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深い谷底の花 4

龍はまるで水がひとつの意志を得て天へ昇ったかのような姿をしていた。


 全身を覆う鱗は氷晶にも真珠にも似た青白い光をたたえ、角度を変えるたびに淡い虹彩が水面のように揺れた。


 首から胴にかけてはしなやかにうねり、その長い体躯には猛々しさよりも、巨大な潮流そのものの力強さが伺える。



 周囲に散る飛沫さえこの龍の一部に見えた。

 たてがみは水がそのまま流れを保ったようにたなびき、爪を掲げた姿は、今まさに災厄を呼び起こそうとする龍神の化身そのものだった。



 皆が息を飲み、後ずさりする中、アルトは冷静に、エルメナの発言を心の中で反芻した。


「祝福ですか」


「んにゃ。オーラがないにゃぁ」


「そういえばそんなこと言ってましたね⋯⋯」


 祝福を受けたものは誰にでもあるはずのオーラがないと、出会った時に話していた事を思い出す。


 龍を見上げれば、今すぐでも食ってかかりそうな形相で皆を見下ろしている。


 大きな口がゆっくりと開かれる。

 水を固めたような鋭い牙が顕になる。


「去らぬのであれば容赦はしない」


 空気がざわめく。

 その場から上昇気流でも起こるのかと思うほど、地面から冷気が昇って来た。


「みんな私の元に!!」


 アルトの叫びで、全員がアルトを囲うように集まり、盾兵が並んで構えた。


 龍の口から、大量の水が流れる音が響く。

 開かれた口の中で、水がひとつの球体へと形成され始める。


「なんかヤバいのくるぞあれ」


 アネットが身を低くしてアルトに肩を寄せる。

 球体へと変化した水は、その奥が見えるほどに透き通り、神秘性すらも感じさせ、アルトは一瞬見とれかけた。


「即死はさけるにゃぁ」


 全員が身をかがめて龍を注視した。


 龍は点を見上げると、その反動で顔を下ろし、口の中で形成した球体の水を射出した。


「くるぞ!!」


 球体は陽光を浴びて煌めき、青い宝石のような姿をした。

 球体はあっという間でアルト達の頭上までやって来て、盾兵が防ごうと上に向かって構えた。

 水と盾がぶつかり、水が弾けるかと思いきや、そのまま盾を押すように落下し、兵が尻もちをつき、押しつぶされるかと肝を冷やした瞬間、水が弾けた。


「ぐあっ!」


 小石程度の粒になって四散した水が、皆へと襲いかかる。

 全員咄嗟に腕や武器で水を防ぐが、礫を投げられたような痛みがあちこちに襲いかかる。

 アルトの祝福によってすぐに回復したが、その痛みと衝撃は心にたしかに刻み込まれた。


「とりあえず退却するぞ!!」


 グッベルが叫んだ。

 このまま龍と戦おうにも、水深が深い川には近づくこともできず、遠距離攻撃も弓兵数人では心許ない。


「くそっ!」


 弓兵の誰かが反撃とばかりに矢を打ち込む。


「よせっ!」


 と制止する声も虚しく、矢は龍の胴体を捉えて放たれる。

 緩やかな放物線を描いた矢が、龍の清流のような身体に突き刺さるかと思いきや、その身体をすり抜けた。

 水面に落下するように、矢は龍の胴体の中で向きを変え失速し、身体の外へと排出された。


「す、すり抜けた⋯⋯」


 アルトが目を丸くしながら、何度も瞬きをしてすり抜けた箇所を凝視した。

 本当に龍の身体は水そのものなのか、物理攻撃が効かないことが今の一矢で全員理解した。


「さあ、立ち去れ人間ども」


 最後の警告と言わんばかりに、龍から語気が強まり、重低音が発せられた。


「とりあえず逃げるぞ。アルトを中心に一定の距離を保て⋯⋯そして⋯⋯走れ!!」


 グッベルの突然の叫びで、騒然とした集団が一斉に走り出す。


「にゃあああああああっ!!」


 足の早いエルメナは先行して皆を置き去りにしそうになり、祝福の範囲外に出たことを察してペースを落とす。

 ぞろぞろと20人以上の集団が谷の道を戻っていく。

 龍は追ってくる様子も、攻撃してくる様子もない。

 誰かが振り返って後ろを確認してみれば、龍は水の中へ帰ったのか、池は鎮まりかえり、元の景色を成している。


「助かりましたね⋯⋯」


 足を緩めながら、アルトも後ろを確認した。

 ほっと胸を撫で下ろし、先程の龍の姿を頭の中に思い浮かべた。

 

 水そのもので形成されたようでありながら、光の加減か煌く姿も見せた龍は、純粋に美しく、アルトは目を奪われかけた。

 祝福を受けているとエルメナは言っていたが、どのような祝福なのか。

 そもそも、祝福にはどんな種類があるのか、様々なことが頭の中を占めた。


 後退する途中、何度か魔物に襲われたりしたが、それ自体は問題がなく、無事に撃退し、夜も近いということで、倒した魔物の肉を剥ぎ取って夕食のおかずを確保したりし、転がっていた魔物の亡骸をある程度の箇所で集めて燃やし、谷の入口まで戻ってきた。


 グッベルが中心となりながら、兵士達が野営の支度を始める。

 その間、アルト達3人は1箇所に集まっていた。

 アネットは「あの龍をどうにかしなければ解決しないな」と腕を組みながら頭をひねり、エルメナは帰り際に回収したサミーウルフの睾丸を地面に並べて干す支度をしている。

 土がつかないように、わざわざ山の落ち葉を下に敷いている。


 そしてアルトは、龍が受けた祝福のことを今も考えていた。


「あの、エルメナ」


 鼻歌交じりに睾丸を並べる後ろ姿が不気味でもあったが、声をかける。

 エルメナは振り返ると、手を止めて微笑んだ。


「どうしたにゃ?」


「祝福ってどんなのがあるんですか?」


 エルメナは一瞬だけ視線を落とし、くちびるを結んでからアルトを見た。


「⋯⋯どうして私に聞くんだにゃぁ」


「エルメナくらいしか知ってそうな人がいないので」


「ふーむ⋯⋯」


 睾丸を地面に揃え終え、立ち上がりながら首を回す。


「⋯⋯残念だけど種類とかはあんまりよく知らないにゃぁ。力が強くなるとかもあるらしいけどにゃぁ」


 話し出すまで少し間があった。

 なにか考えていたのかと、アルトはエルメナの様子を観察しようとしたが、何も分からなかった。


「じゃああの龍も⋯⋯力が強くなってるとかって可能性もあるんでしょうか」


「あるとは思うけどその可能性は低いにゃぁ」


「それは⋯⋯どうして?」


「あんな身体が水みたいで尚且つ水の弾を撃ってくる龍なんて聞いた事ないのにゃぁ。あれはきっとそっち方面の祝福を受けた龍にゃ」


「水に関する⋯⋯」


 話している間にも、野営の支度は整っていく。

 寝るための小さな黄土色のテントを張り、焚き火の準備をして火をつけ始める。

 輸送兵が運んでいたパンや水を取り出しながら、数人は器を持って川の水を組みに行き、煮沸するために薪のそばに置いた。


 日が暮れる直前、薪に火がつき、淡い光が周辺を包み込んだ。

 日が暮れると、照らされた場所と光の範囲外がくっきりと別れる。

 見える範囲に光の類もない。

 離れたところに小さな集落はあるが、そこからの光が見えない限り、辺りは闇に包まれ、魔物が来ても近くに来るまでは対処できそうにない。

 鍋に水が注がれ、煮沸したものが皆に配られる。

 カップに入った暖かなお湯を両手で持ちながら、アルト達は息で冷ましながらゆっくりと口をつけた。


 ただの水なのに、果実を搾った汁に勝るとも劣らない美味を感じた。

 自分がよほど疲れているのだろうかとアルトは思ったが、精神的に疲労することはあっても、肉体的に疲労したことは祝福を貰って以降1度もなかった。


「なんか水甘くないか?」


 隣で飲んでいたアネットが目を丸くする。


「やっぱりそう思いますか?」


「ああ⋯⋯甘いぞこれ。少し薄い桃みたいだ」


「なんなんでしょうね⋯⋯毒だったりして」


「だとしたらお前から離れられないな」


 と言いつつ、さらにアネットはアルトに肩を寄せた。

 ほんのりとした温もりと柔らかさが伝わり、アルトは座り心地を確かめるように身動ぎした。


「近くないですか」


「いいじゃないかたまには⋯⋯」


 断る理由も思いつかず、アルトはそのまま座り続けた。

 周りからの視線⋯⋯とくにエルメナがからかうような顔で見ているが、見ないふりをした。


「あの龍⋯⋯どうしたらいいんだろうな」


 カップを足元に置き、膝を抱えながらアネットは遠くを見るように前を向いた。


「ここまで来て引き下がるのは悔しいぞ。逃げ帰るのは性にあわん」


「と言いましても⋯⋯戦うとしてももっと人数を用意するか、手練を用意するか、特殊な武器を用意するとかしないと、あの龍に攻撃することすら叶わないきがします」


「特殊な武器? 魔法属性のついた武器とかか? そんなの魔法使いを見つけてくるより難しそうだな」


「魔法使い⋯⋯この国周辺にはいないでしょうね。なにぶん魔物の少ない地域ですから」


「まあ⋯⋯私も攻撃ができる魔法使いなんて2、3人くらいしか見たことないけどな」


「治癒魔法より攻撃魔法の方が特殊ですからね。私は習ったことすらありませんけど、多分できないでしょうし⋯⋯それでいうと、あの水の弾も魔法の1部でしょうか」


 顎に手を当てながら、龍が放った水の弾を思い浮かべる。

 水が空中で球体の形になり、放たれると爆散したように弾け飛び、それが石のような質量を持って襲いかかってきた。


「あれが魔法じゃないなら逆になんだって話だろ。あの水が水に似た何かっていうなら話は別だが」


「水に似たなにか⋯⋯だとするとあの池に繋がってる川から取ったこの水も⋯⋯?」


 アルトは口をぽかんと開けたまま、表情が固まり、皮膚がみるみる青くなった。


「やめてくださいよ。怖いじゃないですか」


「祝福があるんだから大丈夫だろ⋯⋯誰かが範囲から出て体調崩したらすぐに範囲内に入れてやればいい」


「それはそうですが」


 この水になにか恐ろしい秘密があるんじゃないかと考えれば考えるほど、腹部がキュルキュルと痛む気がした。


 病は気からという言葉は、本当にその通りだ実感する。


 考えを変えようと別のことを考えても、水のことが脳内でチラつくと、吐き気が襲いかかり、腹部に違和感を覚える。

 祝福の恩恵があるのだから、本当に腹部が痛いわけでは無いとはわかっていた。


 ただアルトのネガティブな気持ちが、祝福を上回っていた。


「まあまあ、落ち着いてこれでも食べるにゃぁ」


 いつの間にか食事の準備をしていたエルメナが、木のプレートを持って目の前に座る。

 プレートの上には焼かれた肉とパンが置かれ、箸も無造作に転がっていた。


「これ誰が焼いたんです?」


 箸で茶色くなったサミーウルフの肉をつまみながら、エルメナを細目で見つめる。


「心配しなくても私じゃなくて兵隊さんだにゃぁ」


「ならいいです」


 安心してひと口。初めて食べるサミーウルフの肉は、思いのほか柔らかいが、少々獣臭かった。

 それでも、噛む度に旨みが口の中に広がり、塩味も程よいアクセントになって、非常に美味と言えた。


「これ干すともっと美味しいんだけどにゃぁ」


 食事しながらエルメナが呟く。

 エルメナがずっと持っていた網に入った肉は、テントの支柱に括り付けられている。


 肉を噛む度に塩味が喉に流れ込み、少し甘い水で流し込む。

 塩分の高さを気にしながら、食事を進めていると、アルトはひとつの案を思いついた。


「あの池の水の塩分濃度を上げるのはどうでしょう。そうしたらなにか変化が起きるかも」


 自分の案の感触を確かめようと、アネットとエルメナの両者に顔を向けると、ふたりは予想外にも目を細めながら、真顔で見つめていた。


「アルト⋯⋯それはなしだ。神官失格だぞ」


「そんなことしたら生態系が崩れるにゃぁ。神官の               くせに何言ってるんだにゃぁ。アルトは隣人を愛する前にまず自然を敬うにゃぁ」


 ただ何となくその場で思いついたままに、思慮もなく語っただけなのに、思いのほか辛辣な反応が届き、肩を震わせた。

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