第11話 北沢雫
雫は林の縁で、動かずに俺を見つめていた。
俺もそこから、ゆっくり彼女に近づいた。
会話より先に、確認が必要だった。お互いに、相手が本物の自分の知っている人物なのか――それを確かめる時間が、二人とも欲しかった。
雫の表情を、俺は近距離で見つめた。
地球時代の雫より、少し痩せていた。髪は少し伸びて、肩より下まである。服装は明らかにこの世界のもの――実用的な布の上着とズボン。でも、顔は完全に雫だった。目元、口元、眉の形――俺の記憶の中の雫と、完全に一致していた。
雫の方も、俺を確認しているようだった。俺の格好を見て、俺の表情を見て、俺が俺であることを、彼女なりに検証している。
「……神野先輩、ですよね」と雫は、最後の確認として静かに尋ねた。
「**そうだ。神野隆二だ」と俺は答えた。「雫だな」
「――はい」
雫の目に、ようやく安心が浮かんだ。確信が確信に変わった瞬間だった。
そして次の瞬間、彼女の目に、抑えていた感情の波が、一気に溢れた。
「**神野先輩――**本当に、いた」
雫は俺の前で、深く息を吐いた。長く、ゆっくり、気持ちを整えるような息だった。
「――会えました。本当に」
その一言の重みを、俺はゆっくり呑み込んだ。
「先輩は、こちらの方から来られたんですか」と雫が尋ねた。早口にならない、抑えた口調――合理主義者の彼女らしい、感情の中での冷静さ。
「ああ。アレクサスという街から来た」と俺は答えた。「**研究都市だ。俺はそこに居住している」
「……アレクサス」と雫は短く反復した。新しい固有名詞を頭に入れている――その動作。
「雫は、いつからここに?**」
「派遣されてから、ずっとです」と雫は答えた。「もう、二か月くらいになります」
二か月――俺がアレクサスで生活している期間より少し短い。雫は俺と同じ一期生で、ほぼ同じ時期に派遣された――その確認が、ここで成立した。
「……立ち話も何ですし」と雫は周囲に視線を向けた。キャンプの方は、雫が林に入っていったことに気づいているかもしれないが、まだ追ってきてはいない――そういう状況。「少し離れた場所で、お話しできますか」
俺は頷いた。
キャンプの女性たちに、俺の存在をいきなり明かすのは得策ではない。まず雫と二人で話して、状況を整理してから、彼女たちにどう接するかを決めるべきだった。
俺と雫は、林の中を少し奥に歩いた。キャンプの場所から、声が届かない距離まで離れて、朽ちかけた倒木に並んで腰を下ろした。
夕暮れの光が、林の間から差し込んでいた。静かな時間――雫と俺の、地球で過ごした時間を思い出させるような、穏やかな静寂。
「……雫」と俺は、最初に聞くべきことを尋ねた。「なぜ、こっちに来たんだ?」
雫は少しだけ間を置いて、整理した口調で答え始めた。
「先輩が、いなくなってから――」彼女は静かに切り出した。「**しばらくして、宝くじで一等を当てました」
「……宝くじ」
「はい」と雫は淡々と頷いた。「一生分遊んで暮らせる額が、当たりました」
俺は彼女の顔を見た。雫は、自慢でも喜びでもなく、事実としてそれを伝えていた。
「**そうしたら、プログラミングを学ぶ理由がなくなったんです」と雫は続けた。「親を楽させたい、というのが、勉強の動機でした。それが、宝くじだけで達成されてしまった」
「……雫らしい話だな」と俺は短く返した。雫は目的のために生きる人だった。目的が達成された瞬間、彼女は迷子になる――そういう性質の人だった。
「目的を失って、何をしたらいいか分からなくなりました」と雫は淡々と続けた。「そんな時、派遣事業の発表を見ました」
雫は、少しだけ俺の方を見た。
「時系列が、合いすぎていました」と彼女は言った。「**先輩がいなくなった時期と、派遣事業の応募期間――ほとんど一致していました。先輩は以前、平行世界のことを、眉唾な話として、中途半端にだけ私に話していました」
俺はぎくりとした。そんな話、したかもしれない。確信があったわけではない、ただの噂か推測として、雫にぽろっと漏らしたことがあった気がする。雫は、それを覚えていた。
「先輩は、派遣事業に応募したのではないか――私はそう仮説を立てました」と雫は続けた。「**確証はありませんでした。でも、応募期限はぎりぎりでした。迷う時間が、ありませんでした。普段なら、私はもっと慎重に、もっと合理的に判断するんですけど――この時は、応募してしまいました」
俺は彼女の言葉を、ゆっくり呑み込んだ。
雫は、俺を探すために、平行世界に来た――この事実が、ここで完全に確定した。
確証のない仮説で、人生を賭けた選択をした。合理主義者の雫が、合理性の枠を越えた選択をした――俺のために。
俺は何と返すべきか、すぐには言葉が出なかった。
「先輩」と雫は、俺の沈黙を察したように、穏やかに続けた。
「責めてるんじゃないんです」と彼女は言った。「先輩は、眉唾な話を、私に押し付けたわけじゃない。ただの世間話で、ぽろっと話されただけです。**先輩には、私を巻き込んだ責任はありません」
「……雫」
「でも」と雫は俺の方を見て、少しだけ口元を緩めた。「**結果として、私は、先輩を見つけました。**私の応募の選択は、間違いではなかった――そう、思っています」
俺は彼女の言葉に、深い息を吐いた。
雫は自分の選択を肯定している。俺のせいだとは言わない、自分が選んだことだから自分の責任――合理主義者として、そういう態度で立っている。
そして俺を見つけた以上、その選択は正しかった――結果論で自分を肯定している。これは雫の強さだった。過去の選択を後悔しない、結果を受け入れて、次の判断に進む。
俺は雫に礼を言うべきか、謝るべきか、迷った。でも、どちらも違う気がした。
俺は彼女に頷きを返した。
「……ありがとう、雫」と俺は短く言った。
雫の表情が、一段、和らいだ。安堵のような表情。自分の決断を、相手が受け入れてくれた――その確認の瞬間だった。
「雫、こっちに来てからの話を、もう少し詳しく聞かせてくれ」と俺は切り出した。
雫は淡々と語り始めた。
転移直後、彼女は何もない草原に降りた。首都も街も見えない、人の気配もない場所。完全な未知の場所で、地球の装備しか持っていなかった。
「最初の三日は、本当に大変でした」と雫は短く言った。「**水も食料も、地理も分からない。地球の訓練で習ったサバイバル知識だけが、最初の三日を生き延びる材料でした」
「訓練で習ったことを、よく覚えていたな」
「**他のこと全部はうまく覚えられるんです。プログラミング以外は」と雫は薄く笑った。「先輩と違って、私はサバイバル技術も護身術も全部覚えました」
俺は少し笑った。雫は俺の弱点を覚えていた。先輩は興味のないことは頭に入らない――そういう俺の性質を、雫は地球時代から知っていた。
「それで、四日目に、キャンプグループの方々と出会いました」と雫は続けた。「**最初は警戒されました。見慣れない格好で、言葉も通じない。普通なら、追い払われていたと思います」
「でも、追い払われなかった」
「**はい。何とか、自分が困っていることを伝えました」と雫は淡々と言った。「**身振りと、表情と、地面に絵を描いて――コミュニケーションを試みました。何度も」
雫はそこで少し言葉を切った。
「……あちらの方々は、敗戦国の難民だ、と分かりました」と彼女は続けた。「話してると、戦争で家を失った人たちが多くて。私も自分は敗戦国から逃れた人間だと話を合わせました。**そうしないと、受け入れてもらえなかった」
「……話を合わせた」
「はい。生き延びるためです」と雫は静かに言った。「**真実を話すと、派遣事業のこと、平行世界のこと――信じてもらえないどころか、危険視されるかもしれない。私は、敗戦国出身の難民として、この二か月、生きてきました」
俺は彼女の判断力に、改めて感嘆した。この場面で、即座に話を合わせる判断を下した――プログラミング以外なら天才的な彼女の本領発揮だった。真実より、生存を優先する――合理主義者として完璧な選択。
「ヘアピンは、どうしたんだ」と俺は尋ねた。「最初は、言葉が通じなかったんだろう」
雫の表情に、少し戸惑いが浮かんだ。
「**ヘアピン、というのは――この、髪に着けるやつ、ですか?」と雫は自分の頭に手を当てた。そこには、確かにヘアピンらしき小物が留まっていた。
「そうだ」と俺は答えた。「それで言葉が通じてるはずだ」
「……はい」と雫は頷いた。「**キャンプの方々が、二つ持っていたんです。たまたまだと言ってました。**一つを私に貸してくれて、それで言葉が通じるようになりました」
「雫」と俺は確認するように尋ねた。「それが何なのかは、知ってるか?」
雫は少し考えてから、答えた。
「……スマホみたいなもの、ですよね」と彼女は言った。「この世界の技術で、翻訳機能を持つ装置だと、私は理解していました」
俺は短く笑った。雫らしい解釈だった。**現代日本のデジタルネイティブとして、未知の便利な道具を、自分の既知の概念に当てはめる――論理的な誤推論。
「……雫、それは」と俺は説明し始めた。「そういう道具じゃない。CDE――この世界の、個人に固有の能力を発現させる道具だ」
雫の眉が、わずかに上がった。
「……能力を発現させる」
「全員がCDEを持ってる」と俺は続けた。「**ペンとか、石とか、結晶とか、髪飾りとか――**それぞれが、独自の能力を持つ道具を持っている。お前が借りているそのヘアピンも、誰かのCDEで、翻訳能力を持つものだ」
雫の表情が、理解と驚きを同時に浮かべた。彼女の中で、世界観が急速に再構築されているのが分かった。
「……スマホじゃなかった、ということですか」
「そういうことだ」
「**……」雫はしばらく沈黙した後、口元を緩めた。「先輩、私、二か月間、スマホをずっと使っていたつもりでいました」
「そうみたいだな」
雫は小さく笑った。自分の認識の誤りを、合理主義者として面白がる――雫らしい反応。
「ということは、この世界では――」雫は続けた。「みんなが、何らかの能力を持っている、ということですか?」
「そうだ」と俺は頷いた。「**合衆国――**俺が住んでる国だが、そこでは普及率が百パーセントだ」
「……普及率百パーセント」
「**そして、お前も、**合衆国に入れば、CDEを引ける」
雫の目が、わずかに見開かれた。
「入る選択肢が、ある、ということですか」と雫は静かに尋ねた。
「ある」と俺は答えた。「**俺はアレクサスという研究都市で生活している。外来者として、合衆国に入った。**そこで仕事をもらい、住居をもらい、CDEを引いた。お前も同じことができるはずだ」
俺はそこで言葉を切って、雫の判断を待った。
雫はしばらく考えた。合理主義者の彼女が、入る選択肢のメリットとデメリットを頭の中で整理している――その時間。
「……私は」と雫は静かに切り出した。「キャンプの方々から、合衆国の話を聞いていました」
「何と聞いていた」
「合衆国では、CDEと頭脳ですべてが決まる」と雫は淡々と引用した。「CDEは便利だが、何ができるかですべてが決まる**。どんな状況でも実力を身に付けられる実力に自信がなければ、入るのはやめた方がいい――そう、言われていました」
俺は頷いた。敗戦国の難民から見た合衆国――冷酷な能力主義の国として、彼らはそれを見ている。
「先輩は、どう思います?」と雫が尋ねた。「私が、入って大丈夫だと思いますか?」
俺は少し考えた。正直な評価を、雫に伝えるべきだった。
「**……お前は、平気だと思う」と俺は答えた。「**お前は、プログラミング以外は天才的だ。**CDEがどんなものを引いても、頭脳の方は問題ない。**実力の評価は、多分、相当上に行く」
「CDEが、役に立たないものを引いたら?」
「役に立たないCDEはない」と俺は答えた。「全部、何かの形で役に立つ。**派手じゃなくても、地味でも、運用次第で価値が出る。**そして、運用は頭脳の問題だ――お前は、それができる」
雫は長く考えた。
そして、頷いた。
「……分かりました」と彼女は静かに言った。「入ります」
「いいんだな」
「はい」と雫は俺を見た。「曲がりなりにも、私、大学でトップに登りました」と彼女は少し恥ずかしそうに、でも事実として言った。「**プログラミング以外は、**ある程度努力すれば、結果が出ました。**CDEが何かは分からなくても、**ある程度努力すれば、初手で躓くとは思えません」
これが雫らしい根拠だった。過去の実績への信頼――根拠のある自信。過小評価も過大評価もしない、合理的な自己評価。
俺は彼女に頷きを返した。
「じゃあ、明日」と俺は言った。「俺と一緒に、合衆国に戻ろう」
夜、俺たちはキャンプに戻った。
雫の説明によると、キャンプの方は俺を警戒することはなさそうだった。雫が連れてきた人物として、まず話を聞いてもらえるはず。それが、雫がキャンプで築いてきた信頼だった。
俺たちが林から出ると、キャンプの女性たちは、驚きながら俺を見た。でも、攻撃的な反応はなかった。雫が後ろから出てきたことを確認すると、警戒は薄れた。
雫は彼女たちに、自分の言葉で説明した――この人は、私が探していた、私の先輩。私は、明日、彼と合衆国に行く。ここまで助けてもらえて、本当にありがとう――そういう内容。
キャンプのリーダー格らしき女性――四十代くらいの、落ち着いた佇まいの女性――は、雫の言葉を静かに聞いた。
「……そう」と彼女は短く言った。「シズク、合衆国に行くのね」
「はい」と雫は頷いた。
「……いいわ」と女性は言った。でも、彼女の目には、少しだけ寂しさが浮かんでいた。「あなたが選ぶことよ。私たちは、止めない」
そして女性は俺の方を見た。
「あなたが、この子の先輩ね」
「神野隆二、と申します」と俺は頭を下げた。
「……合衆国の人?**」と女性は静かに尋ねた。敵意ではない、確認の質問だった。
「いえ」と俺は答えた。「俺も、雫と同じです。外から来ました」
女性は少しだけ目を細めた。俺の言葉の意味を考えている――その表情。
「……二人とも、外から来た人だったのね」と彼女は最後に静かに言った。「**そういう人たちが、合衆国に――**でも、それは、あなたたちの選択。**ここで一緒に過ごした時間、シズク、忘れないわ」
雫の目に、わずかに涙が浮かんだ。
「……ありがとうございました」と雫は頭を下げた。
女性は彼女に向かって、少しだけ微笑んだ。
そして女性は、少しだけ厳しい表情で続けた。
「**……合衆国は、実力の国よ。**シズク、あなたなら大丈夫だと思うけど、気をつけて。簡単な国じゃない」
「……はい」と雫は頷いた。
女性はそれ以上は言わなかった。簡単な国じゃない――この一言の重さを、俺は受け止めた。敗戦国の難民として、彼女が見てきた合衆国の冷酷さ――雫がそこに飛び込むことへの、彼女の心配。
夜、キャンプで質素な食事を共にした。
雫はキャンプの女性たちとささやかな別れを交わした。**お互いに、多くを語らない――そういう別れだった。雫はヘアピンを返した――借りていた一つを、リーダー格の女性に手渡した。
「明日からは、自分のヘアピンを持つことになるから」と雫は言った。「ありがとうございました」
女性はヘアピンを静かに受け取った。
翌朝、夜明けと共に、俺と雫はキャンプを後にした。
振り返ると、キャンプの女性たちは、遠くから手を振っていた。雫は、何度か振り返って手を振り返した。
俺は彼女の歩調に合わせて、隣を歩いた。
「……二か月、ここで生きてきたんだな」と俺は静かに言った。
「はい」と雫は答えた。「**でも、**今日からは、先輩と一緒です」
俺は頷きを返した。
合衆国に戻る。雫を入国させて、アレクサスに連れて行く。雫はCDEを引き、研究都市で生活を始める――俺と一緒に。
俺はもう、一人じゃない。
**この世界で、地球時代から続く関係を持つ人が、俺の隣にいる。
俺の運は、やっぱり良かった――俺は内心でそう思った。




