第二十話「真実、蘇生、そして救出」
シロガネは中庭の中央で、月明かりの下、手記を開いた。
革の表紙に、ガルディウスの名。中身は古びた紙が綴じられている。最初のページから、ガルディウス自身の筆跡で、その人生が綴られていた。
シロガネは一行、また一行と、文字を追っていった。
最初は、若き日のガルディウスの記録だった。
王国騎士団に入団した日。剣の腕を磨いた日々。仲間との絆。悪しき組織を一つ、また一つと壊滅させていった日々。騎士団長に任命された日。
そして、マリーと出会った日。
ガルディウスはマリーを心から愛していた。マリーは穏やかで聡明な女性で、ガルディウスの最大の理解者だった。アリスが生まれた日のガルディウスの感動は、行間からも溢れていた。
幸せな日々が、続いていた。
シロガネは黙って、ページをめくり続けた。
そしてある日。
マリーとアリスが、行方不明になった。
ガルディウスは騎士団長の権限で、王国中を捜索した。だが見つからない。何ヶ月も、何年も。
執念による捜索の末、ガルディウスはある組織の存在に辿り着いた。
妻子を攫った張本人はある組織が関係しているところまでは分かった。だがその時のガルディウスには、組織の正体を完全に突き止める力はなかった。それでも妻子の居場所だけは突き止めて、単身でアジトに乗り込んだ。
そこで、ガルディウスは負けた。
そして、目の前で——
マリーとアリスが、魔獣と融合させられた。
ガルディウスは、その光景を、生きたまま見せられた。
シロガネは、手記を握る手が、震えた。
ガルディウスの絶望が、文字から伝わってくる。震える筆跡で、ただひたすら「マリー」「アリス」と、繰り返し書かれているページがあった。
そして失意の中にいるガルディウスに、別な組織と思われるものが接触してきた。
「妻子を治したいなら、組織に入れ。お前の力があれば、研究を進められる」
ガルディウスは、その言葉に従い、組織に入った。
だがそれらは同一組織によるものであり、邪魔なガルディウスを狙った組織の策略だった。妻子を治す方法など、組織は持っていなかった。ガルディウスは騙されたのだ。
それでも、ガルディウスは諦めなかった。
組織の中に潜入したまま、内部から壊そうとした。妻子を治す方法を、自力で探し続けた。屋敷の地下に妻子を匿い、組織に気づかれないように世話を続けた。
そして、組織から命じられた仕事——黒の影の運営も、独自の判断で行った。
攫われた子供たちは、信頼できる貴族の家にこっそりと預けられていた。決して非道なことをしない、心ある貴族たちだった。組織は子供たちが奴隷として売られたと信じていたが、実態は全く違っていた。子供たちは、ガルディウスが密かに保護していた。
そして、クライス。
クライスは、ガルディウスの若き日の部下だった。家族を失った後、唯一、最後まで残ってくれた男だった。ガルディウスが組織に入ると決めた時、クライスは何も言わずに付いてきた。
「あなたが行く道なら、私はどこへでも」
そう言ったクライスを、ガルディウスは表に立たせた。組織の頭領という、悪役の役割を。自分の代わりに、悪名を背負ってくれる男として。
ガルディウスは、その贖罪を、いつかしたいと記していた。
そして、最後のページ。
『俺は、堕ちた英雄だ。家族を救うため、悪に堕ちた。クライスを巻き込み、自らも汚名を背負った。
だが、もし——
俺の前に、本物の正義が現れたなら。俺を終わらせる、純粋な英雄が現れたなら。
俺は、その者に、すべてを託したい。
俺の最後の願いは、ただ一つ。マリーとアリス、そしてクライスを、頼む』
――――――――
シロガネは、手記を閉じた。
月明かりの下、シロガネはしばらく動けなかった。
――俺は、何をしたんだ。
シロガネの胸の奥で、これまで感じたことのない感情が渦巻いていた。
ガルディウスは、悪じゃなかった。家族のために、最も辛い道を選んだ男だった。クライスは、その忠義に殉じた男だった。
俺は、その二人を……砕いた。
「悪を砕く」と決めて、確認もせずに、二人を爆散させた。手記を読んでから判断するべきだった。クライスからガルディウスの名前を聞いた時、もっと丁寧に調べるべきだった。
シロガネの目に、涙が滲んだ。
ヒーローオタクとして、四十二年間、無数の特撮を見てきた。ヒーローは悪を砕く。それは正義の行いだ。だが、そのヒーローが悪を見誤ったら——どうなるか。
悲劇だ。
俺は、悲劇を生んでしまった。
シロガネは深く息を吐いた。
そして、目を開けた。
涙はまだ滲んでいた。だが、目には決意が宿っていた。
蘇生する。
ガルディウスも、クライスも、必ず生き返らせる。マリーとアリスも、人間に戻す。
それが、俺の責任だ。
ヒーローとしての、人としての、責任だ。
シロガネは中庭の中央に立ち、両手を天に向けて掲げた。
ダンジョン五百層を踏破した男の、規格外の魔力が、解放されていく。普段は抑え込んでいる力を、今は最大まで引き出した。
中庭の空気が震え始めた。芝生が逆立ち、木々が大きく揺れる。月明かりが、シロガネの両手に集まり始めた。
シロガネは、低く告げた。
「来い、ガルディウス・ヴェルナンドの魂よ」
シロガネの声が、夜空に響いた。
書斎の爆心地——粉々になった瓦礫の山の上から、白銀の光が一筋、空に立ち昇った。
それは、ガルディウスの魂だった。
魂は月光に導かれるように、シロガネの両手の前に集まってくる。シロガネは魔力をさらに高めた。中庭全体が、白銀の光に包まれていく。
シロガネは魂に向けて、両手を翳した。
「ガルディウス。お前を、生き返らせる」
魂を中心に、白銀の光が球体となって膨らんだ。
光の球の中で、ガルディウスの肉体が、無から再構成されていく。
骨が形成された。
筋肉が編まれた。
血管が走り、血が通った。
皮膚が覆い、髪が生えた。
衣服が纏われた。
光の球が、ゆっくりと収まっていく。
そして——
ガルディウスが、立っていた。
傷一つない、完璧な姿で。中庭の中央に、月明かりに照らされて。
ガルディウスは目を開いた。
「我は……」
ガルディウスは自分の体を見下ろした。両手を見て、足元の芝生を見て、そして月明かりを見上げた。
「我は、死んだはず……」
「ああ」
シロガネは静かに答えた。
「俺が、お前を砕いた」
ガルディウスはシロガネを見た。
「シルバー・フィスト……」
「お前の手記を、読んだ」
シロガネはそう告げた。
「全部、書いてあった」
ガルディウスの目が、見開かれた。
「シルバー・フィスト、お前は……」
「話は、後だ」
シロガネは即座に告げた。
「ガルディウス。続けて、クライスも生き返らせる」
ガルディウスの目が、再び見開かれた。
「クライス、も……」
シロガネは答える代わりに、再び両手を天に向けて掲げた。
「来い、クライス・グラフィスの魂よ」
シロガネの声が夜空に響いた。
中庭の空気が、再び震え始めた。
廃墟の教会の方角から、白銀の光が一筋、夜空を翔けてきた。
クライスの魂だった。
魂はシロガネの両手の前に集まる。シロガネは魔力をさらに高めた。月明かりが、再び中庭に集まり始めた。
魂を中心に、白銀の光が球体となって膨らんだ。光の球の中で、クライスの肉体が再構成されていく。骨、筋肉、血、皮膚、髪、衣服。一つ一つが、無から形成されていった。
光の球が収まり、クライスが立っていた。
完璧な姿で。
クライスは目を開いた。
「な……」
クライスは戸惑いながら、自分の体を見下ろした。
「私は……シルバー・フィストに……」
クライスはシロガネを見た。そして、ガルディウスを見た。
「ガルディウス様……?」
クライスは目を見開いた。
ガルディウスの顔にあった聖痕と呪痕がなくなっている。
「ガルディウス様も、生き返って……?」
ガルディウスはクライスに歩み寄った。
「クライス。お前も、戻ってきたか」
「ガルディウス様、これは……」
「シルバー・フィストが、俺たち二人を、生き返らせてくれた」
クライスはシロガネを見た。何かを言いかけて、だが言葉にならない。
シロガネは二人を見据えて、低く告げた。
「ガルディウス、クライス。話は、後だ」
シロガネの声には、ヒーローとしての凛とした響きがあった。
「マリーとアリスのもとへ、案内してくれ。先に、家族を取り戻す」
ガルディウスの目が、見開かれた。
「マリーと、アリス、を……」
「ああ」
シロガネは頷いた。
「全て、終わらせる」
ガルディウスの目に、涙が滲んだ。だが今度は、絶望の涙ではなかった。
希望の涙だった。
ガルディウスはしばらく言葉を失っていた。そしてゆっくりと、自分を取り戻すように、シロガネに頷いた。
「ああ……案内する」
ガルディウスは踵を返した。
「こちらだ。屋敷の、地下に」
クライスもガルディウスに続いた。
シロガネは月明かりの中庭を後にして、ガルディウスの屋敷に向かって歩き出した。
屋敷の地下へと続く階段は、暗かった。
ガルディウスが先頭を歩き、ランプを手に階段を下りていく。クライスが続き、シロガネが最後尾に続いた。
階段は長かった。深く、地下へと潜っていく。やがて、重い扉が見えた。鉄でできた、頑丈な扉だった。
ガルディウスは扉の前で立ち止まった。
「シルバー・フィスト」
ガルディウスは振り返らずに告げた。
「中には、二人がいる。だが、もう……人としての意識が、ない」
ガルディウスの声は、震えていた。
「魔獣と融合した二人は、ただの獣に成り果てている。お前のような強者でなければ、対面することすら危険だ」
「わかった」
シロガネは静かに答えた。
ガルディウスは扉に手をかけた。そして、ゆっくりと開いた。
地下室は広かった。天井が高く、石造りの壁に囲まれている。中央には大きな空間があり、そこに二体の化け物が、鎖で繋がれていた。
一体は、巨大だった。
人間の女性の上半身に、巨大な狼のような下半身。両腕は鋭い鉤爪を持ち、髪の毛は絡まり、口元には牙が並んでいた。背中には、不気味な棘が連なって生えている。瞳は赤く濁り、何の知性もなく、ただ獣性に支配されていた。
もう一体は、小さかった。
人間の幼い子供の体を持ちながら、四肢が異形に変形している。両手は鳥の鉤爪のように、両足は山羊のように。背中には小さな黒い羽が生えていた。口元から牙がはみ出し、瞳は青く濁って、ただ虚無を見つめていた。
二体は、シロガネたちが入ってきた瞬間、低く唸り始めた。
牙を剥き出しにし、鎖を引っ張って暴れる。鎖の音が、地下室に響き渡った。
「マリー……」
ガルディウスの声が、震えた。
「アリス……」
ガルディウスは涙を流しながら、二体の化け物を見つめていた。
「俺だ。ガルディウスだ。お前たちのために、戻ってきた」
化け物は反応しなかった。
ただ獣性に支配されたまま、唸り、暴れている。
クライスは、ガルディウスの隣で、深く息を吐いた。
「ガルディウス様……」
クライスの目にも、涙が滲んでいた。長年仕えた主人の、最も辛い場面に立ち会っているのだ。
シロガネは前に歩み出た。
そして、二体の化け物を、静かに見据えた。
「お前たちを、戻す」
シロガネは低く告げた。
「マリー、アリス。お前たちは、もう、苦しまなくていい」
シロガネは両手を、二体の化け物に向けて翳した。
そして、ダンジョン五百層を踏破した男の、規格外の魔力が、解放されていく。
地下室の空気が、震え始めた。
シロガネの両手から、白銀の光が放たれた。光は二体の化け物を、包み込むように広がっていく。
化け物は唸り続けていた。だが、白銀の光に包まれるうちに、その唸り声が、徐々に弱まっていった。
光の中で、化け物の姿が、ゆっくりと変わっていく。
獣の四肢が、人間の手足に戻っていく。
歪んだ顔が、人間の顔に戻っていく。
絡まった髪が、滑らかな髪に戻っていく。
棘が、鉤爪が、牙が、消えていく。
そして——
光が、収まった。
鎖の中には、二体の化け物の代わりに、二人の人間が立っていた。
一人は、若く美しい女性だった。柔らかな金色の髪に、優しげな顔立ち。事件当時のままの、二十代後半の姿。
もう一人は、五歳ほどの小さな女の子だった。母親と同じ金色の髪に、愛らしい顔。事件当時のままの、幼い姿。
二人は目を開いた。
戸惑いながら、自分の手を見て、足を見て、そして周囲を見回した。
「ここは……」
女性が呟いた。
「あ、あなた……?」
女性は、ガルディウスを見た。
「ガルディウス!?」
女性は信じられないという顔で、ガルディウスを見つめた。
「ど、どうして、あなたが、こんなに……」
女性——マリーの目に、混乱が走った。
ガルディウスは二十年の歳月を経て、明らかに老けていた。事件当時のマリーから見れば、ガルディウスは別人のように見えるはずだった。
「マリー」
ガルディウスは涙声で、マリーに駆け寄った。
「マリー、お前か、本当にお前か」
「ガルディウス、あなた、本当に、あなたなの? あの時、眠くなって……あれから、何が……」
マリーの隣で、幼いアリスが、こてんと首を傾げていた。
「おとうさん?」
アリスは無邪気に、ガルディウスを見上げた。
「お父さん、なに泣いてるの?」
ガルディウスは膝をついて、マリーとアリスを抱きしめた。
「マリー……アリス……」
ガルディウスは、子供のように泣いていた。
長年の絶望が、贖罪が、苦しみが、全てが解放されていた。
マリーは戸惑いながらも、ガルディウスの背中に手を回した。
「ガルディウス、何があったの……?」
「お前たちは、ずっと、苦しんでいたんだ」
ガルディウスは涙声で答えた。
「俺は、お前たちを、救えなかった。長い、長い間」
ガルディウスはマリーの肩越しに、シロガネを見た。
「だが、この方が——シルバー・フィストが、お前たちを取り戻してくれた」
マリーはシロガネを見た。
白銀の鎧を纏った、巨大な英雄。
マリーは何が起きているのか、まだ完全には理解していなかった。だが、シロガネがガルディウスの言う通り、自分たちを救ってくれた人だということは、感じ取った。
「シルバー・フィスト様……」
マリーは涙を流しながら、シロガネに深く頭を下げた。
「アリスもわたくしも、助けていただいて、本当に、ありがとうございました」
アリスもマリーに倣って、小さな頭を下げた。
「ありがとうございますー」
シロガネは静かに答えた。
「いい。お前たちが、家族と再会できて、よかった」
クライスは扉の脇で、ずっと、その光景を見ていた。
クライスの目にも、涙が流れていた。
長年仕えた主人の、長年の願いが、ようやく叶った瞬間だった。
地下室の中で、ガルディウスとマリーとアリスが抱き合っていた。
そして、その光景を、シロガネとクライスが、静かに見守っていた。
月明かりは届かない地下室だが、それでも、その場には温かい光が満ちていた。
家族の再会は、二十年の歳月を超えて、ようやく実現していた。




