第六話「白銀」
何が、起きているのか、わからなかった。
リナの目には、白銀の何かが映っていた。
巨人だ。
鋼鉄の鎧に身を包んだ、二メートル五十センチを超える白銀の巨人。
背中には鋼鉄の翼が広がっている。重力を無視して、魔力の光を纏いながら宙に浮いている。あんな鎧、見たことがない。あんな魔法も、聞いたことがない。
「機動鎧武者」
「シルバー・フィスト」
聞き覚えのない名前だった。
聞き覚えのない、けれど——
——今、確かに、名乗ったわ。
リナは、それだけを認識した。
メイファの肩に伸びた山賊の手が、まだ止まっている。山賊本人が、固まっている。誰も動けなかった。
シルバー・フィストは、右手を伸ばし、
その指先で、メイファの近くにいた山賊を、軽く弾いた。
ただ、軽く、弾いた。
それだけだった。
山賊が、消えた。
正確には、視界から消えた。次の瞬間、廃村の外壁に山賊が叩きつけられる音がした。壁が、砕けた。
「っ——」
リナは、声にならない声を漏らした。
指先で、弾いただけ。
それだけで人が馬鹿みたいに吹っ飛んだ。
「次」
低い声が、廃村に響いた。
シルバー・フィストの周囲を取り囲んでいた山賊たちが、後退した。
逃げなかった。逃げられなかったのだ。逃げる、という発想が、頭から消し飛んでいた。
「リ、リナ様……っ」
メイファが震える声で呟いた。
エルネは、何も言わなかった。
ただ、その目だけが、白銀の巨人を凝視していた。瞬きすら忘れたように。
シルバー・フィストが山賊たちへ一歩近づく。
地面が、揺れた。
漂うオーラ、暴力的なまでの魔力の奔流、とても人間とは思えない。
とんでもない迫力だ。
——化け物。
いえ、違う。
そんな言葉じゃ、足りない。
最初に動いたのは、剣士の山賊だった。
恐怖を振り払うように、雄叫びを上げて突進してきた。
「うおおおおお!!」
剣が、シルバー・フィストの胸に向かって突き出された。鋭い突きだった。並の鎧なら、貫かれる。
シルバー・フィストは、避けなかった。
剣が、白銀の胸甲に当たった。
カキィン。
軽い、金属音がした。
剣が、折れていた。
折れた剣を握ったまま、呆然と立ち尽くす山賊。その鼻先に、シルバー・フィストの拳がきていた。
ドンッ。
山賊が、廃村の入口まで吹き飛んだ。木製の門柱が、衝撃で揺れた。
リナは、息を呑んだ。
——剣が、折れた。
受けただけで、剣が折れた。
そんなこと、ありえない。
二人目。槍使いだった。
シルバー・フィストの背後から、低い姿勢で槍を突き出してくる。鎧の隙間を狙った、熟練の動きだった。
シルバー・フィストは、振り向かなかった。
翼の一枚が、ふわりと動いた。
ただ、それだけだった。
鋼鉄の翼が槍の穂先を弾き、軌道を逸らす。槍使いが体勢を崩したところに、シルバー・フィストの翼がもう一枚、軽く撫でるように動いた。
山賊が、紙のように吹き飛んだ。
「翼が——武器、だっていうの?」
リナは目を見開いた。
翼は飛ぶためだけのものではなかった。あれは、それ自体が鋼鉄の凶器だった。
三人目、四人目、五人目が、横並びで突撃してきた。
斧、剣、棍棒。
シルバー・フィストは、一歩踏み出した。
そして——指で、弾いた。
人差し指で、中央の剣士の額を。
ピンッ、と軽い音がした。
剣士が、廃村の壁まで一直線に吹き飛んだ。
残った二人が、その光景に固まった。
シルバー・フィストの両手が動いた。
左右の山賊の襟首を、それぞれ掴んだ。
そして、頭上で、ぶつけた。
ゴンッ、と鈍い音がして、二人が同時に気を失った。
シルバー・フィストは、二人を地面に放った。
「指で……指、一本で……」
リナの口が、震えた。
あの剣士は、今、人差し指の弾きで吹き飛ばされた。
人差し指で。
あれは、人間の所業ではない。
リナは、自分の目で、その動きを分析しようとしていた。
無駄がない。一つの動作が、次の動作の予備動作になっている。
完璧な体捌き。
——あれは、何年積み重ねたら、ああなるの。
メイファが、震える声で呟いた。
「お、お嬢様、あれは……あれは——」
「メイファ、よく見ていた方がいい」
エルネが、低い声で言った。
エルネの目は、まだシルバー・フィストを追っていた。
「エルネ……?」
「あれは、私が知る、どの戦士の動きとも違う」
エルネは、息を呑んだ。
「私の父は、王国でも有数の魔法戦士。その父の動きを、子供の頃から見てきた。あの白銀の騎士は…父より、強い。父より、速い」
——え?
リナが、侍女兼護衛のエルネを見た。
エルネの父は、王国でも指折りの実力者だ。リナも何度か、屋敷で稽古をつけてもらったことがある。あれより強いというのは——
ありえない。
だが、しかし。
目の前で、起きている。
山賊たちが、囲もうと動いた。
七人。八人。九人。
四方から、シルバー・フィストに殺到する。
シルバー・フィストは、両腕を広げた。
そして——翼が、光る!
リナの視界が、一瞬、白銀に染まった。
次の瞬間、シルバー・フィストの姿が、消えていた!
「——え?」
リナは、空を見上げた。
シルバー・フィストは、空中にいた!
鋼鉄の翼を広げ、宙に浮いていた。地上五メートル。山賊たちの頭上、囲みの真上だ。
「上だ!!」
「弓だ、弓を持って——」
遅い!!
シルバー・フィストが、急降下した。
翼を畳み、地面に向かって落下する。白銀の巨体が、まるで隕石のように、山賊たちの中央に降ってきた。
ドゴォォォォン!!!!
地面が爆ぜた!
衝撃波が円形に広がり、山賊七人が一瞬で吹き飛ぶ!!
リナの足元まで、衝撃の余波が届いた。
その凄まじい威力に無意識に体が震えた。
「な——」
リナの口が、開きっぱなしになっていた。
衝撃の中心に、白銀の巨人が立っていた。
膝を軽く曲げた、着地の体勢のまま。
そこから、すぐに動き出した。
近くにいた山賊を、片手で頭上高く放り投げる。
そのまま、別の山賊の腹に拳を打ち込む。
その山賊が吹き飛んだ瞬間——
頭上から、最初に投げた山賊が落ちてきた。
シルバー・フィストは、落ちてきた山賊を片手で受け止め、そのまま別の山賊の集団に向かって、投げ放った。
三人、四人とまとめて巻き込まれ、地面に転がる。
その動きの最中、別の山賊が背後から斧を振り下ろしてきた。
シルバー・フィストは、見もしなかった。
軽く、踵だけで、後ろを蹴った。
軽い、本当に軽い動作だった。
だが、山賊は廃村の屋根を突き破り、空中で姿勢を崩しながら別の家屋の屋根に叩きつけられた。
リナの目には、シルバー・フィストの動きが踊りのように見えた。
投げて、殴って、受け止めて、投げて、蹴る。
すべての動きが、流れるように繋がっている。
戦闘ではなかった。
演舞だった。
「あれは人間にできる動きじゃない……。威力だって、おかしいとしか言いようがない……!」
エルネが、呆然と呟いた。
メイファは、もう声も出ない。
リナは、目を細めた。
白銀の騎士が齎したのはただの蹂躙ではなかった。
シルバー・フィストの動きには、奇妙なほどの節度があった。一人を殴る力。それは、その一人を制圧するのに必要な、ぎりぎりの力。それ以上でも、それ以下でもない。
殺さない。
だが、確実に、戦闘不能にする。
殺さないように、加減しているのだ。
この圧倒的な力で、加減している。
リナは、ぞっとした。
加減できるということは、本気を出していないということだ。
——本気を出したら、どうなるの。
リナには想像が、できなかった。
ついにヴァルフが、動いた。
「——おおおおおおッ!!」
部下たちの惨状を見て、頭目自らが立ち上がった。大斧を両手で握り、シルバー・フィストに向かって突進する。
リナは、息を呑んだ。
ヴァルフ。
リナの剣を、片手で軽々と受け止めた男。リナを廃村の壁まで吹き飛ばした男。あの大斧の重さを、リナは肌で知っていた。
あの大斧は、本物の脅威。
シルバー・フィストでも、簡単には——
ヴァルフが、大斧を振り上げた。
それだけで、空気が唸った。
「死ねッ!!」
大斧が、シルバー・フィストの左肩めがけて振り下ろされた。
シルバー・フィストは、避ける素振りを一切見せなかった。
そして――大斧が直撃する!!
ガキィィィィン!!!!
金属同士がぶつかり合う、凄まじい音が廃村に響き渡った!
リナは、目を見開いた。
——音が、違った。
リナがヴァルフの斧を受けた時とは、まったく違う音。鋼鉄と鋼鉄、最硬の金属同士が衝突したような、そんな音だ。
刃が、止まっている!
ヴァルフの大斧の刃が、シルバー・フィストの左肩装甲に当たって、そこで完全に弾かれていた。
鎧には、傷一つついていなかった。
ヴァルフが、力を込めた。
それでも、斧は一ミリも動かなかった。鎧の表面で、刃が完全に止まったまま、ぴくりとも動かない。
「な——」
ヴァルフの目が、見開かれた。
「なんだ、貴様は」
ヴァルフの声が、震えていた。
シルバー・フィストは、答えなかった。
ただ、止まったままの斧を、右手で掴んだ。
そのまま、ヴァルフの胸ぐらを左手で掴み、持ち上げた。
「——っ!?」
ヴァルフの巨体が、宙に浮いた。斧が地面に落ちる。
「お、おろせ……っ!!」
ヴァルフは両手で、力の限り暴れた。だが、びくともしない。
「離せッ!! 離さんかッ!!」
空中で、ヴァルフが両足をばたつかせた。
「お望み通り、離してやろう」
「なんーーへっ!?」
直立状態だったシルバー・フィストは上へヴァルフを投げ出して、それと同時に右拳を握りしめ、大きく振りかぶった!
――そして!
シルバー・フィストの右拳が、目に見えないほどの速さでヴァルフの腹に叩き込まれた!!
ドゴォォォォン!!!!
ヴァルフが、吹き飛んだ。
廃村の外壁に激突した。外壁が崩れた。ヴァルフがその瓦礫の中に沈んだ。動かなくなった。
リナは、息を吐くのを忘れていた。
——ヴァルフが。
あのヴァルフが。
瞬殺、された。
——たった、一発で。
メイファが、口を覆った。
エルネが、長く息を吐いた。
シルバー・フィストが振り返った。
目が、光る!
残りの山賊たち二十人は、まだ立っていた。
全員が、震えていた。
「——に、逃げろおおおおおお!!」
絶叫だった。
「逃がさん」
シルバー・フィストの声は、静かだった。
翼が光った。地面を蹴った。
リナの目には、もはや動きが追えなかった。ただ、白銀の影が空中を駆けたかと思うと、次の瞬間には山賊の前に降り立っていた。
殴る。蹴る。投げる。叩きつける。
数秒後、逃げた山賊全員が地面に転がっていた。
全員、生きている。
——生きている。
リナはその事実に、改めて気づいた。
この強さで、この圧倒的な力で、それでも殺していない。
——どういう、こと?
シルバー・フィストが、ゆっくりと振り返った。
リナたちの方を見た。
リナの心臓が、跳ねた。
兜に着けられたマスクの奥は、見えなかった。表情も、目も、何も見えない。だが、確かに、見られていた。
巨大な白銀の騎士が、ゆっくりと近づいてくる。
シルバー・フィストが、リナの前に立った。
巨大な影が、リナを覆った。
リナは、見上げた。
近くで見ると、改めてその大きさがわかった。リナの座高の、二倍以上ある。鋼鉄の鎧の隅々まで、職人芸のような精密さで作られている。だがこの世界に、こんな鎧を作れる職人はいない。鎧そのものが、魔法の産物だった。
シルバー・フィストが、口を開いた。
「無事か」
声が、低い。腹に響く。
リナは、答えられなかった。
声が、出なかった。
シルバー・フィストは、リナの返事を待たなかった。
リナの腕に伸ばされた手は、信じられないほど優しかった。革鎧越しに、リナの体が、ふわりと持ち上げられる。
リナが、自分の足で立っていた。
支えられていた、と言うべきだろうか。シルバー・フィストの指先が、リナの肘に添えられているだけだ。だがその指先一つで、リナの体は完全に安定していた。
「——あ、ありがとう」
リナの口から、それだけが漏れた。
シルバー・フィストは答えなかった。
ただ、メイファとエルネの方も見た。
二人とも、もう山賊からは解放されていた。メイファが震えながら立ち上がり、エルネがそれを支えていた。
「お、お嬢様……っ」
メイファが、リナに駆け寄ろうとした。だが膝が震えて、上手く歩けなかった。
「メイファ、無理しないで」
エルネが、メイファを抱き止めた。エルネ自身も、声が震えていた。
シルバー・フィストは、三人を見た。
そして、踵を返した。
そのまま、廃村を出ようとしていた。
「ま、待って——」
リナが、声を絞り出した。
シルバー・フィストの足が、止まった。
「あ、あなたは——」
リナは何かを聞きたかった。
何者なのか。なぜ助けてくれたのか。シルバー・フィストとは何なのか。あの鎧は、あの翼は、あの強さは、いったい——
聞きたいことが多すぎて、言葉にならなかった。
シルバー・フィストは、振り返らなかった。
ただ、低い声で、一言だけ言った。
「悪を砕いた。……それだけだ」
そして、歩き出した。
廃村を出ていく。
森の方へ、白銀の巨人が遠ざかっていく。
その背中を、リナは見送った。
メイファも、エルネも、見送った。
やがて、シルバー・フィストの姿が、森の影に消えた。
光が、消えた。
廃村に、静寂だけが残った。
転がっている六十二人の山賊。砕けた廃村の壁。地面に刻まれた拳の跡。歪んだヴァルフの大斧。
そして——
「……何、今の」
リナが、ようやく声を出した。
声が、震えていた。
「何、今の。何が起きたの」
メイファは、答えなかった。ただ、目から大粒の涙を流していた。安堵の涙だった。
エルネは、自分の頬に手を当てて、ゆっくりと深呼吸した。
「……シルバー・フィスト」
エルネが、低く呟いた。
「機動鎧武者。あんな鎧、聞いたことがありません。あんな身体能力も、普通の人間ではありえません。あれは——魔法でも、武術でも、ない」
リナは、エルネを見た。
「じゃあ、何なの」
エルネは、答えなかった。
代わりに、ゆっくりと、消えた森の方を見た。
「……ただ一つ、わかることは」
エルネの声は、静かだった。
「あの方は、わたしたちを、助けてくださったということだけです」
リナは、消えた森の方を見た。
胸の中で、何かが震えていた。
恐怖でもない。憧憬でもない。安堵でもない。
ただ、何か——
リナはまだ、その正体を、知らなかった。
その時。
廃村の外から、馬蹄の音が聞こえた。
複数だ。
「何の騒ぎだ!!」
鎧を纏った騎士が廃村に踏み込んできた。領主の紋章を胸につけている。定期巡回の騎士団だ。
先頭の騎士が、廃村を見た。
転がる六十二人の山賊。砕けた壁。歪んだ大斧。
そして、立ち尽くす三人の冒険者。
「こ、これは——いったい何が——」
リナは、深く息を吸った。
ゆっくりと、騎士に向き直った。
「赤狼団です」
声は、まだ少し震えていた。
「全員生きています。捕縛をお願いします」
「あ、あなた方が、これを?」
「いえ」
リナは、首を横に振った。
「私たちじゃない」
リナは、森の方を見た。
「シルバー・フィスト、という方が」
その名前が、リナの口から出た。
それは、リナにとって、何かが始まる音だった。




