深い谷底の花 3
エルメナの怒号に、アルトとアネットが吃驚して肩を震わせた。
エルメナが怒ることなんてあるのかと、ふたりは困惑の色を見せた。
「ちょ!? アルト様!? お願いですから大人しくしといてください」
槍を魔物に構えたまま、グッベルが鬼気迫る顔で汗を滴らせながら振り向く。
アルトは肩を竦め、申し訳なさそうに俯いた。
(やっぱりやらかした⋯⋯)
ガックリと項垂れるアルトに構う暇もなく、皆はもう一度蘇ったサミーウルフと戦い、無事に勝利した。
剣に付着した魔物の血を拭い、アネットは息を整えて鞘に納めた。
「やるにゃぁアネット」
そばで戦っていたエルメナは、魔物の肉を剥ぎ取りながら革袋にしまい込んでいる。
魔物の肉を剥ぐ様子を見下ろしながら、アネットは周辺の山々を確認した。
今は静まり返り、あらたな魔物が出てくる気配はない。
だが、狼が集団で、それも2方向からやってきた事が、不穏な雰囲気を感じさせた。
「どうせ私なんて⋯⋯はいそうですいらない子です⋯⋯だから2回もクビにされたんです⋯⋯」
皆がそれぞれ勝利の余韻に浸っている中、アルトは身体を冷たい川の水に浸らせていた。
浅い川の中で正座し、頭を横に向けて浅い川底へ漬けている。
水が唇の端程度までかかるが、息をするのに支障はない。
「まあ落ち着け⋯⋯ああいうこともあるだろう」
バシャりと水を跳ねさせながら、アネットがアルトの目の前に立ち、腕を組んで見下ろした。
その構図はまるで、土下座する男と男を詰める女のようで、周りの兵士達が騒然とした。
「ほんのちょっと祈っただけなんですよ⋯⋯無事勝てるように⋯⋯」
「いいじゃないか。その方がお前らしい」
「私らしいってなんですか⋯⋯ドジっちゃうのが私ってことですか⋯⋯まあそうですよね。なにせ国の遺跡を修復して逃げてきた身ですから⋯⋯あはは」
(めんどくさい⋯⋯)
溜息をつきながら、アネットはアルトの腕を持ち上げて体を起こした。
「しっかりしろ⋯⋯たしかにいちどは魔物を回復させてしまったが、お前はもう役に立っているぞ」
「へぇ⋯⋯どんなところでですか? 私への怒りを力に変えて倒したとか?」
どこまでもネガティブなアルトにもう一度溜息をつきながら、無理やり立たせて額を指で弾く。
「痛っ」とおでこを抑えながら、アルトは顔を上げた。
「何するんですか⋯⋯」
「よく見ろ⋯⋯あんなに魔物がいたのに誰ひとり傷ついていないし、誰も疲れてる様子すら見せないだろ」
言われて確認すると、確かに皆は戦闘の後というのに平然としていて、既に進む支度を整えている。
「あれはお前のおかげじゃないのか」
「私の⋯⋯」
ぼんやりと兵士達の様子を眺めている背中を叩き、アネットは語気を強めた。
「もう少し自信を持て⋯⋯そもそも、お前の祝福はお前との相性が最悪なだけでそれほど悪いものでもない」
「⋯⋯100年物のビンテージコートを新品同様にしてしまいますが?」
「⋯⋯訂正する。やっぱりお前のそれは使えない」
忘れかけていた宝物を失った喪失感が甦り、アネットはアルトから離れた。
離れる瞬間、アネットの拳は固く握られ、唇を噛む瞬間を、アルトは見逃さなかった。
(ああ⋯⋯ほんとあれに関してはすみません⋯⋯)
────
一行は行軍を再開した。
景色に代わり映えがなく、左右の山と足元の道、右手の川という構造が続き、エルメナは飽きを感じ始めていた。
エルメナの右手には、白い網に包まれた肉が詰め込まれており、肉から肉汁と血が滴り続けている。
エルメナは剥ぎ取ったサミーウルフの身を小さく切り分け、水で洗い、軽く塩を振って網に包んだ。
「これ美味いんだにゃぁ」
あみに包んだ時、持ち上げながらアルトに教えたが、アルトの頭の中は、エルメナの華奢な身体とナイフでどうやってそんなテキパキと肉を解体したのだろうと疑問が残っていた。
「はい。これついでに取った睾丸だにゃ。日干しにして摩り下ろしたら薬になるにゃよ。体力回復するにゃ」
と中々にグロテスクなものを渡されそうになり、アルトは無視して身を翻した。
「残念にゃぁ」
エルメナは手の中にある物を革袋に入れた。
先程の戦闘で良い思いをしたと言えるのは、エルメナくらいだ。
睾丸は売ればそれなりの金になるし、乾燥させた肉は好物でもあった。
退屈になったエルメナは、肉を入れた網をブンブンと振り回し始めた。
網から肉汁が飛び出て、前に後ろにと、兵士達が被害にあった。
「ちょ、やめてください預言者様っ」
戦場でアルトの代弁をしていたせいか、エルメナは預言者と呼ばれるようになっていた。
肉汁が兵士達の服や顔につき、困ったようにエルメナを宥めた。
「あっ、ごめんにゃぁ」
エルメナは慌てて手を止め、言葉では一応謝罪したものの、悪びれる様子はない。
何度かサミーウルフや他の魔物と接敵し、戦闘になった。
飛行する鳥類の魔物も出てきたが、弓兵が難なく退治していた。
アルトは戦いの最中、できる限り何も考えないようにしたり、全く別のことを考えたりしながら、皆のことを祈ったりしないように心がけた。
目を閉じ、川の流れに身を浸す。
徐々に水深が高くなり、最初は足首にかかる程度だった水が、ふくらはぎの中央近くまで浸かるようになっている。
流れは緩くなり、もう時期この川の終わりだと思わせるようだった。
「なんか張り合いなくないかにゃぁ?」お
数回目の戦闘を終え、エルメナが口を開いた。
「たしかに商人とかがここを超えるのは多分無理だけど、ある程度人数連れた軍隊とか冒険者なら余裕じゃないかにゃぁ?」
「確かにそうですね⋯⋯」
グッベルが顎に手を当てながら首を捻った。
「今まで出てきた魔物はどれも低級ですし⋯⋯まあ、商人がサミーウルフに襲われたら一溜りもないですが」
「でしょぉ? これなら戦争中とはいえもっと早く解決出来たんじゃないかにゃぁ?」
「⋯⋯もしかしたら、この山の中にもっと恐ろしいものが潜んでるのでしょうか」
グッベルが山へと目を向ける。
山は木々の擦れる音を奏でるばかりで、不穏な音など聞こえては来ない。
兵士達がソワソワし始め、不穏な空気がこの場から起こりだす。
「というか、上の人間から詳しい話を聞かなかったのか?」
話を聞いていたアネットが、気になって尋ねる。
「残念ながら、急を要していたので、ただ魔物の討伐にいけと命じられただけで」
部隊の中でもっとも位の高いグッベルが申し訳なさそうに答える。
「まず敵を知るのは戦いの基本じゃないのか」
「はぁ⋯⋯もっともです⋯⋯」
アネットに正論を言われ、気まずそうにグッベルは頷いた。
戦争が終わり、この討伐隊は急務で編成されたので、情報伝達が厳密に行われていなかった。
今更それを悔いても仕方がないと、エルメナが空気を入れ替えるように両手を叩いた。
「まあ気にせず行くにゃぁ。こっちにはアルトがついてるんだにゃぁ」
「それもそうだ。俺達には情愛の神アルト様がついてるんだ!!」
兵士の誰かが力強く言った。
グッベルには神と呼ぶなと言ってあったが、他の兵士にはまだ言っていない。
下手に否定すると、戦争終結のアルト達の行動に疑問を抱く人間が出てくるかもしれないから、キルリスでのように身柄を狙われたりしていない以上、下手に否定することは控えられた。
少なくとも、タジストの民や国王は、キルリスの人々のようにアルトを捕えようとなど現状していない。
だからこそ、否定する機会を疑い、今も「神だなんて呼ばないでください」と強めにお願いするくらいしかできなかった。
一行はさらにタニを降りていく。
谷を超えた先にある国は随分と低いところにあるんだと考えながら、薄れかかった轍を追う。
そこが谷底なのか、突然谷が左右へと広がり、川の終着点が現れた。
大きな岩で囲われた池のようなものが現れる。
かなり水深が深いのか、透き通った水でも底が見えてこない。
「海じゃなくて池に繋がってるんですか⋯⋯」
アルトは小石を蹴り、川面を見下ろした。
水面に映し出されるのは自分や皆の姿ばかりで、中の様子は見えてこない。
「かなり深いですね⋯⋯真っ暗で何も見えません」
「ほんとだな⋯⋯もしかしたら地下に水が伝ってるのかもしれん」
隣に来たアネットも一緒になって水面を覗く。
池の中から、ポコポコと泡が浮き上がってくる。
不規則に、徐々に早くなりながら、水面へ浮上してくる。
「なんだ?」
アネットは目を凝らして泡が出ている中央部分を観察するが、泡以外には何も見えてこない。
だが、確実に早くなり、量を増やす泡を、見過ごすこともできない。
アネットは無意識にアルトの身体の前に腕を伸ばし、後退させた。
「っ! 離れるにゃぁ!」
エルメナが危機を察知し、叫んだ。
その直後、水泡が浮かび上がっていた周辺の水面が隆起し、轟音を響かせた。
隆起した水面はあっという間に10メートル近くまで登り、飛沫が全員に飛びかかった。
「何かくるっ!?」
アネットは隆起した水を見上げ、剣に手をかけた。
──帰れ。
どこからか、低い女性のような声がした。
「なんだなんだ!?」
「だれかいるのか!?」
兵士たちが武器を構えて周囲を警戒するが、魔物が近づいてくる気配もなく、いるのは一行だけだ。
──何しに来た。
また声がした。今度は池の方からだとはっきり分かり、全員が池に視線を向けると、先程まで隆起し、噴水のように水が吹き出ていた箇所から、何かが顔を覗かせているのが見えた。
「龍だ」
誰かがそう呟いた。全員が顔を覗かせたそれを見て、同じことを思った。
その頭部は、月光を削り出して造られた彫像のように鋭かった。
額から後方へ伸びる角は、凍てついた枝のようにいくつにも分かれ、冷ややかな蒼白を帯びている。
濡れた白銀の鬣は水そのものが形を得たかのように頭蓋に沿って流れ、ひとしずくごとに淡い光を宿していた。
眼は細く、深海の底に沈んだ燐火のような青を湛えている。その光には激情よりも、長い歳月を川の闇のなかで見つめ続けてきた古い知恵と、触れるだけで突き刺さるような威厳があった。
長く引き締まった鼻梁は刃のように真っ直ぐで、わずかに開いた口辺からのぞく牙は、白波の先端がそのまま結晶したかのように鋭い。ひげは細い水流となって虚空へと揺らめき、青く光る目が、その存在の大きさを示していた。
龍がもう一度言う。
「今帰るのであれば、見逃してやる」
全員が察した。
谷で人を襲っていた魔物はこの龍だと。
だが全員、足がすくんで戦闘準備に入れない。
頭部を見ただけでも、龍の大きさは想像に易い。
そんな大規模生物と、ゴツゴツした岩の地面と、池という足場の悪いフィールドで戦えるのかと、全員が不安になっていた。
そんな緊迫の空気感を切り裂くように、エルメナは高笑いしながら、ナイフを抜いて龍へ切っ先を向けた。
「にゃははは。龍なんて初めて見たにゃぁ!! よぉし! この龍から色々剥ぎ取って金儲けにゃ! さあみんな行くにゃよ!! 私達にはアルトの加護があるにゃ!!」
アルトの加護がある。その一言が皆を安心させたのか、雄叫びを上げながら戦闘態勢に入った。
しかしどうやって戦うのかと、思い悩みながら後ずさると、エルメナがそっとアルトに耳打ちした。
「あの龍⋯⋯祝福受けてるにゃあ」




