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絶望が、音を立てて管制室の空気を満たしていく。
オペレーターは、もはや報告という体をなさず、ただ裏返った声で「あああ、当たっちまう!」と繰り返すだけだった。
メインスクリーンに映し出されたレーダー映像は、死の吹雪そのものだった。
無数の光点が、HTV-Y改という一点の灯火を飲み込もうとする、宇宙の猛威。
それはもはや、回避という概念が存在しうる密度ではなかった。
「なんとかしろ!RCSで……いや!」
「ダメです! 機体からの応答ありません」
フライトディレクターの絶叫が、張り詰めた空気を震わせた。
誰もがコンソールに身を固くし、目を固く閉じる。
数秒後、黄金の船体が無数の凶器に穿たれ、無残に砕け散る光景を幻視していた。
ここまでか。
奇跡に次ぐ奇跡の果てに待っていたのが、こんなにも無慈悲な結末だというのか。
翔太は、鉄錆の味がする口の中で、ぐっと奥歯を噛みしめた。
その、瞬間だった。
オンボードカメラの映像が、信じられない挙動を捉えた。
衝突まで、あとコンマ数秒。
HTV-Y改は、何の予兆もなく、まるで重力という鎖から解き放たれたかのように、滑るように横へとスライドした。
スラスター噴射の閃光はない。
機体を揺るがす振動もない。
物理法則を無視した、ありえない三次元機動。
それは、本来のHTV-Y改の動きではない。
迫り来るデブリの壁、その僅かな隙間を縫うように、船体は自らをしなやかにひねる。
まるで巨大な鯨が水の流れに乗るように。
あるいは、熟練のバレエダンサーが舞台を舞うように。
最小限の、しかし計算され尽くした動きで、死の弾丸と弾丸の間をすり抜けていく。
「な……」
誰かが、息を呑む音を立てた。
閉じていた目を開けたオペレーターたちが、目の前の光景に言葉を失う。
スクリーンの中では、神業がリアルタイムで繰り広げられていた。
船体のすぐ脇を、小型車ほどの岩塊が轟音なきままに通り過ぎていく。
その表面のクレーターまでが見えるほどの至近距離。
カメラのレンズが捉える背景の星々は、万華鏡のように目まぐるしく回転し、船体がどれほど複雑かつ高速な回避運動を行っているかを物語っていた。
しかし、全てを避けきれるわけではない。
レーダーが捉えきれない、砂粒からパチンコ玉ほどのマイクロデブリの群れは、無慈悲なシャワーとなって船体に降り注いでいた。
だが、船体に穿たれるはずの傷は、どこにも見えなかった。
その代わり、HTV-Y改の黄金の船体表面が、衝突の瞬間に淡い真紅の光を発するのだ。
まるで薄い血の膜が機体を覆っているかのように、デブリが接触した箇所が一瞬だけ赤く輝き、その衝撃を霧散させていく。
翔太はハッとした。
彼のARグラスには、新たなメッセージが明滅していた。
『船体表面に展開したナノマシン装甲が、運動エネルギー変換バリアとして機能しています。衝突エネルギーを熱、光に変換し、船殻全体に拡散・放出。主要システムの防護を継続します』
あの紅の帆は、推進器であり、慣性制御装置であり、そして今、船体を守る鎧となったのだ。
アーベルは、このデブリの嵐すら予測し、備えていた。
オンボードカメラの映像は、もはや現実とは思えなかった。
高速で飛ぶ猛禽が、鬱蒼とした森の木々を一本一本見切り、翼をかすめながら突き進むかのようだ。
死の障害物競走。
そのあまりにも有機的で、生命の輝きすら感じさせる動きに、管制室の誰もが魂を奪われていた。
それは、人類の叡智の結晶である宇宙船が見せる挙動では断じてなく、遥か高次元の知性が奏でる、宇宙の舞踊だった。
永遠にも思えた数十秒後。
まるで悪夢から覚めたかのように、船体を取り巻いていたデブリの嵐が、嘘のように晴れた。
最後の岩塊がカメラの脇を通り過ぎ、その向こうに、静かな月と、目的地である宇宙ステーション「ゲートウェイ」の姿が現れる。
HTV-Y改は、デブリ群を完全に突破していた。
船体表面には、微かな擦り傷一つない。
黄金の装甲は、まるで何事もなかったかのように、星々の光を穏やかに反射しているだけだった。
しん、と静まり返った管制室。
フライトディレクターはマイクを握りしめたまま硬直し、ナビゲーション担当は自らのコンソールの数値を何度も見返している。
やがて、誰かがぽつりと呟いた。
「……信じられない……」
その一言が、その場にいる全員の心を代弁していた。
デブリ回避という超絶技巧の後、HTV-Y改は、まるでそれまでの激しい動きが幻であったかのように、ピタリと動きを止めた。
その機首は、ゲートウェイの主要モジュール「HALO」のドッキングポートに対し、一ミリの狂いもなく、完璧な相対位置で静止していた。
フライトディレクターが、我に返って震える声で指示を出す。
「最終……アプローチを開始。RCSによる微調整を……」
「……フライトディレクター。その必要は、ありません」
ナビゲーション担当が、どこか夢見るような声で遮った。
「機体は、すでに完璧なドッキングコース上にあります。一切の補正、不要です」
その言葉通り、HTV-Y改は再び、音もなく滑るように前進を開始した。
通常であれば、RCSの断続的な噴射で何度も位置を微調整しながら、慎重に距離を詰めていく、最も神経を使うフェーズ。
しかし、HTV-Y改には、その一切の無駄がなかった。
まるで目に見えないレールが敷かれているかのように、一直線に、そして荘厳なほど静かに、ゲートウェイのドッキングポートへと吸い寄せられていく。
船体先端のドッキング機構が、ゲートウェイのポートに触れる。
オンボードカメラが捉える映像が、わずかに振動した。
そして。
カシャン。
静かだが、鋼のように確かな金属音。
ハードキャプチャー・ラッチが噛み合ったそのロック音が、管制室のスピーカーからはっきりと響き渡った。
次の瞬間、メインスクリーンに、目に鮮やかな緑色の力強いゴシック体の文字が表示された。
[ DOCKING COMPLETE ]
一瞬の沈黙。
そして、今度こそ、誰一人疑うことのない、心からの歓喜が爆発した。
それは、先の奇跡の生還とは質の違う、長く困難な任務を完遂した者たちだけが分かち合える、深く、そして温かい感情の奔流だった。
椅子から立ち上がって抱き合う者、天を仰いで感謝の祈りを捧げる者、ただ静かに涙を流す者。長く、長く続く歓声と拍手が、サキシマ重工の管制室を祝福の光で満たしていった。
司令席の崎島社長は、その光景を満足げに見つめながら、深く一度頷いた。
彼は立ち上がると、クルーたちに向かって穏やかな声で言った。
「皆、ご苦労だった。君たちの働きは、サキシマ重工の、いや、人類の歴史に刻まれるだろう。心から感謝する」
労いの言葉に、クルーたちの顔が誇らしげに輝く。
しかし、崎島の視線はすぐに彼らを通り越し、翔太と涼子、そしてメインスクリーンに映るゲートウェイとHTV-Y改の荘厳な結合体へと向けられていた。
その瞳の奥には、安堵とは異なる、次なる局面を見据える光が宿っている。
まるで、本当の戦いはこれからだと知っているかのように。
その時だった。
管制室のメインスピーカーから、ノイズ混じりの通信が入った。
『こちらゲートウェイ代表、エリック・マーティンだ。ドッキングを確認した。管制室、聞こえるか』
フライトディレクターが、慌ててマイクを握る。
「こちらサキシマ重工管制室。感度良好です、代表。HTV-Y改は、これよりエアロック開放の準備に入ります」
『ああ、感謝する。本当に……よく来てくれた、サキシマ。君たちの船を、そして“希望”を、我々は信じて待っていた』
エリックの静かだが力強い声には、深い安堵と感謝が滲んでいた。
しかし、彼はすぐに言葉を継いだ。
その声には、先ほどとは違う、切迫した響きが混じっていた。
『しかし、まだ問題が残っている。この事故で、二人のクルーが脱出艇のオリオン宇宙船に取り残されているんだ。生命維持は限界に近い。彼らの救出が、我々の最優先事項だ』
管制室の歓喜の空気が、再び引き締まる。
誰もが、このHTV-Y改のミッションに更なる困難が襲い掛かったことを自覚した。
翔太は、固唾をのんでスピーカーから流れる声に耳を澄ませていた。
涼子も隣で、緊張した面持ちでスクリーンを見つめている。
デブリの嵐を抜け、完璧なドッキングを成し遂げたアーベルとHTV-Y改。
だが、それは壮大な救出作戦の、ほんの序章に過ぎなかった。
取り残された二人のクルー。
限界に近い生命維持装置。
本当の戦いは、ここから始まる。
翔太は、ARグラスの向こうに映る、ゲートウェイと固く結ばれた黄金の船体を見据えた。彼の心の中で、新たな決意の炎が、静かに、しかし力強く燃え上がっていた。




