝見させてください」

雫はテーブルの上に、真っ白なタブレットを置いた。

ヴェラは手を触れずに、じっとタブレットを見つめた。**彼女の髪の結晶が、わずかに光を強めた。

数秒の沈黙。

そして、ヴェラは静かに言った。

「……情報系のCDEですね」と彼女は告げた。「指定された範囲の情報を取得する能力を持ちます**」

雫は少し目を見開いた。自分のCDEの正体を、初めて知る瞬間だった。

「情報を、取得する」と雫は反復した。「どんな情報、ですか」

ヴェラは**端末を取り出して、鑑定書を書き始めた。

「**範囲を指定すると、その範囲内の情報があなたに伝わります」と彼女は説明した。「**範囲を広く設定すると、**情報量は多くなりますが、詳細度が下がります。**範囲を狭くすると、**情報量は少なくなりますが、詳細度が上がります」

「……トレードオフ」と雫は短く言った。

「そうです」とヴェラは頷いた。「最大範囲では、街一つ分の人々の名前と見た目、それから大雑把な地形が把握できます。最小範囲では、一つの対象の表層情報が詳細に把握できます**」

雫はヴェラの言葉を一つ一つ呑み込んでいた。

「**ただし、制約があります」とヴェラは続けた。「物体の内部や、精神は見えません。得られるのは、表層情報のみです」

「……表層」と雫は反復した。

「**外見、配置、地理、姿、名前――こういった、外から観察可能な情報だけです」とヴェラは説明した。「思考、感情、内臓、隠れた構造――**こういったものは、あなたのCDEでは見えません」

雫は頷いた。制約を、合理主義者として正確に把握している。


「素晴らしいCDEですね」とヴェラは最後に言った。「情報系の中でも、柔軟性の高い能力です。**運用次第で、極めて有用に使えます」

「……ありがとうございます」と雫は頭を下げた。

ヴェラは雫に鑑定書を渡した後、俺の方を見た。

「神野様」と彼女は静かに言った。「**お二人の出会いは――偶然なんでしょうか」

俺は少し慎重に答えた。

「……地球時代の知人です」と短く答えた。

ヴェラの目に、わずかな興味が浮かんだ。でも、彼女はそれ以上は聞かなかった。

「**……お二人にとって、良い再会だったようで、何よりです」と彼女は穏やかに言った。「**鑑定は以上です。改めて、合衆国へようこそ、シズク様」


CDE管理局を出て、俺と雫は国境施設の外に立った。

雫は手元のタブレットをじっと見つめていた。

「……試してみていいですか」と彼女が尋ねた。

「ここで?」

「範囲を狭く絞ってみます」と雫は言った。「目の前のこの建物の表層情報――**それが取れるなら、まず使い方を確認できます」

俺は頷いた。雫の合理的な検証――最小単位で叩いて結果を確認する。雫らしいやり方だった。

雫はタブレットを両手で持って、何かを操作する仕草――地球のスマホやタブレットを操作する時と同じ動作で、画面に指を触れた。

数秒後、雫の表情が、わずかに動いた。

「……来ました」と彼女は呟いた。「**この建物の名前、**外形、配置、**それから、この施設の規模感――全部、頭の中に入ってきました」

「……どんな感じだ」

「**頭の中に、情報が直接来る感じです」と雫は説明した。「**画面に表示される、というより、意識に直接届く。**範囲を絞れば、詳細度が上がるみたいです」

雫はもう一度、画面を操作した。ピンチアウトのような動作――範囲を広げているのだろう。

数秒後、彼女は頷いた。

「……街全体の情報も取れました」と彼女は言った。「**この街の人々の名前、見た目、地形――全部、大雑把に把握できます。**詳細は分かりませんが、全体像は見えます」

俺は雫の能力の射程を、改めて理解した。これは、情報収集の極めて強力な能力だ。**派遣事業の任務にとって、理想的なCDE――そう、確信できた。


「……先輩」と雫が呟いた。

「ん?」

「**……ここ、いい街みたいです」と雫は薄く笑った。「**みんな、**それなりに穏やかに暮らしてる感じが、情報の中から伝わります」

俺は頷いた。**雫はもう、**この世界の人々と、情報レベルで繋がり始めている。

「そうだな」と俺は短く返した。「**さあ、行こう。アレクサスに戻る」

「アレクサス」と雫は反復した。「先輩の街、ですね」

「俺たちの街、だ」と俺は答えた。

雫は**俺の方を見て、少しだけ嬉しそうに頷いた。


国境施設からアレクサスへの便を手配した。雫は俺の隣の座席に座った。

乗り物が発進すると、合衆国の地方の景色が窓の外を流れていく。**雫は窓に額をつけて、ずっと外を見ていた。初めて見る合衆国の中の景色を、目に焼き付けようとしている――そういう表情だった。

俺はポケットの中のペンに軽く触れた。

真っ白なペン――真っ白なタブレット――二つの白い道具が、俺と雫の手元にある。地球から来た俺たちが、この世界で得た色のない道具**。

**俺たちは、もう一人じゃない。

この世界で、地球時代から続く関係を持って、並んで歩くことになる。

俺は窓の外を見つめる雫の横顔を、ちらりと見た。

**雫はもう、少しだけ大人びていた。**地球時代より、強くなっていた。**二か月のキャンプ生活が、彼女を成長させたのか、派遣事業の決断が、彼女を変えたのか――両方かもしれない。

俺は**前を向いて、目を閉じた。

**アレクサスは、もうすぐだ。

**俺たちの、新しい生活が、始まる。

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