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16-7 借り痕

手が、こっちへ伸びてきました……!


思わずアクアみたいに叫びたくなる距離です。

 その手は、少しずつ近づいてきた。


 濡れて冷たい。


 白い。


 指先は、水に漬かって駄目になった魚骨みたいだった。


 あたしは艾琳の前に立ちはだかったまま、喉まで出かけた言葉を無理やり押し止める。


 あれは彼女のものだ。


 言えない。


 彼女のものじゃない。


 それも言えない。


 じゃあ何を言えばいいの。


 幽霊の子どもは箱の上へしゃがみ、空洞の目であたしを見ていた。


「別のものを渡して。」


 彼は言った。


「あなたたちの体から外したもの。」


 一瞬、意味が分からなかった。


 でも艾琳の方が早く動いた。


 肩へ垂れた銀髪の一束を掴み、腰から小刀を抜く。


「艾琳!」


 止まらない。


 刃が走る。


 小さな髪束が、掌へ落ちた。


 その銀髪は暗闇の中でも淡く光っていた。月の光に浸したみたいに。


 艾琳は髪を差し出す。


「これ。」


 大きな幽霊が止まった。


 濡れた冷たい手が、艾琳の掌へ向く。


 それは髪を受け取った。


 動きは遅い。


 とても慎重だった。


 大事なものを受け取るみたいに。


 濡れた体が後ろへ下がり始める。


 衣の裾が木板を引きずり、黒い水の筋を残した。


 通路が空いた。


 あたしは危うく膝をつきそうになった。


 本当に、危うく。


「行って。」


 幽霊の子どもが言う。


 これで終わったと思った。


 今日二つ目の、かなり馬鹿な考えだった。


 そこから少しも進まないうちに、前方へまた影が現れた。


 さっきのものより低い。


 体は歪んでいて、海水に浸かりすぎて骨まで緩んだみたいだった。


 そいつはあたしを見る。


「少し借りる。」


 足が止まる。


「少しだけ。」


 また言った。


 声はとても丁寧だった。


 丁寧すぎて、背毛が一本ずつ立つ。


 毛は抜きたくない。


 体の一部なんて、渡せるわけもない。


 そいつの視線が、あたしの薬包へ落ちた。


 手がすぐ薬包を押さえる。


 中にあるのは、ここまで苦労して残してきたものばかりだ。


 苦根草(にがねぐさ)


 止血葉(しけつよう)


 龍島から持ってきて、ずっと使い惜しみしていた銀毛草(ぎんもうそう)の乾葉が、ほんの一束。


 あたしは幽霊を見る。


 幽霊も、あたしを見る。


「少しだけ。」


 歯を食いしばり、薬包から貴重な薬草を少し抜いた。


 最高のものじゃない。


 でもかなり痛い。


 薬草を差し出す。


「持っていって。」


 幽霊が手を伸ばして受け取った。


 握られた瞬間、薬草は水に浸されたみたいに色を暗くする。


 そいつは下がった。


 道を空けた。


 暗闇へ消えていくその姿を見ながら、あたしが考えていたのは一つだけだった。


 もっと普通のを渡せばよかった。


 幽霊のくせに、選ぶ目がある。


 数歩もしないうちに、前からも後ろからも足音がした。


 一つ。


 二つ。


 どんどん増える。


 ぺた。


 ぺた。


 ぺた。


 濡れた足が木板を踏む音が、違う方向から近づいてくる。


 左から声がした。


「耳を借りる。」


 右から、別の声。


「名前を一つ。」


 もっと遠くで、何かが壁に貼りついて囁いた。


「帰る道を借りる。」


「使ったら返す。」


「使ったら返す。」


「使ったら返す。」


 どれも軽い声だった。


 どれも、本当に返してくれそうに聞こえた。


 体の芯まで冷える。


 暗闇の中から一つの影が頭を上げ、空洞の目をあたしの腰へ落とした。


「その中のもの。」


 水珠が脚に貼りつき、氷みたいに動いた。


 そいつが手を伸ばす。


「少し借りる。」


 幽霊の子どもが、急に箱から飛び下りた。


「もう渡しちゃ駄目。」


 怖いし、腹も立った。


「渡せって言ったの、あんたでしょ?」


 幽霊の子どもはあたしを見た。質問の意味が変だと思っているみたいに。


「あれは、あなたたちを放してもらうため。」


「今は?」


「あなたたちはもう渡した。」


 彼は周りを指す。


「他のものも、あなたたちが貸せるって知った。」


 危うく罵りそうになった。


 艾琳が先に息を吸う。


「つまり私たち、さっき水の中へ血を落としたみたいなことをしたの?」


 幽霊の子どもは空洞の目を一度瞬かせた。


「だいたい。」


「ついてきて。」


 彼は身を翻して走る。


「また囲まれたら、もう出られない。」


 あたしは艾琳を引いて追った。


 今度は、船がもっと悪くなった。


 通路は変わり続ける。


 さっき左にあった扉が、次の曲がり角では右にある。


 扉の向こうは、もう元の部屋じゃない。


 階段を上ったのに、逆にもっと低い船倉へ戻る。


 壁板から水が滲む。


 灯が一つ、また一つと消えていく。


 幽霊たちは走らない。


 歩いているだけだ。


 ぺた。


 ぺた。


 ぺた。


 あたしと艾琳がどれだけ走っても、あの濡れた足音は本当に遠ざかってくれない。


「手を借りる。」


「声を借りる。」


「気持ちを借りる。」


「使ったら返す。」


「使ったら返す。」


「使ったら返す。」


 あたしは「借りる」という言葉が嫌いになり始めた。


 かなり嫌いに。


 走り続けた末、幽霊の子どもが急に止まった。


 前方には、ほとんど同じに見える門枠がいくつも並んでいる。


 どの扉の奥も、薄暗い通路だ。


 違いが分からない。


 門枠。


 木板。


 影。


 腐木の匂い。


 全部同じ。


 幽霊の子どもも、すぐには出口を指ささなかった。


 その場に立ち、空洞の目で扉を見ている。何かを待っているみたいだった。


「どれ?」


 訊く。


 答えない。


 艾琳が急にあたしを掴んだ。


「あそこ。」


 いちばん右の扉を指す。


「あの扉の下に光がある。」


 見た。


 何もない。


 黒いだけだ。


「本当に?」


 艾琳の目は門枠の下をじっと見ている。


「すごく細い。でもある。」


 あたしには何も見えない。


 でも艾琳には見えた。


 取り戻したばかりの目が、初めて本当に役に立った。


 危険を呼んだんじゃない。


 道を見つけたんだ。


 あたしは艾琳を引き、その扉へ走った。


 幽霊の子どもは、その場に止まったままだった。


 振り返る。


「来ないの?」


 彼は暗闇の中に立ち、こっちを見ている。


 理由は答えない。


 濡れた影が、彼の背後から近づいていく。


 一つ。


 二つ。


 もっと。


 子どもの姿はゆっくり隠れていった。


 それでも、空洞の目だけはまだあたしたちを見ている。


「次は、あいつらと話しちゃ駄目。」


 彼は言った。


 子どもみたいだった。


 そして、子どもじゃないみたいでもあった。


 まだ何か言いたかった。


 でも艾琳が強くあたしを引く。


「珂拉!」


 もう見ている暇はなかった。


 艾琳が先に門を越える。


 あたしも続いた。


 門枠の下の木条は、思ったより高かった。


 足先が引っかかる。


 そのまま前へ転んだ。


 艾琳の手を掴んだままだったから、二人まとめて倒れる。


 体が門枠を抜けた、その瞬間。


 闇が消えた。


 湿った腐木の匂いが消えた。


 追ってくる足音が消えた。


 陽光が、まともに目へ刺さる。


 周りに音が戻った。


 水夫の話し声。


 縄を引きずる音。


 帆布が打たれる音。


 木桶がぶつかる音。


 浪が船体を叩く音。


 餘暉号(よきごう)が戻ってきた。


 陽光が眩しい。


 昼だった。


 あたしと艾琳は通路の真ん中に転がっていた。


 周りには数人の水夫が立っていて、全員わけが分からないという顔で見下ろしている。


 そのうちの若い水夫は、手に半分だけ湯の入った碗を持っていた。


 湯は半分、床へこぼれている。


 彼はあたしたちを睨んだ。


「あんたら二人、何してんだ?」


 あたしは床へ伏せたまま、息が切れて言葉が出ない。


 脚に力が入らない。


 胸は焼けたみたいだ。


 服も汗と海水で濡れている。


 でも彼らの顔を見る限り、あたしたちはただ角を走って曲がり、次の瞬間、別の扉から転がり出てきただけみたいだった。


「今、昼?」艾琳が訊いた。


 若い水夫は眉を寄せる。


「他に何があるんだよ。」


 あたしと艾琳は顔を見合わせた。


 艾琳の顔も白い。


 黄昏を覚えているのは、あたしたちだけだ。


 熄灯船(しょうとうせん)を。


 終わらない闇みたいに長かった、あの場所を。


 しばらく休んだあと、みんなは食堂へ集まった。


 水を三口飲んで、ようやく喉の中の乾いて冷たい感じを押し下げる。


 艾琳が経緯を一度話した。


 あたしも補った。


 熄灯船(しょうとうせん)餘暉号(よきごう)へ寄せてきたこと。


 何かが縄梯子を上ってきたこと。


 船倉が果てなくなったこと。


 魔力のない大きな幽霊。


 匂いのない幽霊の子ども。


 艾琳の目を求められたこと。


 髪と薬草を代わりに渡したこと。


 何かを渡したあと、さらに多くの幽霊が近づいてきたこと。


 最後に、光のある門枠から逃げ出したこと。


 何人かの老水夫は、聞き終えても笑わなかった。


 一人は顔を白くし、低く言う。


「戻れただけでいい。」


 もう一人は、手にした酒を少し海へ注いだ。


熄灯船(しょうとうせん)に借られたやつで、話を最後までできる者は少ない。」


 若い水夫たちの反応は、まるで違った。


 頭を打ったんじゃないかと言う者。


 海龍王の祝福で変な夢を見たんだと言う者。


 海上の瘴気の話まで出す者。


 好き勝手に言い合うのを聞きながら、あたしはさっきの若い水夫が持っていた半分残りのスープを、頭からかけてやりたくなった。


 凡スは直接笑いはしなかった。


 でも完全に信じている顔でもない。


 訊き方は実際的だった。


「どれくらい走った。」


 艾琳を見る。


 艾琳もあたしを見る。


「分からない。」あたしは言った。


「長かった。」艾琳が付け足す。


「外では一瞬だ。」


 凡スが言う。


「分かってる。」


 扎卡がやってきて、あたしたちの匂いを嗅いだ。


 後ずさりは我慢した。


「海水の匂い。」


 彼は言う。


「汗。恐怖。」


 少し止まった。


 眉がさらに寄る。


「他はない。」


 それが逆に、彼を嫌な顔にさせた。


 亞倫は卓の脇に座り、聞き終えてから一言だけ言った。


「俺も会ったことはない。」


 あたしは勢いよくそっちを見る。


「あんたも?」


「聞いたことがあるだけだ。」


 若い水夫たちに疑われるより、その方がずっと落ち着かなかった。


 亞倫でさえ、聞いただけ。


 つまり、手を伸ばせば答えを出してくれるものじゃない。


 あたしと艾琳がでたらめを言っていないと証明するため、みんなは確認を始めた。


 艾琳が切った銀髪の束は、本当に消えていた。


 切り口はまっすぐだった。


 あたしの薬包からも、あの薬草の束がなくなっていた。


 通路へ落ちていたわけじゃない。


 船中探しても見つからない。


「海に落ちたのかも。」


 若い水夫の一人が小さく言った。


 扎卡がそいつを見た。


 黙った。


 下を見た時、袖口に濡れた手形があるのに気づいた。


 小さい。


 子どもくらいの大きさ。


 袖を広げて、みんなへ見せる。


 艾琳がすぐ静かになった。


 凡スの顔も変わる。


 でもその手形は、すぐ薄くなり始めた。


 水の跡が乾いていく。


 匂いは残らない。


 何も残らない。


 まるで最初から存在しなかったみたいに。


 艾琳は少し減った髪に触れた。


「少なくとも、目はある。」


 小さな声だった。


 あたしは薬包を見下ろし、耳が伏せるくらい惜しくなった。


 もっと普通のを渡せばよかった。


 本当に。


 凡スは艾琳の目を確認した。


 余計なことは何も言わない。ただ遠くのマストを見させ、近くの杯を見させ、自分の指を見させる。


 艾琳は全部見えた。


 扎卡が水を渡してくれる。


 何も訊かない。


 受け取り、一息で飲み干した。


 亞倫は、あたしたちが転がり出た扉の前へ行った。


 その扉だ。


 しゃがみ込み、門枠と床を細かく調べる。


 木は乾いている。


 門枠は普通。


 床も普通。


 何もない。


 この出来事は、まるで起きなかったみたいだった。


 なくなったもの以外は。


 みんながまだ話している時、見張りの水夫が突然叫んだ。


「前方に山!」


 最初、その言葉自体はおかしくなかった。


 海で島を見ることも、礁を見ることも、遠い陸影を見ることも、珍しいわけじゃない。


 でもクライジェンが顔を上げた瞬間、表情が変わった。


 航路の前方に、山なんてあるはずがなかったからだ。


 全員が甲板へ押し出された。


 あたしも走る。


 遠い海面に、巨大な山体が立っていた。


 でもよく見ると、普通の島じゃない。


 海の真ん中に、とてつもなく大きな天坑が開いている。


 周囲の海水は、その壁に沿って絶えず下へ流れ落ちていた。


 そしてその山は、天坑の中央から生えていた。


 巨大な石柱みたいだった。


 山壁には奇妙な植物と垂れ下がる蔓がびっしり生えている。ほとんど垂直の石壁から木々が伸び、枝葉は淡い緑の光を帯びていた。海に抉り出され、そこを森が力ずくで奪い返した山みたいだった。


 湿った土の匂いがする。


 花粉。


 それから、強すぎる命の匂い。


 強すぎて、腐りかけているみたいな。


 水夫たちはすぐに、餘暉号(よきごう)がおかしいと気づいた。


 船がまともに向きを変えられない。


 海流が天坑の中心へ向かって動いている。


 普通の潮じゃない。


 船底の下で巨大な力が龍骨を掴み、周囲のすべてを下へ引き込んでいるみたいだった。


 流木。


 魚群。


 海草。


 遠くの小さな礁まで。


 全部が水面に沿って、天坑へ滑っていく。


 水夫たちは帆を畳み、舵を切り、縄を投げた。


 効かない。


 クライジェンが自分で舵輪を掴む。


 その顔色は、阿比斯(アビス)と対面した時より悪かった。


「全員、掴まれ!」


 歯を食いしばり、低く悪態をつく。


「今度こそ終わりだ。」


 亞倫は船首に立ち、遠くの天坑と巨山を見ていた。


 今回、すぐに策を出さない。


 ただ眉をひそめている。


「昔はここになかった。」


 声は軽い。


 なのに胃が沈んだ。


 熄灯船(しょうとうせん)が去ったばかりだ。


 今度は海そのものが船を呑もうとしている。


 あたしは船縁を掴み、海水が幾重にも輪を描いてあの山の下へ沈んでいくのを見た。


 餘暉号(よきごう)が傾き始める。


 みんなが叫んでいる。


 あたしは船縁を掴んだまま、一つのことしか考えられなかった。


 海の上に、平穏な日なんて本当に一日もない。

お読みいただきありがとうございます。


命は借られなかった。ひとまずは、それでよかったはずです。


……いや、ちょっと待ってください。


本当に無事なのでしょうか。


あの巨大な穴はいったい何だったのでしょう。


しかも、船がまた落ちていきました……!


次の篇章も、またかなり長いものになりそうです。


どうぞ第十七章『頂を極める峰々』をお楽しみに。

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