そういう仲になりたい
「君はしっかりしているようだが、実際はまったく無防備で無鉄砲だな」
車を発進させると社長はまずそう言った。
社長の車はこれまで乗ったことのない高級車だ。しかもシートは赤の本革。助手席の座り心地は最高だけど、居心地が悪くて仕方がない。
「心配で放っておけない」
今朝の態度とは真逆の優しい声音だった。
私は社長の顔をおそるおそる見た。
社長はクスッと笑ってハンドルを握っていないほうの手を伸ばして、私の手を握る。
「あの、でも、これって……」
「つかまえておかないと、君はすぐどこかに行ってしまいそうだから」
重ねられた社長の手が熱い。
そう感じた途端、私の頬も急に熱くなった。
「でも、社長は……」
私は次の言葉を口にするために、人生で最大の勇気を振り絞った。
「大迫さんと、そ、そういう仲……なのでは?」
隣でわかりやすく首をかしげる気配を感じた。
怖くて社長をまともに見ることができない。フロントガラスのほうを向き、正面を見ているふりをした。
「『そういう仲』とは、どういう仲だ?」
「おふたりが……お付き合いされている、と……みんなうわさしていたから……」
車内に妙な空気が広がっていく。
聞き方がよくなかったかもしれない、と後悔したけど、もう遅い。
(どうしよう。聞いたのは私なのに、返事を聞きたくない……!)
「なるほど」
社長の低い声に、私の身体がピクッと反応した。
「君はどう思う?」
(えーーーっ!? どうして私の考えを聞くの?)
心の中で私の小人が慌てふためいて右往左往している。
「そういわれると、確かにお似合いだな、と……」
「なるほど」
今回は社長の返事が早かった。
その後にすぐ、フッと笑う声が聞こえてくる。
「じゃあ、今君の手を握っている俺をみんなはこううわさするだろうな。『秘書にすぐ手を出す社長』だ、と」
私は何も言えず、私の手を握る社長の手の甲を見つめた。
私よりも大きな手。そして綺麗な指。
「……違うんですか?」
「君はどう思う?」
(また私の考えを聞くの?)
質問に答えずに質問返しとは卑怯ではないか、と思うものの、それを言える雰囲気ではない。
「違ったらいいな……と思っています」
「それはつまり、秘書に手を出すな、ということか」
私は前を見た。もうすぐ私の家に着く。実家暮らしの私は、別の焦りを感じ始めた。
「あ、あの、この先に少し大きな公園があるんですけど」
「うん」
「天気もいいので、星が見えるかも……」
社長は「了解」と言って、車線変更をし、公園の駐車場へ入った。
市街地から離れた地域にある大きな公園なので、駐車場も広い。昼間は親子連れで賑わっているが、夜間は人影もなく、他の車も見当たらない。
車を止めた社長は「星が見える」とフロントガラスに顔を近づけ、夜空を見上げた。
そして私のほうを向く。
「もう少し話をしようか。時間は大丈夫?」
私は「はい」と答える。
「まず、大迫さんとは付き合っていない。そのうわさとやらは、大迫さんのご両親の通夜に行ったことから出てきたのか。君たちの推理には恐れ入る」
苦笑しながら社長は言った。
私もつられて笑顔になる。実際、ものすごくホッとした。
「そうですか」
「でも、俺は……」
社長の口から打消しの接続詞が出た瞬間、私の胸がキリキリと痛み始めた。
「『秘書に手を出す社長』とうわさされるかもしれない」
ん?
どういう意味だろう。
それって、つまり……?
「俺は君と『そういう仲』になりたい」
「……!!」
私は屋外灯の明かりでほのかに照らされた社長の顔を真っすぐに見つめた。
今まで見たことのない、困ったような、はにかんでいるような、不思議な表情の社長を――。
「私も……『そういう仲』になれたらいいな、と思います」
暗くてよかった、と思う。
私の顔は真っ赤に火照っているし、声は震えているし、今にも泣いてしまいそうだった。
社長を見ると、ホッとした表情で微笑んでいる。
「交渉成立、だな」
「そうですけど……なぜか業務の話をしているような気分です」
「それもそうだな。だがそれは君が悪い」
「え、私のせいですか!?」
つい鋭くツッコんでしまい、私は手で口を押さえた。
社長は肩をすくめる。
「プライベートの時間に仕事の話をし始めたのは君だろ?」
そうだろうか。
私は今夜劇場で社長に会ってからのことを思い返した。
(そういえば、なぜ会社では笑顔を見せてくれないのか、と私が問いただしたせいで、何か変な流れになってしまったような……)
「そうでしたね」
「会社を出たら、会社の話は禁止だな」
「えー、難しいです」
思わず笑ってしまった私に、社長は眉根を寄せて不満そうな視線を向ける。
「君は俺と会社の話しかできないのか?」
「じゃあ、どんな話をしましょうか」
「たとえば、明日は何をしているか、とか」
「明日!?」
明日は土曜日。会社は休みだ。
いきなり明日の話をするとは思っていなかった私は、慌てて明日の予定を思い出そうと脳をフル回転させた。
「私は……暇人です!」
「奇遇だな。俺も暇だ」
「えっ、しご……、いえ、なんでもありません!」
危ない。仕事をしないのか、と口にしそうになった。
急に会社や仕事の話をしないようにするのはめちゃくちゃ難しい。
そんな私の胸の内を読んだかのように、社長はわざとらしくため息をついた。
「君は俺にずっと仕事をしていろ、と言いたげだな。まさに秘書の鑑だ」
「……すみません。お仕事をされている姿以外、拝見したことがなかったので」
「そんなことはないはず。君の前では……」
私は目を見開いて社長を見る。
(もしかして、社長室のソファに横たわっている姿って、私以外見たことなかったりする――?)
突然、心臓がドキドキと鳴り始めて、どういう表情をすればいいのかわからなくなった。
口を開いて、でも適当な言葉が見つからず、唇を噛む。
「なぜか君がそばにいるとくつろげるんだ」
運転席の窓に肘をつき、ほおづえをついて、社長は私を見た。穏やかな視線だけど、少しからかうような笑みを浮かべている。
「それに君が来てから毎日が楽しい。君を見ていると飽きないから」
「……私、そんなにおもしろくないですよ」
「これは個人の感想だから気にせず、君はただそこにいてくれればいい」
私は夢を見ているような、現実感のないふわふわした気分だった。
「社長の笑っている顔、好きです」
言ってしまってから、大胆な告白をしたことに気がついた。
でも後悔より、爽快さが心に残る。
「俺の名前、知ってる? 唯子さん」
急に名前で呼ばれて、ドキッと心臓が跳ねた。
「もちろん、存じ上げておりますとも!」
「じゃあ、言ってみて」
社長は余裕たっぷりな表情で笑っている。
もうその顔すら素敵で、一秒ごとに心のカメラのシャッターを押しまくっていた。全部保護して永久保存したい。
「……光輝さん」
「うん。何?」
私は思い切って願いを口にしようと思う。今ならきっと言える。
心臓がドキドキしすぎて壊れそうだ。
「明日、デートしませんか?」
光輝さんが頬杖を外して、姿勢を正す。
そして急に私の両肩に手をかけて、自分の胸に優しく引き寄せた。
私は光輝さんのぬくもりに包まれて胸がいっぱいになる。とげとげしてぐちゃぐちゃになっていた私の心は、少しずつ溶けていって、甘い綿菓子のようなふわふわなもので満たされた。
そのうち光輝さんの指が私の頬を撫で、顎にかかる。
視線を上げたら自然と間近で彼の顔を見ることになって、急に恥ずかしくなった。
でも目が離せない。せっかくこんなに近くで見られるなら、と私は彼の目を見つめる。
切れ長の目にまつ毛が影を作っていて、瞬きのたびに瞳が揺れて美しかった。
その彼の視線が私の唇に落ち、私は目を細める。
次の瞬間、唇に柔らかいものが触れた。二度、三度……優しいキスが降ってくる。
鼻先がくっつくくらいの距離で、光輝さんが言った。
「デートしよう。明日も、明後日も……」
「はい。ぜひ!」
返事をした途端、全身がボンと熱くなる。
これは夢じゃないよね、と何度も自問した。
その後、社長は今夜と同じ、特別招待席の別日のチケットを古東さんに頼んであったのだ、と説明してくれた。
もちろんそれは彼がご両親の結婚記念日を祝してプレゼントするためのものだ。
入手しにくいチケットを準備してくれた幼馴染にお礼をするため、古東さんの会社に出向いた彼は、古東さんを優しく脅して今夜のチケットを奪ったのだと言う。
優しく脅す、なんてひどく矛盾しているけれども、社長らしいと思った。
私は二人のやり取りを想像して、楽しく幸せな気分になる。ミュージカルの幕は下りたのに、まだ夢の中にいるようだった。
それもそのはず。私と社長――じゃなくて、光輝さん――との恋はまだ幕が開いたばかりなのだから――。
翌週の月曜日、私のデスクに直通電話が来た。
めったにないことなので不思議に思いながら電話に出る。
『後藤さんね。お久しぶり。大迫です』
「大迫さん! ご無沙汰しております。あ、あの、この度は……お悔やみ申し上げます」
『恐れ入ります。後藤さん、社長室の仕事には慣れたようね』
「はい、おかげさまで、なんとか……」
電話の向こうから聞き覚えのある優しげな声が聞こえてくる。私は大先輩の声で一気に緊張してしまい、しどろもどろな応対をしてしまう。情けない。
だけど大迫さんはそんなことを気にかける様子もなく、意外なことを口にした。




