17-1 初めて見る 雲頂 (うんちょう)
黑稻相癸です。
大変お待たせしてしまい、申し訳ありません。少し時間が空いてしまいました。
ですが、ようやくお届けできます。
それでは、第十七章『至頂群峰』第一節「初めて見る雲頂」をお楽しみください。
餘暉号が天坑の縁を越えた瞬間、あたしは何かが聞こえると思った。
船板が裂ける音。
水夫たちの叫び。
海があたしたちを丸呑みにするときの、あのとんでもなく大きな音。
けれど、最初に消えたのは音だった。
まったく無くなったわけじゃない。
全部の音が、引き延ばされたのだ。クレイゲンの怒鳴り声は遠くなり、甲板で縄が跳ねる音は水底から届くようで、水夫たちの足音は一歩ずつ浮かび上がって、元の場所へ落ち戻らない。
それから、海が消えた。
違う。
海はまだある。
ただ、あたしたちの足元から滑り抜けて、まるごと下へ落ちていく青になった。
餘暉号は天坑へ引きずり込まれた。
水流がまず船首をつかみ、次に見えない手がひっくり返すみたいに、船全体を持ち上げた。船尾が高く跳ね上がる。甲板の樽、縄の束、壊れた箱の蓋、それから一人の若い水夫が、同時に浮かび上がった。
あたしも浮いた。
胃だけはその場に置いてきた。
耳の中は風でいっぱいだった。
「つかまれ!」
誰かが叫んだ。
誰だか分からない。
前へ伸ばした手は、パフの尻尾の先しかつかめなかった。あいつもあたし以上に慌てていて、四匹の子リスが腹の下にぎゅっとぶら下がっている。風に巻かれた毛玉みたいだった。
もう片方の手が、ようやく舷に届いた。
次の瞬間、その舷まで元の場所から消えた。
餘暉号が、まるごと下へ落ちる。
長くはなかった。
ほんの数息。
でもその数息で、あたしはいろんなことを考え終えた。
たとえば、海の上に平穏な日なんてない、なんて言うべきじゃなかった。
口にした言葉によっては、海に証明しろと頼んでいるのと同じだ。
「エイリン!」
風を裂いて、ヴァンスの声が飛んだ。
エイリンは船室の入口脇に立っていた。杖の光は灯いたそばから引きちぎられた。髪は全部上へ舞い、顔は恐ろしいほど白い。それでも歯を食いしばり、杖を甲板へ叩きつける。
「だめ!」
彼女は叫んだ。
「どの向きも、めちゃくちゃ――」
さらに重い引きが来た。
彼女は急に顔を上げた。
「みんな――着地に備えて!」
どこへ着くのか、聞きたかった。
どこが地面なのか、あたしにはまるで分からなかったから。
答えはすぐ来た。
左から、何かが餘暉号をつかんだ。
左。
ただの左だったはずだ。
なのに、あたしの体は突然知った。
そこが下になったのだと。
船体が鈍く鳴った。山ひとつで叩かれたような音だった。浮いていた物が一斉に甲板へ落ちる。樽が帆柱にぶつかり、縄が船板を打ち、若い水夫は叫びながら帆布の山へ突っ込んだ。
あたしは背中から落ちた。
肺の空気が叩き出される。
パフと四匹の子リスが、まとめてあたしの腕の中へ飛び込んできた。
次に来たのは水だった。
大量の水が舷の外からひっくり返って入り、あたしにはまったく理解できない向きへ流れていく。
左へ流れた。
でも、左が今は下だ。
あたしは甲板に伏せたまま、胃だけはまだ天坑の奥へ落ちていると思っていた。耳は、もう着いたのだと言っている。尻尾は言うことを聞かずに固まり、爪先は濡れた船板へ食い込んだ。
餘暉号が轟音とともに、一面の海へ突っ込んだ。
それは天坑の底にある海じゃない。
崖の壁に貼りついた海だった。
いや、今は崖の壁が地面なのだ。
船は激しく数度揺れ、ようやく浮いた。
あたしは甲板に転がったまま、しばらく動かなかった。
まず、生きているか確かめる。
頭はある。
手もある。
水珠は腰にある。
パフは腹の上にいる。四匹の子リスも全員いる。ただ、どの子も目を見開いていた。さっき世界に噛みつかれたばかりみたいに。
周りから、うめき声と悪態が少しずつ上がった。
「腰が……」
「誰の靴が俺の口のそばにあるんだ?」
「それ、俺の手だ。馬鹿」
ヴァンスが最初にエイリンのほうへ這っていった。
歩いたんじゃない。
戻ってきて間もない左手で甲板を支え、無理やり体を引きずっていった。
「エイリン」
「平気よ」エイリンは咳を一つして、彼の手首に触れた。「あなたは?」
ヴァンスは答えなかった。
彼女が本当に話せると確かめてから、ようやく肩を少しだけ下げた。
ザカが縄の山から立ち上がった。
頭には、砕けた酒樽の半分がかぶさっている。
彼は黙って樽を外し、ちらりと見てから、あたしたちを見回した。
「誰が死んだ?」
誰もすぐには答えなかった。
たぶん……答えられなかった。
こんなときには、それがいい知らせになる。
若い水夫の一人が、まだ帆柱にしがみついていた。
船はもう止まっているのに。
彼はまだ抱きついていた。
クレイゲンが脇の板を蹴った。
「帆柱と結婚する気か! 降りろ!」
若い水夫はようやくゆっくり手を離した。死人よりまし、くらいの顔色だった。
あたしは舷を支えにして立ち上がった。脚がひどく頼りない。鼻の中は濡れた木、海水、吐いたもの、それに恐怖で出た汗の匂いでいっぱいだった。
そのときエイリンが叫んだ。
「見て!」
声のほうへ顔を上げる。
世界が、向きを変えていた。
餘暉号は、崖の壁に貼りついた海の輪の上に浮かんでいた。その海は濃い青の巨大な環になって天坑の内壁を走り、果てが見えないほど遠くまで続いている。
そして海の反対側、壁であるはずの場所には大地が生えていた。
大地はほとんど垂直だ。
なのに山も森も川も、そこにきちんと留まっている。自分たちが傾いているなんて、一度も思ったことがないみたいに。
あたしは舷を強くつかみ、もっと遠くを見た。
天坑は、穴とは思えない大きさだった。
誰かが世界をひとかけら掘り抜き、その中に別の世界を放り込んだみたいだった。
濃青の環海は遠くで弧を描く。海の下――今のあたしには、どちらを下と呼べばいいか分からない場所――では、地形が幾重にも変わっていた。まず濡れて光る黒岩。そのさらに下には緑が広がり、巨大な獣の毛のように、山壁と山腹のあいだを覆っている。
もっと遠くには、丘ほども大きな樹冠があった。
いや。
本当に樹冠なのかもしれない。
一枚の葉が風で裏返ったとき、その影が山腹の半分を掃くのさえ見えた。
別の側では、黒雲の塊が高地を押さえつけていた。白い稲妻が雲の中を泳ぎ、落ちずに地面を、生きた蔓のように這っている。
無数の滝が、環海の縁から落ちていた。
深みへ落ちるものもある。
途中で急に山々のほうへ曲がるものもある。
山に吸いつかれたように岩壁を這い、上へ登っていくものさえあった。
中央には山々があった。
本物の山群だ。
雲海から突き出し、どれもこれも高い。いちばん遠い峰は雲に呑まれ、黒い影と少し光る雪の筋しか残っていない。
最も高い峰には、頂が見えなかった。
遠すぎるからじゃない。
雲が厚すぎるのだ。
この大穴のいちばん深いところに、海底はない。
そこには、別の世界が置かれていた。
「これ、エイリンの魔法?」
あたしは聞いた。
思ったより、ひどくかすれた声だった。
エイリンは隣に立ち、すぐには答えなかった。目を大きく見開いて、目の前のすべてを詰め込もうとしている。
彼女は手を上げ、上方を指した。
その先を見る。
天坑の入口には厚い雲があり、外の海面とほとんど同じ高さに浮かんでいる。雲は平らで、もう一つの海みたいに白かった。
その白い海が、ふいに膨らんだ。
雲の下から影が浮かび出る。
最初は魚だと思った。
二度見て初めて、広い翼と長い尾、それに餘暉号より長い体が見えた。
そいつは雲海から跳ね上がった。腹をこちらへ、背を外の空へ向けて。透き通る長い髭が、雲の中に水のような白い跡を引く。
弧を描いてひっくり返り、また雲へ沈んだ。
雲の面が、何重もの波紋を広げる。
海みたいに。
全身の毛が、ゆっくり逆立った。
「逆さに泳いでる」
エイリンが低く言った。
「あたしの魔法じゃない。何もしてないわ」
「でも、なんで逆さまなの?」
エイリンは、ゆっくり静まる雲を見た。
「あっちが正しい向きなのかも」
その一言で、胃がまた少し沈んだ。
彼女は、餘暉号が突っ込んだ海のほうを見た。
「さっき、あたしたちを崖へ引いたのはあたしじゃない」
彼女は言った。
「ここそのものが、船をつかんだの」
甲板の誰も話さなかった。
クレイゲンまで、一時は口を閉じた。
ヴァンスは舷のそばに立ち、環海と森を越えた先、雲を突き抜ける中央の峰影を見ていた。
その顔色が、妙に変わった。
「雲の上の根……」
声は軽かった。
近くの老水夫が帽子を取り、ゆっくり頭を下げた。
「天漏だ」
別の水夫がすぐ胸の前で、厄を避ける印を切った。
「軽々しく呼ぶな」
「ばあちゃんが言ってた。天漏は入れても、出さないって」
若い水夫は、目を輝かせて舷へ詰め寄った。
「これが天漏? 本当にあったんだ?」
クレイゲンが、そいつの襟首をひっつかんだ。
「もう少し身を乗り出せば、本物かどうか自分で下へ行って聞けるぞ」
水夫は縮こまって戻った。
あたしはアーロンを見た。
彼は他のみんなほど驚いていなかった。船首に立ち、濡れた服の裾を脚に貼りつけたまま、中央の山群を見つめている。
初めてどこかを見る目じゃない。
もっと、見知らぬ顔ばかりになった人だかりの中から、知っている誰かの骨を探しているような目だった。
あたしは近寄った。
足元の船はまだ軽く揺れている。一歩ごとに腹が、ここの下は信用するな、と言ってくる。
「ここを知ってるんだ」
アーロンは否定しなかった。
「ああ」
「ここが、あなたが昔、願いをかけた場所?」
彼は少し黙った。
環海のほうから風が吹く。淡水、岩、青葉、それから高い場所だけにある冷たい匂いを連れて。
「雲の上だ」
あたしは彼を見た。
「前はここ、こんなじゃなかったって言ったよね」
「そうだ」
「でも来たことはある」
アーロンは遠くを見た。
「俺が来たとき、入口は大陸中央の山にあった」
少し置いてから言う。
「今は海の底だ」
「どうして?」
「分からない」
今回は、いつものように言葉を隠さなかった。
何もかも知っているような口ぶりで、あたしには分からないことを言ったりもしなかった。
ただ、分からないと言った。
いつの間にか隣まで来ていたクレイゲンが聞く。顔には擦り傷があり、血は海水で薄く流れていた。
「同じ場所だって確かか?」
アーロンは言った。
「確かだ」
「じゃあ、どうやって大陸から海へ走った?」
「分からない」
近くの水夫たちが、みんな黙った。
アーロンの「分からない」が、答えより怖いと初めて思った。
彼にさえ分からないなら、あたしたちは本当に、起きちゃいけないことの中に立っているのだ。
船底から、急に裂ける音がした。
歯を刃物で削られるみたいに、甲高い音。
全員が同時に震えた。
餘暉号が右へ少し傾き、酒樽が固定台の脇から転がり出て、二人の水夫を倒しかけた。
クレイゲンが、ついに声を取り戻した。
「見物は終わったか! 聖地で死にたい奴だけ、まだ見てろ!」
彼は邪魔な木片を蹴り飛ばす。
「ほかは船を見ろ!」
甲板がすぐに動き出した。
安心して動いたんじゃない。
まだ死ぬかもしれないと、みんな思い出したときの動きだった。
水夫たちは舷、帆柱、貨物室、下の階へ駆けた。工具を抱えて走る者、甲板に伏せて船板の下の音を聞く者。クレイゲンの命令が次々に落ち、さっきの重力より正確だった。
右舷の手すりが一部折れている。
船底には二か所、浸水がある。
淡水樽が一つ割れ、きれいな水が甲板じゅうへ流れていた。あの水たまりを見たとき、血を見るより胸が痛んだ。
乾パンがあちこちに散らばる。
工具箱はひっくり返った。
主帆柱の根元には、木の中に隠れた髪の毛みたいな細い割れ目がある。
船体の銘文は、さっき光ったことがある。
今は、疲れ果てたみたいに暗い。
餘暉号はまだ浮いている。
でも、代償は払った。
誰かが羅針盤を出した。
針は追い詰められた小虫みたいに回っている。
別の水夫が太陽を見上げた。
太陽は天坑の入口にある輪状の明かりの向こうで、位置だけは見える。でも東西南北はまるで教えてくれない。ここの光は上から入り、雲と山に乱反射されて、めちゃくちゃだ。
水流は環海に貼りついて、前へ進んでいる。
どこから来るのか、誰にも分からない。
どこへ行くのかも、誰にも分からない。
水夫の一人が小さく言った。
「戻れないんですか」
クレイゲンが彼を見た。
水夫は自分で顔を上げ、天坑の入口を見た。
もうそこは、遠くにある白く明るい空の輪だった。
あたしたちの頭上にある。
高い。
遠い。
海面は崖に貼りつき、船はここに浮いている。でも魚みたいに、あの光の輪まで上へ泳いで戻ることはできない。
彼は口を閉じた。
しばらくして、みんなが甲板に集まった。
集まった、というより。
誰も船の縁から離れすぎるのが怖く、かといって船の縁に寄るのも怖かった。
若い水夫たちは遠くの山を見て、まだ目を輝かせている。老水夫たちの顔は、もう自分の棺を選び始めたみたいだった。
「勝手に上陸はしない」クレイゲンは言った。
好奇心を顔に書いている連中を、じっと見て。
「珍しいもの見たさに船をここで失くしたい奴がいたら、先にそいつを下へ放る」
誰も反論しない。
でも、上陸はしなきゃならない。
割れた淡水樽は、勝手に生え直らない。
主帆柱の根元の裂け目も、みんなが祈ったからって小さくはならない。
木材がいる。
きれいな水がいる。
十分に高く、十分に安定した場所を探して、この環海の流れを、雲を、風を、出口がどこにあるかを見なくてはならない。
出口が本当にあるなら。
エイリンはヴァンスの隣に立ち、話を聞き終えて顔を上げた。
「入口が場所を変えられるなら、出口もあるはずよ」
ヴァンスが彼女を見る。
エイリンは続けた。
「水も、風も、古代精霊も流れている。ここが完全に閉じていないなら、いつかどこかへ流れていくわ」
ヴァンスは淡く言った。
「俺たちの行けない場所へ流れるかもしれない」
「だから探すの」
彼女は、当たり前のことみたいに言った。
さっき天坑から落ちて死にかけたのが自分じゃなかったみたいに。
クレイゲンが額を揉んだ。
「二手に分かれる」
彼は船を指した。
「俺は船に残る。修理、寄せられる緩い岸を探す、流れと風の記録。餘暉号は一か所で死ぬのを待てない」
それからアーロンを見た。
「お前は人を連れて陸へ上がれ」
アーロンはうなずく。
「淡水、木材、高い場所を探せ。ついでに、お前の古い道が毛一本でも残っているか見てこい」
アーロンは、その言い方を訂正しなかった。
道が残っているか、彼にも分からないということだ。
クレイゲンの目が甲板を巡った。
最後に、あたしの上で止まる。
胸の中で、すぐにとても嫌な感じがした。
「お前は上陸しろ」
あたしは一度まばたいた。
「あたし?」
「ああ」
「どうしてあたし?」
あたしは熄灯船みたいな、どこまで歩いても終わらない気味の悪い場所から出たばかりだ。それで天坑に呑まれかけた。今、目の前にある世界では、木が山より山らしく育ち、雲の中には船より大きなものが逆さに泳いでいる。
普通なら、こういうときは船に残すべきだ。
貨物室に隠れる。
できれば毛布も一枚ほしい。
クレイゲンは、あたしの腰の薬袋を見た。
「俺たちには、食う前にそれが人を食うかどうか教えてくれる奴がいる」
あたしは口を開いた。
理にかなっている。
理にかなったことは嫌いだ。
今回の場面は、皆さんにうまく伝わったでしょうか。
空間の状況を文章で表すのが、少し難しい場面でした。
地面の位置が変わっているため、この場面は船を横から見た構図になっています。作中の「左」は崖のようになった地面、「右」は反転した先の空を指しています。ここで補足させてください。
これまでの展開を覚えていますか?
珂拉は、あの怪異たちの「借りる」という要求から、ようやく逃げ出したばかりです。それなのに、今度はこんな場所へ向かわなければなりません。
なかなか苦労の絶えない旅ですね。
どうぞ第二節「海の果て」をお楽しみに。




