8-15
歓喜の波が、サキシマ重工の管制室を支配していた。
叩き交わされるハイタッチの乾いた音、そして、すすり泣き。
七時間という、宇宙の深淵にも等しい沈黙の果てに訪れた奇跡だった。
誰もが涙で滲む視界の先、メインスクリーンに映し出された黄金の船体の雄姿に、神の顕現でも見るかのように喝采を送っていた。
その熱狂の渦の中心で、フライトディレクターは肺の底から空気を絞り出すように長く息を吸い込み、司令官としての冷静さを取り戻そうと努めた。
汗ばんだ手でコンソールを強く握りしめ、自らの高鳴る鼓動を意志の力で鎮める。
彼はヘッドセットのマイクを口元に引き寄せた。
まだそこかしこで続く興奮の残滓を断ち切るように、力強く、明瞭な声で号令をかけた。
「総員、冷静になれ! 歓喜に浸るのはまだ早いぞ! HTV-Y改はまだミッションの途中だ! 全オペレーターは持ち場に戻り、次のフェーズに備えろ! これより月周回ステーションゲートウェイへのドッキングのため、減速シーケンスの準備だ!」
その声は、沸騰した管制室の空気に氷水を浴びせかけたかのように、一瞬で熱を奪い去った。
上気していたクルーたちの顔から血の気が引き、プロフェッショナルという名の仮面が再び装着される。
彼らは慌ただしくそれぞれのコンソールに向き直り、先ほどまでの歓声が嘘であったかのように、タイピングの音だけが再び管制室の空気を満たしていく。
だが、その直後だった。
誰もが予想だにしなかった、第二の衝撃が彼らを襲ったのは。
メインスクリーンに大写しにされたオンボード映像に、信じがたい光景が映し出されたのだ。
船体後方で、生命の炎そのもののように深紅の光を放っていた巨大な「紅の帆」。
まるで燃え盛る恒星から切り取られたプロミネンスのようなその構造体が、何の前触れもなく、その輪郭を失い始めた。
まるで砂糖菓子が熱湯に溶けるように、あるいは風に吹かれた砂の城のように、帆の端から淡い光の粒子となってさらさらとほどけ、霧散していく。
しかし、それは宇宙の真空へと拡散するのではなかった。
無数に分解された真紅の光の粒子は、まるで一個の生命体であるかのように、あるいは強大な磁力に引かれる砂鉄のように、一斉にHTV-Y改の船体表面へと引き寄せられ、その黄金の装甲の隙間へと吸い込まれていく。
それはあたかも、巨人が一度大きく息を吐き出し、そして再び吸い込むかのような、荘厳で、しかしどこか有機的な呼吸を思わせる光景だった。
わずか十数秒後、あれほど圧倒的な存在感を放っていた紅の帆は、一粒の光も残さず、幻であったかのように跡形もなく消え去っていた。
後に残されたのは、深宇宙の闇を映して、再び静謐な輝きを湛える黄金の船体のみ。
管制室は、水を打ったように静まり返った。
先ほどの歓喜の声も、慌ただしいタイピングの音も、誰かの息遣いすらもが真空に吸い取られたかのように消え失せた。
誰もが、目の前のモニターに映し出された超常的な現象に言葉を失い、ただ呆然と立ち尽くしている。
それは、奇跡の生還を喜ぶのとは全く質の異なる、人知を超えた何かを目の当たりにした者の、根源的な畏怖に満ちた沈黙だった。
フライトディレクターが、マイクがオンになっていることも忘れ、かすれた声で呟いた。
「なんなんだ……一体……?」
その問いに、答えられる者は誰もいなかった。
崎島社長は、司令席で腕を組んだまま、微動だにせずスクリーンを見つめている。
その表情からは、驚きも困惑も読み取れない。
ただ、その瞳の奥は、常人には計り知れない深淵を湛え、静まり返っていた。
混乱が支配する管制室の空気を切り裂くように、ナビゲーション担当オペレーターの冷静な、しかしわずかに震えを帯びた声が響いた。
「き、機体、反転シーケンスを開始します」
その言葉通り、HTV-Y改は、月周回軌道上の宇宙ステーション「ゲートウェイ」に船尾を向け、減速態勢に入るための180度ターンを開始した。
だが、その挙動が、管制室の混乱にさらなる拍車をかけた。
通常の宇宙船が姿勢を変える際、RCS(Reaction Control System)と呼ばれる小型のスラスターを断続的に噴射する。
その際には、必ず機体の各所からパルス状の微細な噴射光が閃き、船体全体を揺るがす微振動が観測されるはずだった。
しかし、HTV-Y改には、そのどちらも無かった。
まるで宇宙の物理法則そのものを書き換えたかのように、船体は一切の噴射光を放つことなく、滑らかに、音もなく自転を始めたのだ。
それはまるで、無重力空間へ解き放たれた彫刻が、見えざる手によって回転させられているかのような、完璧で優雅な動きだった。
背景の星々だけが、その異常な機動を証明するかのように、ゆっくりと画面の端へと流れていく。
ナビゲーション担当が、信じられないといった様子で、ほとんど悲鳴に近い声を上げた。
「RCSの噴射記録、ありません! テレメトリ上、全てのバルブは閉鎖されたままです! 慣性モーメントの変化も、シミュレーション上の計算値と全く合わない……! なのに、どうして……それでいて、誤差ゼロの完璧な姿勢制御です!」
それは、現代宇宙工学の常識を根底から覆す現象だった。
推進力なしに、どうやってこの数トンの巨体を、これほど精密に動かしているというのか。
管制室は、未知への畏怖と、専門家としての知的好奇心がないまぜになった、異様な興奮に包まれた。
やがて、完璧な180度ターンを終えたHTV-Y改は、ゲートウェイに船尾を向け、ぴたりと静止した。
フライトディレクターが、我に返ってコールする。
「RCSの起動を確認! 減速噴射、開始!」
今度は、指令通りにHTV-Y改のRCSノズルから、青白い燃焼炎が力強く噴出された。
機体は確かな減速Gを発生させ、テレメトリの数値も正常な範囲で推移している。
クルーたちの間に、ようやく理解可能な現象が起きたことへの安堵の空気が流れた。
しかし、その中で、翔太と涼子だけが、自分たちのコンソールに表示されたデータを見て、新たな違和感に気づいていた。
「翔太さん……燃料消費量を見て」
涼子が、囁くような小声で隣の翔太に告げる。
翔太は、涼子に促されるまでもなく、その一点を注視していた。
表示されている燃料消費量を示すグラフの傾きが、異常なほど緩やかだった。
シミュレーションで予測された数値の、70パーセントにも満たないのだ。
これほどの減速噴射を行いながら、あり得ないほどの低燃費。
まるで、目に見えない何かが、エンジンの働きを背後から助けているかのようだ。
その時、翔太がかけているARグラスの視界の隅に、彼にしか見えない半透明のウィンドウがポップアップし、青い光の文字が流れた。
アーベルからのメッセージだった。
『ナノマシンによる慣性制御とRCS噴射を同期。船体全体の運動エネルギーを能動的に抑制し、エネルギー効率を最適化しました。消費燃料は最小限です。残りの燃料は、この先の不測の事態に備え、温存します』
翔太は息をのんだ。
紅の帆が分解され、船体に吸収されたのは、このためだったのだ。
あの帆は、単なる推進器ではない。
無数のナノマシンで構成され、形態を自在に変化させる運動・慣性制御装置でもあったのだ。
そしてアーベルは、そのナノマシンを使い、まるで魔法のように機体の慣性をコントロールし、さらに先の危機まで予測して燃料を温存するという、神業のような航行術を披露してみせたのだ。
さすがは、銀河文明の宇宙船のコアである。
状況を判断し、未来を予測し、最善手を選択する。極めてクレバーで、信頼に足る「航行士」そのものだ。
翔太は、未知のテクノロジーへの畏怖と、それを手にしたことによる万能感がないまぜになった、戦慄にも似た感動を覚えていた。
HTV-Y改は、順調に減速を続け、ゲートウェイへの最終アプローチ軌道に乗った。
管制室の空気も、ようやく落ち着きを取り戻し、安堵ムードが漂い始めていた。
誰もが、あと数時間でこの長く困難なミッションが終わると信じかけていた、その時だった。
突如、管制室全体に、鼓膜を突き破り、脳髄を直接かき乱すような甲高い警報音が鳴り響いた。
全てのモニターが一斉に赤く点滅し、危機を告げる。
「デブリ! 高速接近物、多数! 月周回軌道上のデブリ群です!」
レーダー担当のオペレーターが、裏返った声で叫んだ。
「予測されていた軌道に存在するデブリが、遥かに高密度です! なぜだ、こんな観測データは無かったぞ!」
メインスクリーンが、レーダー画面に切り替わる。そこには、絶望的な光景が広がっていた。
無数の小さな光点が、まるで吹雪のように画面を埋め尽くし、HTV-Y改の予測進路上に、分厚い壁となって立ちはだかっている。
拳大の金属片から、小型バスほどの岩塊まで。
その一つ一つが、相対速度、秒速数キロメートルという、常軌を逸したスピードで迫ってくる。
それは、もはや銃弾の弾幕などという生易しいものではない。回避不能の、死の嵐だった。
「回避行動、間に合いません!」
別のオペレーターの悲鳴が、管制室に木霊した。
翔太は、目の前のスクリーンに映る死の弾幕を睨みつけ、ぐっと唇を噛みしめた。
アーベルのナノマシンは小口径の銃弾を防ぐ程度の能力しかないはずだ。
レーダーで捉えられるサイズのデブリに耐えられるわけがない……。
鉄錆のような、乾いた絶望の味が口の中に広がった。
ここまで来て、これだけの奇跡を乗り越えてきて、最後の最後で、運に見放されたというのか。
彼の脳裏に、「喪失」という最悪の二文字が、赤く点滅するモニターの光に重なって浮かび上がっていた。




