第二十六話「野営は郷愁と共に」
夜の森は静かだった。
俺たちは街道から少し入った開けた場所に野営の設営をしていた。
木々に囲まれていて風の通りも穏やかな悪くない場所だ。
オークの大群を殲滅した余波で、近くに魔物の気配はもうない。
リナが手際よく焚き火を熾していく。乾いた枝を組み、火打ち石で火花を散らす。
やがて、ぱちぱちと小さな炎が燃え上がった。
「見張りは交代制にしましょう。あたし、メイファ、エルネの順で。シロガネは──」
「俺は寝なくても平気だ。一晩中見張っていられるからな。お前たちは寝ているといい」
「……そういうとこよ。気遣いは素直に嬉しいけど、あんた一人に任せてたらとんでもないことになりそうだし、こっちはこっちでやるから、好きにしてちょうだい。でも無理はしないでよね」
無理も何も、俺にとって一晩の徹夜など無理のうちにも入らない。
十二年間夜通しダンジョンに潜って、朝に地上へ戻る生活を続けていたんだ。睡眠などとらなくても活動できるように鍛えている。どうしても睡眠が必要になるまで疲れたら魔法で回復すればいいしな。
……まあ、それも言わないでおこう。また、変な目で見られるかもしれない。
焚き火を囲んで、俺たちは夕食を取ることにした。
メイファが荷物から携帯食料を取り出す。硬いパンと干し肉。それから水筒の水。冒険者の野営の食事だ。
「はいシロガネさん〜。どうぞ〜」
「ああ、ありがとう」
俺はパンを受け取って齧った。
……硬い。
石のように硬い。保存が利くように徹底的に水分を抜いてあるのだ。
味はほとんどない。干し肉も塩辛いばかりで、噛むほどに顎が疲れる。
これが、冒険者の飯か。
文句を言うつもりはない。野営とはこういうものだ。俺も似たようなものを食ってきた。
ふと、俺の脳裏にあるものが過る――。
あたたかい白い飯。湯気の立つ味噌汁。焼き魚。煮物。
前世で当たり前のように食べていたもの。
……いや。やめておこう。
思い出したところでここにはない。今はこの硬いパンをありがたくいただくべきだ。
俺は頭を振って、パンを齧り続けた。
焚き火がぱちぱちと爆ぜる。
炎を見つめる。
揺らめく橙色の光。立ち上る煙。あたたかな熱。
……あたたかい。
その熱を頬に感じた時。
俺の中で、もう一つの記憶がゆっくりと蘇ってきた。
──風呂だ。
そういえば俺は、この世界に来てから一度もまともに湯に浸かっていない。
ダンジョン通いの日々も、街での暮らしも、体を清めるのは井戸の水か川の水。冷たい水でざっと汚れを落とすだけ。それが当たり前の生活だった。浄化魔法で清めていたからそれでよかったというのもあるが。
――風呂に入りたい。
この世界にも風呂がないわけではない。
魔道具で湯を沸かす技術はある。だがそれは高価なものだ。裕福な貴族や、よほどの金持ちでなければ、日常的に湯を使うことなどできない。
駆け出しの冒険者には縁のない贅沢品だ。
だから俺はすっかり忘れていた。
湯に浸かるという、あの幸福を。
思い出してしまった。前世のあの感覚を。
仕事で疲れ果てた夜。
冷えきった体を湯船に沈める。
じわり、と熱が肌に染み込んでくる。強張っていた肩が、背中が、ゆっくりとほどけていく。
「はぁ……」と、自然に息が漏れる。あの瞬間だ。
いや。湯船だけではない。
俺は──温泉が好きだった。
休みの日に足を伸ばして行った山間の温泉。
大きな岩風呂に屋根のない露天風呂。広い湯にただ一人浸かって、空を見上げる。
白い湯気が立ち上る。少し硫黄の匂いがする。ぬるめの湯に肩まで浸かれば、世界のすべてがどうでもよくなってくる。
遠くの山の稜線。流れていく雲。鳥の声。
ただ湯に浸かってぼうっとしている。それだけの時間が、どれほど贅沢で、どれほど満たされたものだったか。
あの頃の俺は、それを当たり前だと思っていた。いつでも行ける。いつでも入れる。そう思っていたんだ。
失って初めて気づくのだ。
あれがどれほど得難い、幸福だったのかを。
「……シロガネ?」
声をかけられた。
はっと我に返ると、リナが不思議そうに俺を見ていた。
「どうしたの。ぼーっとして。火を見つめて、百年経ったみたいな顔してたわよ」
「……いや」
俺は苦笑した。百年は言いすぎだが。
どうやら郷愁に浸りすぎていたらしい。
……まあ、しかし。
湯に浸かるのは無理でも、湯を出すくらいならできるのではないだろうか?
そうときまれば――俺は立ち上がった。
「シロガネ?」
焚き火から少し離れた地面にしゃがむ。そして両手で軽く地面を掘り、右手を地面にかざした。
水を出してそれを温める。いやまとめて考えれば行使が単純化できる。『汚れを落とし、人体が触れても無害かつ、人々や動植物に有益な温かい水』という概念を生成するだけだ。そうすれば理屈は単純だ。やったことはないが──まあできるだろう。いままでもなんとかなってきた。
俺は超速で魔法式を構築する。
頭の中で組み上げた魔法式を掌に移し、魔力を流す。すると――できた。
概念的温水――いうなれば、あらたな『温水』という概念をそのまま具現化させたのだ。
ほかほかと、白い湯気が夜の空気に立ち上っていく。
……おお。
ちょっとした水たまりほどの湯が、地面にできあがっていた。手を浸してみる。あたたかい。ちょうどいい、湯加減だ。土に触れているから泥水になるかと思ったが、そんなことはない。きれいな水のままだ。
「……えっ」
リナが目を丸くしている。どうだ。俺も少しは役に立つだろう。
「お、お湯!? 今、お湯出したの!?」
「ああ。湯くらいなら、出せるだろ?」
「出せるだろ?って言われても……」
「わぁ〜!」
メイファが、ぱっと駆け寄ってきた。そして湯に手を浸す。
「あったかいです〜! ほんとにお湯です〜! 気持ちいい〜!」
メイファは子供のようにはしゃいでいた。冷たい水での水浴びしか知らない冒険者にとって、あたたかい湯はそれだけでちょっとした贅沢なのだろう。
「ね、ねえ、これ、顔とか洗っていいの?」
リナが、おずおずと、聞いてきた。
「ああ、構わん。好きに使え。足りなければ、また出す」
「ほ、ほんと!?」
リナの顔がぱっと輝いた。普段は勝気でしっかり者のリナだが、こういう時の反応は年相応の女の子なんだな。
「これすごいわね!! なんか肌がすべすべになる!」
「すごいです~! これ売れますよリナ様~!」
「……これ本当に、ただのお湯なの?」
女の子三人があたたかい湯で顔を洗ったり、手を清めたりして嬉しそうにしているのを見ていると幸せな気持ちが湧き上がってくる。
喜んでもらえたなら何よりだな。
……だが。
お湯をじっと見つめて、一人だけ動かない者がいた。
エルネだ。
エルネはしばらくすると、こちらに来て、じっと──俺の手を見つめ始めた。
「……エルネ?」
俺が声をかけても反応しない。
その紫紺の瞳はまばたきもせずに、湯を出した手のひらに釘付けになっていた。
そして、ぽつりと言った。
「……魔導書は?」
「ん? 魔導書? そんなもの持ってないぞ」
「よく見ていなかったけど、だとしたら今の魔法はどうやって使ったの」
エルネの声は、いつもより低く、そして僅かに震えていた。
「どうやって、と言われてもな。こう……魔法式を頭の中で組むだろ? それで掌にそれを具現化して魔力を流すんだ。そしたらできるだろ?」
「……詠唱は?」
「していない」
「……どこかに魔導書隠し持ってるんでしょ」
「だから持っていないが」
ポケットの中身まで全部ひっくり返してエルネに見せる。どうしたのだろう。
本当に俺が何も持っていないことを知ると、エルネの表情が固まった。
そして、ゆっくりと立ち上がり──俺の目を覗き込んできた。
「お、おい……なんだ」
至近距離で、紫紺の瞳が俺を見上げる。
「……ありえない」
「な、なんだ」
「魔法は」
エルネが静かに、しかし、有無を言わせぬ口調で語り始めた。
「魔法は魔導書という触媒を介して初めて行使できる。魔導書には術式が記されている。術者はその術式を読み解いて詠唱によって世界に干渉する。それが魔法。それがこの世界の理」
エルネの瞳がさらに鋭くなる。
「魔導書なしで詠唱もなく、ただ念じただけで水を生み出して温度を操作する。そんなこと──できるはずがない。わたしの父は王国でも有数の魔法戦士。でも、父ですら魔導書を身に着けていなくては、魔法を使えない。魔導書なしで魔法を行使するなんてこと――誰もできない。そんなこと聞いたことがない」
……む。
これはまずい。
俺は湯を出すという、ごく単純なことをしたつもりだったのだが、この世界の常識からすると、とんでもないことだったらしい。
誤魔化せるかこれ……?
「……まあなんだ。できるものはできるというか」
「できるはずがない」
「いや、現にできているわけで」
「だから、それがおかしい」
エルネは引かない。こいつ、魔法オタクか!?
だとしたらヤバイ。これは俺でも原理を良く分かってないんだ。
それっぽい魔法式――いうなれば直感で作り上げただけのお遊びなんだ!
「シロガネ。あなた自分が何をしているか分かってる?」
「……お湯を出した」
「そうじゃない」
エルネが、さらに顔を近づけてきた。
「あなたはこの世界の魔法の理を無視している。いえ──無視しているというより」
エルネは言葉を選ぶように一度口を閉じ、そして、続けた。
「あなただけ、別の理で動いている……?」
……別の理。
なんだか、妙に的を射た言葉だ。
俺が魔法を使えるようになったのは、ダンジョンで死にかけた時だ。
あの時必死に念じたら、傷が塞がった。ヒーローならそれくらいできると信じていたからだ。
それからは念じればたいていのことはできるようになった。
回復も蘇生も、そしてこうして、湯を出すことも。
どういう仕組みなのか。なぜできるのかなんて考えたこともなかった。
できるからやっていた。ただそれだけだ。
「……どうやってそれを習得したの」
「ダンジョンで必死にやっていたらできるようになった」
「……独学」
「まあ、そうなる」
「魔導書も師もなく?」
「ああ」
エルネは額に手を当てて、しばらく黙り込んだ。
そしてぶつぶつと何かを呟き始めた。
「……魔力の無詠唱行使? いえ、そもそも術式はどこに……体内で構築している……? いえ、それなら、莫大な演算が……でもそれを瞬時にやって見せている……待って、温度操作は別系統の……でも同時に……ありえない……仮にそうだとしても、触媒なしでどうやって世界に干渉を……?」
エルネは一人でぶつぶつとありとあらゆる仮説を立てては否定し、また、立てては否定している。
リナとメイファが顔を見合わせた。
「エルネ、なんかすごいことになってるわね……」
「魔法のこと考え始めると止まらなくなるんです〜。エルネちゃん、魔法大好きですから〜」
エルネの独り言はしばらく続いた。だが。
ぴたり、と止まった。
エルネはゆっくりと顔を上げた。
その目は──どこか、虚ろだった。
「……分かった」
「お、おう。何か、分かったのか」
「分かった」
エルネは、こくりと頷いた。
そして言った。
「何も分からない、ということが分かった」
「…………」
「あらゆる仮説を立てた。でも、全部どこかで破綻する。あなたの魔法はこの世界のどんな理論でも、説明がつかない。わたしの知識では──いえ、たぶん、この世界のどんな知識でも説明できない……かも」
エルネは、ふう、と息を吐いた。
俺は少しほっとした。よく分からないで済むなら、それでいい。
下手に解明されて、前世のことまで辿られても困る。
……だが。
俺は見誤っていた。
エルネの瞳に宿った『感情』を。
「……シロガネ」
エルネが再び俺を見上げた。
その目はもう、虚ろではなかった。
らんらんと輝いているではないか。
――すごくイヤな予感がする!
まるで未知の宝物を見つけた子供のような。あるいは、生涯をかけて追うべき謎を見つけた研究者のような。
それは、静かで──しかし、底知れぬ『執念』を湛えた瞳だった。
「あなたを、研究させて」
「……は?」
「あなたは面白い。いえ、面白いという言葉では足りない。あなたはこの世界の理の外側にいる。そんな存在は見たことがない! だから──観察させて。あなたがどうやって魔法を使うのか。何を考えているのか。どこまでできるのか。全部知りたい!」
エルネは静かに、しかし一歩も引かぬ口調でそう言った。
……これは。ヤバイ。俺の直感がそう告げている。
「い、いや、研究と言われても」
「邪魔はしない。ただ観察させてくれればいい。あなたが何かをするたびに、わたしは見ている。記録するし分析する」
「怖すぎる! 勘弁してくれ!!」
「光栄に思って」
エルネは淡々と、しかし決して引かなかった。静かな口調なのに、その粘り気は尋常ではなかった。
一度興味の対象を見つけたら、もう離さない。そういう執念を感じた。
俺は助けを求めてリナを見る。
リナは肩をすくめた。おいおい待ってくれ。この状態のエルネを放置するっていうのか!?
「諦めなさい。エルネはこうなったらもう止まらないわ。父親が有名な魔法戦士で、エルネも小さい頃から魔法漬けなのよ。新しい魔法とか未知の現象とか目がないの」
「……だからって放置するな! 俺のプライベートはどうなるんだ!?」
「シロガネさんは〜、エルネちゃんの最高の研究対象になっちゃったみたいですね〜」
メイファがのんびりと笑った。
これまで生きてきて。
謎のヒーローとして、正体を隠して生きてきたつもりだったが、今や勝気な少女に見張られ、おっとりした少女に世話を焼かれ、そして──静かな少女に、研究対象としてロックオンされる始末。
……まあ。悪くはないかもしれないが! 悪くないと思っている自分がなんか嫌な感じがする!!
俺はなんとも言えない気分で、夜空を見上げた。
星がよく見えるなぁ。
……ああ、そういえば。
俺は地面の湯を見下ろした。
せっかく湯を出したのだ。どうせなら浸かりたいが、ここには湯を溜める桶も湯船もない。地面にできた水たまりに浸かるわけにもいくまい。
「ならばいっそ湯を溜める容器も作るか。土を固めて適当にやればなんとか──」
「……次は何をしようとしているの。手順まで詳しく聞かせて」
「もう寝なさい!」
ノリノリの俺とエルネにリナの叫び声が飛ぶ。
なんてことだ……この浪漫が分からんのか。
「これ以上、夜中にわけの分からないもの作らないの! 明日も街まで帰るんだから!」
「……む。そうか」
俺はしょんぼりと手を引っ込めた。
露天風呂への道は遠いか。
だが──いつか!
いつか、必ず!
この世界にあの温泉を。
湯気の立つ極上の温泉地を作ってみせる!!
俺は密かにそう決意した。




