第96話 下北沢
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十一月五日。
千尋は下北沢に行った。
新宿から小田急線に乗りかえ、家から一時間二十分程度かかった。
同行するのはあおいとめぐみ。
今日は下北沢「ELLIOTT」にて高柳有理栖のバンド「さなりす」のライブがあるのだ。
聖愛学園の学園祭は二週間後の土曜日だ。期限が迫るが未だ作曲はできていない。有理栖と共に舞台に上がり、自分の曲を歌うのはとても無理だが、強情な彼女はそれを許してくれないだろうと千尋は思う。
強引に舞台に上げられて、恥ずかしい思いをするのは目に見えている。逃げることはできない。高柳有理栖はマイペースで自己中心的。カリスマ性もあるが、他人へ遠慮をしない傍若無人でもある。
彼女が決めたことは否定できないし、自分の弱い心では拒絶もできない、と千尋は仕方なしに歌う決意を固めていた。
ライブは十八時から。さなりすのワンマンライブである。ライブには有理栖から招待をされた。チケット代千円は浮いた。「作曲のヒントになったらいいね」とは有理栖は言わない。「あたしのライブ見に来てよ! 絶対カッコイイから!」としか言われていないが、そこに彼女なりの優しさがあるように千尋は思っていた。
ライブハウスは下北沢から新代田駅の方へ歩いて十分ほどの距離にある。
十七時三十分。
下北沢駅西口で降りた千尋たち三人は、狭い路地を歩きながらELLIOTTへ向かう。十一月の風が頬をくすぐる。パーカー、MA-1、短いスカートを履いためぐみ。清楚なブラウスに厚手のロングカーディガンを着たあおいに挟まれるのは、子供用のダウンジァケットを羽織る少年である。
夕焼けが西に沈んでいく。太陽が薄紅色の影とコントラストを試みて、世界を塗りかえる。
少し寂れた路地裏の飲食店から、香ばしい匂いと声が聞こえる。
知らない街はいつでも恐い。隣にあおいやめぐみが居なければ来ることはできない。
郷愁を誘う風に身を任せると、十分があっという間に感じた。ライブハウス「ELLIOTT」に到着する。三階建てビルの地下一階。ポスカで書かれた「18:00~ ONE MAN LIVE~さなりす」の案内がお洒落に感じる。「SOLD-OUT」の文字は、ポケットのチケットに少しだけ優越感を溢す。無骨な入り口には華やかな花びらも電光もなく、オフィスビルの入り口のように日常に溶け込んでいる。駅前から少し離れた世田谷の住宅地に、歩く人の声は空にカラフルな雪を降らせる。
「ライブハウスなんて……、私、初めて来たかも」
「え~? あおちゃんそーなんだ~?」
「音楽とか……、あんまり興味ないし」
「確かに……、あはは……、あおちゃんはそ~ゆ~イメージかも」
「千尋は来たことあるの?」
「……、あるよ」
「え? あるの?」
「う……、うん」
「いつ? 誰と? そんなこと私知らないわ」
「そりゃ……言ってないし、知らないよ」
「誰と来たの? いつ?」
「結構前だよ……、その……、去年……、琴音先生と」
「え? ちーちゃんせんせーとデートしたの?」
「デートじゃないよ。その……、仕事の取材だとかなんだとか……」
「取材~?」
「なんか気になる男の子がいたんだって。あ、精神科医としてね」
「どういうこと? 千尋」
「先生の……、患者さんが示し合わせたように名前を挙げるアーティストがいたんだってさ。なにか特別なものを持ってるんじゃないかって気になって……、ライブに行くことにしたんだと。僕はその付き添いだよ」
「どこのライブハウス?」
「新宿」
「へぇ~、私全然知らなかった。先生も話してくれなかった」
「ま、取材だし、言うことでもないんじゃないの」
「でも千尋は言わなきゃだめじゃない」
「……?」
「千尋は私のものなんだから、千尋の人生のことは全部私に話さないとだめでしょ? そういう約束じゃない」
「どういう約束だ」
「隷属の約束」
「僕はあおいちゃんのもの……」
「そっ。あおい教の信者でしょ? 教祖は私で、私を神として崇める新興宗教。信者は私に全てを捧げるの。代わりに私が守ったげる。だって神様だもんね」
「さすが新興宗教のサラブレットだよ……、あおいちゃんは」
「ね! それってあたしも入信できるかな~?」
「うん。女でも男でも大丈夫よ。傷名の会……、あおい教は誰でも歓迎する」
「やった~! じゃああたしもあおちゃんを崇める!」
「ありがとう、めぐみちゃん」
「なんだこの……、意味不明な会話は……」
淡々と紡がれた会話に千尋は呆れた顔をする。
新興宗教の意味をめぐみは知らないし、軽いノリで話している。あおいの表情は人形のように整っていて、微塵も動かない。
「私ね、宗教を始めようと思ってるの」
それが本気なのか冗談なのか千尋には相変わらずハッキリとは見抜けない。だが、過去から逃げず立ち向かおうとするあおいの人生観から推測するに、どうにも本気のような気がしていた。
千尋たちは階段を降りて店内に入る。エントランスは二〇畳ほどの広さに、ソファや四人掛けテーブルが置かれている。コンクリート打ちっぱなしの壁面にはライブの告知やバンドの紹介などのチラシが所狭しと張られている。安らかなハワイアンミュージックは薄暗い北欧風の照明には不釣り合いだが、異空間を感じさせる演出としては上手だと千尋は思った。
受付でチケットを見せ会場内へ入った。
時刻は一七時四五分。
最大百人程度の小さなライブハウスに、ぎっしりと詰まった人の波に千尋は飲み込まれそうになる。埃臭い空気に密集した熱気や人間の生命力が、千尋をおかしくする。人は苦手だ。PTSDの原因となる。最近はそれが共感覚と混ざり合って、多士済々な虹色の幻覚を見せる。
人生で二度目のライブハウス。前回来た時は三倍は大きい会場だったし、薬をたくさん飲んでいたせいか、ぼんやりとしていた記憶がある。だが千尋は、数分後、はっきりと自覚する。
「私、恵那ちゃんの気持ち、わかるの」
「……?」
「生きづらい私たちがね、生きやすい場所を作りたいっていう気持ち、きっと千尋にだってわかると思う」
「まあ……、うん」
「あたしもわかるよ~」
「琴音先生がしてくれていることだって、まさしくそうじゃないの。千尋たちに居場所をくれる。恵那ちゃんもね、方法は違えど、目的は同じなんだと思うの」
「だから……、あおいちゃんも宗教を始める?」
「私はね、先生みたいになりたいの。前も言ったでしょ? でもね、才能は人それぞれ違うと思うの。先生は勉強の才能があって精神科医になったけど……、じゃああたしにはどんな才能があるかって考えたら……、天性のカリスマ性なんじゃないかって、思うの」
「……まぁ、自分で言うのもどうかと思うけど……、うん」
「あおちゃんはかわい~からね~」
「ほら、私美人だし魅力的だし頭もいいし、なんていうか……、そこにいるだけで人を惹きつけちゃうオーラがあるでしょう? やっぱりそれって、環境が作った才能だと思うの」
「……まぁ、うん。否定はしないけど」
「うんうん。だからぁ……、先生みたいに居場所を作れる人になるにはね、必ずしも同じ道を歩まなくてもいいんじゃないかって、思ったり」
「まぁ……、好きに……、やればいいと……、思うよ」
「てきとー。だめ」
「真面目に答えてる!」
「じゃあ千尋は、どうしたいの?」
「え?」
「千尋はどうなりたいの? どう生きたいの?」
「え……、僕は……」
「先生はね、きっと千尋に自分を見つけて欲しいんだよ。千尋は、……、まだ生まれてない。自分がないんだよ。だから体も大きくならないし、トラウマに蝕まれている。先生だってよく言ってるでしょ? 成長できるほど成熟してないって。だから子供のままなんだって。千尋はね、自分の生きる道、自分らしさっていうのを見つけていかないといけないんだ」
薄暗いライブハウスの空気は、熱気と誇りが混ざり合って百色が彩る。声と声がかなりあったざわめきは、どんな内容にも聞こえる不思議な音色をしている。共感覚が見せる幻の虹は、空に舞いあがって雪になる。
あおいの言葉に千尋はハッとする。そうだ。僕は見つけていかないといけない。自分だけの道を。そしてそこに繋がる一筋の光が、ここにあるような気がしている。
今日はそのためにきた。
高柳有理栖という光を見に。




