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深い谷底の花 6

 龍はふたりを見下ろしたまま動かない。

 龍の鋭い眼だけが何度も開閉し、その場に音も立てずに佇んでいる。


 川の流れる音しか聞こえない、静寂が空間を包み込み、アルトは龍を見上げながらもう一度口を開いた。


「あなた人間ですよね。それも祝福を受けた。祝福によって水を操れるようになった。違いますか」


 アルトの頼りない双眸が、龍の眼を捉えて離さない。

 龍の気迫に気圧され、今すぐでも目を逸らしたいと内心では思っているが、なんとか耐えている。


「答えたらどうですか。沈黙は正解と取りますよ」


「⋯⋯なぜそう思う」


 龍の鋭い牙が口から除き見えた。

 

「ただ単に。水みたいな龍なんて聞いたことないですし、思いっきり人の言葉話してますし」


(そこかよっ。そんなのお前が知らないだけかも知れないし、だいたい神だって人語で話したんだからそんな魔物がいてもおかしくは無いだろ!?)


 アネットが安直な推理に心の中でツッコむ。

 あまりにも根拠が遅く、このままでは龍は答えないだろうと頭を押さえた。


「まあ今のは半分冗談というか、軽い推理ですけど」


(軽い推理ってなんなんだ⋯⋯勿体ぶらないでくれ)


「まあ、これは正直当てずっぽうなんですけど。エルメナが言うには、祝福を受けた者にはオーラがないと。で、あなたにもオーラがないということですけど、ちょっと考えたんです。どんな祝福を受けたのだろうって」


「ん?」


 アネットが首を傾げ、龍は徐に口を閉じ、肩をすくめるように胴体を丸めた。


「祝福にどんな種類があるのかって考えたんです。で、やっぱり浮かんだのが水です。昨日龍がやったように、水が浮いて球体になってそれが弾けて石つぶてみたいな勢いで飛んでくるなんて、まず考えられませんから。となると考えられるのは、水を操る祝福です」


 心做しか、水面から身体を出している龍が戸惑ったように見えた。

 実際には変化はなかったが、アルトもアネットも同じように反応したと思った。


「違いますか? 水の龍さん」


 龍は黙ったままアルトを見下ろし、ゆっくりと身体をくねらせながら、水面へと沈んでいく。

 ゆっくりとゆっくりと、顔が浸かりかけた時、また声が聞こえた。 


「来い」


 それだけ言って、龍は水の中へと消えていった。

 慌ててアルトが中を覗くが、巨体が池の中を泳ぐ姿はない。

 水は凪、水泡も、流れすらも目視できない。

 完全な水溜まりへと戻った。


「来いって言ったって⋯⋯この中を泳げっていうのか?」


 アルトと共に中を覗きながら、アネットはこめかみを掻いた。

 水底も見えず、分かるのは深い暗闇の水の空間が広がっているということだけ。

 川に入った感触からいって、水温はかなり低く、泳ぐのは困難を極めるだろう。


「それはちょっと勘弁してもらいたいですね⋯⋯」


「私がいこうか?」


「いや、向こうは多分私をご所望ですし、私が行きますよ」


 ごくりと唾を飲み、アルトは覚悟を決めたように服を脱ごうとした。

 その時、水面から透き通った水そのもので作った紐のような何かが浮かんできた。

 それは芽吹き出した植物の茎のように細長く、伸びて折れ曲がり、水面を何度も指しているのか、それとも先端で手招きしているのか、どちらとも取れる動きをしていた。


「呼んでますね⋯⋯」


「自分から来いよ⋯⋯」


 ふたりがその物体を見つめていると、物体はうねりながらアルトたちに向かって伸びた。

 長いロープのようになったそれは、アルトの胸の前で止まり、ちょんちょんと胸を叩いた。


「着いて来いってことでしょうか」


「というよりは、握れって言ってるんじゃないか?」


「握れですか⋯⋯」


 アネットに言われた流れで、伸びてきた物体を握りしめると、グイッと軽く引かれた。


「そうみたいですね⋯⋯やっぱりアネットも行きましょう」 


「どうしたんだ急に?」


「私無しで谷を戻らせるのは心もとないので」


 アルトの台詞が頼もしく思え、アネットは口角を上げて物体を握った。

 物体もアネットを拒みはしない。ふたりから先端を捕まれ、またグイッとこっちに来いと言うようにふたりを引いた。


「じゃあ行くか」


 アネットはずっと握りしめていた剣を鞘に納め、大きく息を吸い込んだ。

 アネットに続いて、アルトも大きく息を吸った。

 水泳には2人とも自信が無い。特にアネットは、何秒息を止めていられるか不安で、今にも溜め込んだ空気を吐き出しそうになったが、隣にいる幼なじみを眺めて落ち着きを取り戻した。

 ゆっくりと入水し、全身が水の中に浸かる。

 足を浸した瞬間は冷たくて縮こまりそうになった水が、徐々に温まり、少し冷たいくらいの、生ぬるい水へと変わっていく。


 ふたりは目を開け、中の様子を確認してみた。

 外では太陽が地上を照らしているというのに、まるで別の世界に来たように、水の中は仄暗い。

 まだ2人は水面近くにいるのに、ほとんど光はなく、見えるのは砂利と、川を流れてきた植物程度だった。



 水の紐が、またアルト達を引っ張った。

 その出処がどこかは検討がつかない。

 水の紐はゆったりと、アルト達を引き続ける。

 水底から足が浮き、さらに深くへと誘われていくふたりは、お互いに目配せをして頷き、さらに強く紐を握った。


 泳ぐこともなく、ふたりは深く深くへと連れられてゆく。

 光はもう入っていなかった。お互いの姿もほとんど見えない中、握った紐だけを頼りにただこの時間が終わるのを待ち続けた。

 

「ぷはっ」


 息の限界が近いのか、アネットが空気を吐き出した。

 その音を聞いて、アルトは慌ててアネットの肩を叩き、上へ戻ろうと地上を指さした。

 その指はアネットからは見えていなかった。

 それよりも、息を吐いた途端、呼吸が随分と楽になった気がした。

 息を止めながら空気を吐くと少しだけ楽になるのは確かだが、それでは説明がつかないほど楽になり、もしやと思って、水を飲む覚悟で口で吸ってみた。


(やっぱり⋯⋯)


 息ができた。水は口の中へは入ってこず、水の中に含まれている空気だけが入ってくる。

 そのことに気がついたアネットは、アルトの肩を叩き返し、何とか知らせようと、わざと思いっきり、アルトの顔があるであろう場所に息を吐いた。


 大量の泡となった水が、アルトの顔を襲った。

 驚いたアルトは咄嗟に口を開き、酸素を吐き出してしまった。

 

(このままじゃ息が持ちません⋯⋯っ)


 慌てて上昇しようと上を向いたところで気がつく。

 水が口の中に入ってこず、息を止めていた時間よりも、今の方が随分楽だと。


(⋯⋯いや、そもそもこれは息ができてる?)


 楽どころか、吸えば空気だけが入ってくるのが分かる。


(これもこの人の祝福の力でしょうか⋯⋯)


 安心して息ができると分かったふたりは、余った手で水をかくように動きながら、紐に捕まったまま沈んでゆく。

 ほとんど暗闇と変わらない川の中を随分と進むと、ほんの僅かな時間、勢いよく水に叩きつけられるような感覚がして、次の瞬間には、水のない洞穴のような所にいた。


「な、なんだったんだ今のは⋯⋯」


「祝福でしょうね⋯⋯水の中なのに息ができた。地上と変わらないようにとはいきませんでしたけど」


 息を整えながら、顔についた水を拭って目を開けると、滝のように轟々と流れる水が、洞穴と池を隔てるように流れていた。

 飛沫が洞穴にまで飛んできて、地面に点々と雫を染み込ませていく。


「なるほど⋯⋯池の浦に洞窟か」


「しっかし⋯⋯普通この穴も水浸しになるのでは

⋯⋯」


 ゴツゴツとした岩で形成された穴の中には、水は飛沫程度しか入ってこない。

 池の水は真下へと勢いよく直下するばかりで、この穴を満たそうとはしない。


「凄いですね祝福って⋯⋯」


「お前のも凄いっていうか⋯⋯多分上だと思うけどな」


 何を言ってるんだこいつはと言いたげに苦笑いしながら、アネットは洞窟の奥へ目を向けた。

 洞窟の中は奇妙にも明るく、岩のひとつひとつが淡い光を含んでいるのか、足元や前がほんの僅かに照らされている。



「早く来い。そっちの男だけ」


 穴の奥から声がした。

 龍の時とは違い、はっきりと人の声⋯⋯それも男の声だと分かった。


「やっぱり私をご所望でしたね」


「じゃあたのむ。私はここで待ってる」


 その場に足を伸ばし、壁にもたれかかりながら、早く行ってこいと手を振った。


「ひとりで動いちゃダメですよ」


「動けるわけないだろ。この水を見ろよ」


 轟々と流れる水を見たら、確かに素人が泳げるわけないとわかる。

 それに、息は紐に引っ張られていたというのに、息が続かないほど深いのだ。


 泳ぎに自信の無いアネットには帰ることなど不可能なこと、アルトも分かっているはずなのに、頭が少しぼんやりとしていた。


 頭を抑えながら、穴の中を進んでいく。

 薄明かりのついた穴は、水の中よりも心地が良い。

 冷んやりとして、昔鍾乳洞に入った時を思い出した。

 アネットと共に少し離れた山にある鍾乳洞で、水が不気味なほど青々としていて、空気が常に冷えていたことを思い出す。



 洞窟の奥は、淡いホリゾンブルーの光に包まれていた。

 広い空間で、いくつも水が溜まった水溜まりのような地形が並び、蒼い洞の底に、足元を水に浸したひとりの少年が立っていた。

 

 頭上からこぼれる淡い光が、氷を溶かしたような銀青の髪をかすかに透かし、その輪郭だけを静かに浮かび上がらせている。

 年若く見えるが、その佇まいには不思議な落ち着きがあった。

 薄い肩を包む青の外套は水辺の冷気をはらみ、裾だけがわずかに揺れた。


 白い顔立ちはまだ幼さを残している。

 だが、その目だけは妙に澄んでいた。

 


 腰に添えた指先は細く、力を誇る者の手ではない。それでも、その姿には頼りなさより先に、壊れそうでいて折れない芯のようなものが感じられる。周囲を満たす青い光の中で、彼だけがまるで夜明け前に残された星のように、ひそやかに、しかし確かにそこに在った。


 青年がアルトを見つける。

 水をそのまま注入したような、澄んだ双眸に、自分を見つめながら顎を引くアルトの姿が映る。


「やあ、待ってたよ」


「お待たせしました」


 低い男の声でありながらも、ハープの弦を弾くようなしなやかさと軽快さがある。


「私の予想は当たりだったようですね」


 アルトは青年を警戒しながらも、敵意を向けているわけではないと気づき、ゆっくりと水たまりを踏みながら近づいていった。

 ポツンと、水滴が鼻に触れた。

 顔を上げてみれば、頭上から水が染み出し、所々雨漏りのようにこぼれ落ちている。


「まさか正体に気づくとは思わなかったよ。君何者?」


「貴方と同じですよ。あなたと同じ、神から力を与えられた者です」





 



 



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