もうこの気持ちは隠しきれない
退勤準備に時間がかかってしまったので、急いで会社を後にした。
少し前に休憩室で聞いた話が心の片隅に引っかかっていたけど、これからの公演のことを考えると気分が晴れてワクワクしてくる。
新しくできた劇場は会社から徒歩で二十分ほどの距離だった。
到着して時計を見ると開演時間には十分な余裕がある。お腹が空くかもしれないと思ったので、ロビーで軽食を取った。
開演時間が近づいてくると、周囲の人たちは場内へと移動し始めた。私はあまり早く席に着いているのも変かな、と妙な気づかいをしてしまい、自分の席に行くのを躊躇していた。
でも五分前になると、さすがにロビーでじっとしていることができなくなってしまう。はちきれそうな胸のドキドキを抑えて場内へ足を踏み入れた。
チケットの座席番号を確かめて階段をのぼる。
二階席の一列目、舞台を真正面に臨む席だ。二階でも舞台が意外と近く感じられるし、全体の様子もよく見えた。
開演前なのに私の興奮は最高潮に達し、心の中では「わああ!」とか「ひゃあ!」とか言葉にならない叫びが止まらない。
隣はまだ空席だった。少し拍子抜けし、同時に少しホッとした。
古東さんのことはよく知らないけど、彼には社長が心配するような変な意図はないと思う。
そこで思考がピタッと止まった。
(あれ……?)
社長は何を心配していたのだろう。
私が古東さんの誘いに乗ったことにどうして怒ったのだろう。
(相手が古東さんだから話は別、みたいな言い方をしていたけれども、もしかしたら私が勝手に大丈夫だと思い込んでいるだけで、実は手の早い危険な男性だったりする?)
幼馴染の社長が言うことだ。二度会っただけの私の判断より社長のほうが正しいに違いない。
そう思うと急に不安が全身を駆け巡った。
本当に私はここにいていいのだろうか。
急に会場の照明が落ち、暗くなる。
開演ブザーが鳴った。同時に列の端から身を屈めてこちらへ向かってくる人影が見えた。
――来た!
心臓がドキドキする。舞台にわずかな照明がついた。その途端、私は「ええっ!?」と声にならない声を上げていた。
「すまない。遅くなった」
「あの、えっと……古東さんじゃなくて……!?」
「古東じゃなくて悪かったな」
私の隣に腰掛けたのは社長だった。
社長は後ろの人を気にしてか、長い足を前に出し、座高を調節する。
私は社長を凝視しながら、ぱちぱちと何度も瞬きした。
「どうして……?」
「君をアイツには任せられない」
小声でそう言うと、私の顔を見て微笑んだ。それから舞台のほうを向く。
私も社長から視線を引き剥がし、正面の舞台をまっすぐに見る。だけど頭の中は激しく混乱していた。
これはどういうことなんだろう。
ミュージカルが始まってしまったので、社長に話しかけることはできない。
そのうちミュージカルの進行とともに、私の意識も舞台へと向いたが、頭の片隅では隣にいる社長のことがずっと気になっていて、どっぷりと物語に浸かることができなかった。
終演後、私たちはしばらく立ち上がることができずにいた。
しかも気まずいことに社長は黙ったままだ。
私はどうしてよいのかわからず、困り果てて社長を見る。
「何か言いたそうだな」
社長がやっと口を開いた。
私は少し考えて、それから言った。
「社長がミュージカル好きとは知りませんでした」
隣でフッと笑う声が聞こえた。
「昔、この劇団を家族で観に来たことがある。嫌いではないな。今日も楽しかった。両親の結婚記念日にこの公演のチケットを贈ったのは正解だった」
自然な表情で笑う社長に、私の視線は釘付けになっていた。
「どうして……」
思わず口走ってしまう。
「いつもそういう顔をしてくれないんですか」
みるみるうちに社長の笑みは薄れていき、いつもと変わらぬ冷酷な表情に戻っていく。
まるで周囲の温度が下がったように感じられた。
それでも社長から目が離せない。
その冷たい顔がずっと心に引っかかっていた。わけもなく気になるけど、なかなか抜けてくれない、小さな棘みたいに――。
「これが俺のスタイルだからな。社員に冷酷だと言われても、俺一人くらいはそういう役を演じなければ成り立たない。会社とはそういうものだ」
「そうは思いません!」
私は社長の勝手な思い込みに腹が立っていた。
なぜかはわからない。自分でも驚くほど急に体が熱くなり、声も大きくなってしまう。
「社長が冷たい顔をして厳しい態度で社員に接したところで、社内がギスギスするだけでいいことなんか一つもありません。それよりもっと普通に、人間らしいところを見せてくれたほうが、みんなだって社長を素直に尊敬して『この人についていこう』と思うはずです」
ずっと言いたかったことを言えてすっきりした。
けれども、次の瞬間、さすがに言い過ぎたような気がして、急に全身から血の気が引いた。
社長は私の反対側の肘掛に肘をつく。
「わかったようなことを言うな」
その言葉を聞いた途端、まるで頭に冷水をかけられたようだった。
体が硬直して、息が止まる。
社長が私から視線をそらし、ため息をついた。
突如として私の中に得体の知れぬ感情が湧き上がり、胸を突き破って出てきそうになる。
(失敗した……!)
衝動に任せてひとりよがりな持論をぶちまけたことをひどく後悔した。
いてもたってもいられず、勢いよく立ち上がって出口へ向かう。
社長の姿を視界に入れないよう、首が不自然な角度に曲がってしまい、我ながら滑稽だ。
途中、上を向いて激情がこぼれそうになるのをこらえる。
わかっている。
私は本当に言いたいことを言えないから、社長に正義感を振りかざして不満をぶつけてしまったのだ。
偉そうに言うべきことではない。
こんなときに言うべきことではない。
わかっていたはずなのに……。
そのとき、後ろから腕をつかまれた。
「待って」
腕をつかまれた反動で私は振り向いた。
前のめりになった社長が、私の腕をつかんでいる。私を追いかけてきてくれたのだ、とわかると、喉元に何かがせり上がってきて苦しくなった。
それなのに、素直じゃない私は態度を変えられない。
唇をギュッと結んで、社長の手を振りほどこうとした。
「帰ります」
「送る」
「なんで優しくするんですか? 怒っていたんじゃないんですか? 呆れていたんじゃないんですか?」
周囲には誰もいない。もうほとんどの人が劇場の外へ出てしまっていた。
声が自然と大きくなる。
「それにどうして今日、社長がここに来たんですか!?」
私は涙が頬を伝うのも気にせず、思っていたことを全部吐き出した。
急につかまれていた腕が解放される。
「俺じゃなくて、古東のほうがよかったのか?」
なぜかいつものように自信に満ちた声ではなく、か細く震えそうな悲しい声音だった。
涙がたまったままの目で、社長の顔を確かめる。
思いつめたような、追いすがるような、切実な視線を正面から受けて、私は彼から目が離せなくなってしまった。
「違います」
そう。
私は古東さんじゃなく社長が来てくれて、ものすごく安心したし、嬉しくてドキドキした。
大好きなミュージカルを、まさか社長と一緒に鑑賞することになるなんて、考えてもいなかったこと。心が高揚しすぎて、心臓の鼓動が耳の横で鳴っているかのように聞こえていた。
もうこの気持ちは隠しきれない。
いつの間にか、私は社長のことを――こんなに好きになってしまっていた、と。
目の前の人がクスッと笑う。
社長がとろけるような優しい表情で、私の頬の涙を指で拭う。
「続きは車の中で話そう」
返事をする前に再び腕をつかまれた。
私は社長に手を引かれ、雲の上を歩くかのようなふわふわとした足取りで劇場を後にした。




