第二十三話「そして俺はヒーローを続け…え?」
夕日が、街を金色に染めていた。
俺は満ち足りた気分で中央通りを歩いていた。
今日もいい一日だった。朝はガルディウスたちと今後の打ち合わせをして、街に戻ってからはベルトル商会の荷運びをこなし、ジェナ婆さんの家で茶をいただいた。孤児院ではティムとレイと遊んだ。何の変哲もない、けれど確かに守りたいと思える日常だ。
悪を砕く白銀の鉄槌として、必要な時は動く。だが普段はこうして、ただの冒険者シロガネとして街に溶けて暮らす。
完璧だ。
俺は四十二年と、この世界での二十一年。合わせて六十三年分の人生で、ようやく理想のかたちに辿り着いたのだ。ヒーローとして悪を砕き、素顔では平穏に生きる。これ以上の生き方があるだろうか。いや、ない。
よし。明日もまた、ヒーローを続けよう。そして、この穏やかな日常を──
「シロガネ」
声をかけられた。
振り返るとリナが立っていた。
赤茶けた髪に見慣れた冒険者の装備。だが、その目がいつもと違った。何かを覚悟したような、まっすぐな目だった。
俺はそんなリナの『覚悟』を、特に気にも留めなかった。
「リナじゃないか。どうした?」
いつも通り、低く落ち着いた声で応える。
我ながら完璧な受け答えだ。クールで、頼れる先輩冒険者の風格。実際にはリナの方が先輩だが。まぁそんなことはどうでもいい。
リナはしばらく、何も言わなかった。ただ、俺の目を、じっと見つめていた。
……なんだ。どうした。何か言いたいことがあるなら言えばいい。俺は鷹揚に待つ男だ。
リナが深く息を吸った。
そして──言った。
「あんた、シルバー・フィストなんでしょ?」
…………。
…………え?
…………なんて?
時が、止まった。
いや、止まっていない。夕日は沈みかけているし、雑踏のざわめきも聞こえる。だが俺の中で、何かが完全に停止した。
今、こいつは、なんと言った。
シルバー・フィスト。
俺のヒーローとしての正体を。
──落ち着け。落ち着け俺。
俺は四十二年間、いや六十三年間、ヒーローを追い求めてきた男だ。あらゆる作品を見てきた。あらゆる展開を知っている。こういう時、ヒーローはどう対応する。正体を見破られた時の、模範的な対応は──
ない!!
ないぞ。前例が!!
なぜなら、ヒーローの正体がバレる回はだいたい最終回だからだ。バレたあと、ヒーローがどう日常に戻るかなんて誰も描いていない! バレた時点で物語が終わるからだ!
参考資料が、ない……?
俺は人生で初めて、ヒーローものの知識が役に立たない場面に直面していた。
「……なんの、話だ?」
絞り出した声は、自分でも驚くほど上ずっていた。
しまった。今、声が裏返らなかったか。クールに、クールに言ったつもりだったのに。
「シルバー・フィスト? はて。なんのことだか、俺にはさっぱり──」
「目、泳いでるわよ」
「泳いでいない」
即答した。早すぎた。
いや、泳いでいない。泳いでいないはずだ。たぶん。きっと。
俺の目は今、海のように凪いでいる。
凪いでいてくれ頼む!!
「あんたねえ」
リナが、半眼で俺を見た。
「もうバレてるって言ってるの。ぜんぶ見てたんだから。あんたが、ガルディウスさんの屋敷に堂々と入ってって、中で派手な戦闘があって、壁まで吹き飛んで、それで何事もなかったみたいに出てきたのをね」
……見られていた?
全部だと!!??
いや待て。落ち着け。神様からもらった正体隠蔽機能があるじゃないか。あれがある限り、変身した俺と素の俺は、別人に見えるはずだ。たとえ屋敷の出入りを見られていたとしても、それが即「シルバー・フィスト=シロガネ」には繋がらないはず──
……繋がらない、よな?
そこで俺は、あの機能を一度も検証したことがないことを思い出す。
神様が「つけといたよ」と言っただけで、どれくらいの効力があるのか、確かめたことが、一度も、ない。
まさか。
まさか、そんなに、強力じゃ……?
いや、考えるな。今は考えるな。とにかく、この場を、乗り切るんだ。
俺はゆっくりと、一歩。後ろに下がる。
ヤバイって。これヤバイって!!
「……まあ、なんだ。リナ。お前も疲れているんだろう。最近、いろいろあったからな。ゆっくり休むといい。俺はこれで──」
もう一歩。後退する。
「待ちなさいよ」
「いやぁ、急用を思い出してなぁ!(裏声)」
さらに一歩。
よし。このまま、自然に。何食わぬ顔で、ゆっくりと距離を取って、角を曲がったら全力で──
ぐいっ。
服の裾を、掴まれた。
リナが、俺の上着の裾を、しっかりと掴んでいた。
……っ。
「逃がさないわよ」
逃がさない。
その一言で、俺の中の『何か』が限界を超えた。
逃げ場がない。掴まれている。正体を握られている。
このままでは。このままでは!! 俺はァア!!
頭が、真っ白になった。そして、その真っ白な頭で口が勝手に動いていて叫んだ。
「あ、あ、あ、──悪の気配がするッ!!」
「は?」
「今、確かに感じた! この街のどこかで、悪が蠢いている! ヒーローとして見過ごすわけにはいかない! 俺は行かねばならんのだ!」
言いながら、自分でも思った。
何を言っているんだ……俺は。
「……ねえ」
リナの目が、すっと、冷たくなった。
「今、ぜったい、なんにもなかったでしょ」
「……」
「悪の気配って何よ。あたしずっとあんたの前にいたけど、何にも感じなかったわよ。なんなら鳥の声くらいしか聞こえなかったわよ」
「…………」
反論できなかった。
悪の気配。そんなものは当然ないに決まっている。
今この街は、平和そのものだ。夕飯時のいい匂いすら漂っている。
俺は悪を砕く白銀の鉄槌だ。
なのに。
なのに今、女の子一人を前にして、ありもしない悪の気配をでっちあげて、逃げようとした。
四十二年間、いや六十三年間、追い求めてきたヒーロー像が、音を立てて崩れていく気がした。
「……はぁ」
リナが大きく溜息をついた。そして、掴んだ俺の服をぐいっと引いた。
「いい? よく聞きなさい」
俺は観念した。
もう、逃げられないんだ。
……いや、逃げられはするのだろう。物理的には。リナの腕力で俺を止められるはずもない。本気を出せば、この手を振り払って、一瞬で街の外まで消えることだってできる。
できるが──
できなかった。
なぜか、できなかった。リナのまっすぐな目が。俺の服を掴むその必死な指が。それらを振り払うことが――どうしても、できなかった。
「あたしね」
リナが静かに言う。
「あんたを、責めにきたんじゃないの」
…………え?
「正体を暴いて、騒ぎ立てようとか、そんなんじゃないの。むしろ逆。あたしは──あんたの力になりたいの」
…………。
…………ええ?
俺は間抜けにも、口を半開きにしてリナを見ていた。
責めにきたんじゃない。脅すつもりもない。力になりたい。
……なんだ、それは。
俺はてっきり、正体を握られて弱みを盾に脅されるとばかり──いや、こいつはそういう奴じゃない。
それは半年近く一緒に依頼をこなしてきて、分かっていたはずなのに。
俺は、勝手に最悪の事態を想像して、勝手に怯えて、ありもしない悪の気配をでっちあげて、逃げようとしていたわけだ。
……ぬぉぉおおおお!!
今俺は!! とても自分が恥ずかしいぞっ!!
今すぐ変身して、背中の翼で空の彼方まで飛んでいきたいくらいだった。
「ちょっと。なんで急に頭抱えてるのよ」
「……なんでもない」
「ぜんぜんなんでもなくないでしょ」
リナが呆れたように言う。だがその口元は、少しだけ笑っていた。
「ねえ、シロガネ」
「……なんだ」
「ちゃんと、話、聞かせてよ。あんたが何者で何を考えてるのか。あたしは知りたいの」
夕日が、リナの横顔を照らしていた。
俺は、深く、息を吐いた。
……まいったな。
六十三年生きてきて、ヒーローのことなら何でも知っているつもりだった。
悪の砕き方も、名乗りの上げ方も、変身ポーズのキレも、全部、極めてきた。
なのに。なのに、だ。
女の子一人に、こんなにも、振り回されている。
こんな展開、どの作品にも、なかったぞ。
「……分かった」
俺は、観念して頷いた。
「話す。ぜんぶ、話す。だから──その、服を、離してくれないか。さすがに、目立つ」
気づけば、通りを行き交う人々が、俺たちをちらちらと見ていた。夕日の中、女の子に服の裾を掴まれて立ち尽くす長身の男。字面だけで、相当、間抜けだ。
「あっ……///」
リナが、ぱっと手を離した。その頬が、夕日のせいだけではなく、少し赤い。
「ご、ごめん。つい」
「……いや、いい」
俺たちは、しばらく、気まずく黙り込んだ。
夕日が、ゆっくりと、街の向こうに沈んでいく。
……ヒーローを続けよう、と。ついさっき、そう思ったばかりだった。素顔では平穏に生きる、完璧な生き方を見つけたと。
その平穏は、たった今、目の前の女の子によって、あっさりと打ち砕かれたわけだが。
まあ──悪い気分では、なかった。
不思議と。
「じゃあ、場所を変えましょ」
リナが、歩き出しながら言った。
「立ち話で済む話じゃ、なさそうだしね」
「……ああ」
俺はその背中を追って歩き出した。
こうして、俺の平穏な日常はわりとあっさり終わりを告げ。
これから、騒がしい日々が、始まる。
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第二章 シロガネと愉快な仲間たち
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