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16-6 終わらない船

ただ船に近づいただけ……なのでしょうか。


それとも、話はそんなに単純ではないのでしょうか……。


どうぞ、第六節「終わらない船」をお楽しみください。

 船の外は、一呼吸ぶん静かになった。


 それから、船側から音がした。


 浪じゃない。


 縄梯子が踏まれる音だ。


 一つ。


 また一つ。


 濡れている。


 遅い。


 水夫が慣れた手つきで登る音じゃない。


 何かが海から自分を引きずり上げていて、その一歩ごとに水を連れてくる音だった。


 水夫は、あいつらが船へ上がってくるなんて言ってなかった。


 頭の中には、それしか残らない。


 水夫が言ったのは、灯を点けるな。


 応えるな。


 船に誰がいるか見るな。


 でも、船にいたものが自分で降りてきたらどうすればいいかなんて、言っていない。


 確かめたくなかった。


 何なのかも知りたくない。


 艾琳の手を掴む。


「行く。」


 艾琳はまだ振り返ろうとした。


「でも——」


「命が先。」


 あたしは艾琳を引いて、食堂の奥の通路へ走った。


 止まらない。


 船の外から、また音がしたからだ。


 どん。


 今度はもっと近い。


 濡れ切った木材が船縁へぶつかったみたいな音だった。


 船室までは戻れなかった。


 通路の向こうから足音が来た。


 濡れている。


 遅い。


 ぺた。


 ぺた。


 ぺた。


 艾琳を引き、脇の貨箱の山へ滑り込む。


 木箱は高く積まれていて、中には乾糧や予備の縄、まだ使っていない木栓なんかが入っている。箱と箱のあいだに細い隙間があり、そこへ体を押し込む時、艾琳の肩が木角へぶつかった。


 声は出さなかった。


 あたしは横でしゃがみ、息を荒くしていた。


 胸の中に濡れ布を詰められたみたいだ。


 なのに艾琳はまだ頭を出そうとする。


 本当に出そうとしていた。


 あたしはその肩を押さえつける。


 せっかく目が戻ったのに。


 最初にすることが、見ちゃいけないものを見ることだなんて。


 あたしはいつか、こいつのせいで死ぬと思う。


 艾琳ごと後ろへ引きずろうとした、その時。


 左から声がした。


「何から隠れてるの?」


 あたしと艾琳は同時に固まった。


 さっきまで、そこには誰もいなかった。


 ゆっくり振り向く。


 箱の横に、一人の子どもがしゃがんでいた。


 少し透けている。


 水晶みたいな透明じゃない。


 水に浸されて薄くなった影みたいな透け方だった。


 両目は空洞。


 口元には血。


 服は濡れて体へ貼りつき、ぽたり、ぽたりと水を落としている。


 でも何より怖いのは、匂いがしないことだった。


 汗も。


 血も。


 子ども特有の匂いも。


 そこにいるのは、ただ影だけみたいだった。


 あたしと艾琳は一緒に叫んだ。


 子どもの方が驚いて、慌てて耳を塞ぐ。


「叫ばないで。」


 小さな声だった。


「見つかる。」


 脚の力が抜けそうになった。


 でも逃げたい気持ちは、ちゃんと残っている。


 子どもはそれを察したらしく、すぐまた言った。


「怖がらないで。」


 自分を指す。


「僕は借りない。」


 艾琳の反応は速かった。


 速すぎて、口を塞ぎたくなるくらいに。


「じゃあ、あなたは——」


 子どもが指を口元へ当てる。


「しっ。」


 箱の外の通路を見た。


「来た。」


 そのまま身を翻し、手足を使って箱の後ろを抜けていく。


「ついてきて。」


 あたしは子どもが消えた方を見る。


「幽霊についていくの?」息だけで訊いた。


 艾琳も息だけで返す。


「他に道ある?」


 すごく正しい。


 そして、すごく嫌だった。


 あたしたちはついていった。


 その子どもの動きは軽かった。


 狩りをしている動きじゃない。


 隠れ方をよく知っている子どもの動きだった。


 箱の下を潜り、低い木枠を越え、半開きの扉の隙間へ滑り込む。服からずっと水が落ちているのに、木板には濡れた跡が残らない。


 あたしと艾琳は腰を曲げて追うしかない。


 変な感じだった。


 子どもと隠れんぼをしているみたいで。


 ただし見つかったら、命を取られる。


 貨箱の間を抜ける。


 低い扉を抜ける。


 暗い通路を抜ける。


 周りはどんどん静かになった。


 餘暉号(よきごう)とは思えないくらいに。


 水夫の声がない。


 クライジェンの罵声もない。


 扎卡の重い足音もない。


 亞倫の匂いもない。


 この船には人が詰まっているはずなのに。


 今は、あたしたちだけしかいないみたいだった。


 足を止める。


 鼻で強く吸い込んだ。


 腐った木。


 塩水。


 古い船室の匂い。


 餘暉号(よきごう)にいつもある焦油の匂いがない。


 帕夫一家の松ぼっくりみたいな匂いも。


 おかしい。


 前を行く子どもが振り返った。


 空洞の目がこっちを見る。


「早く。」


 角を曲がろうとした。


 次の瞬間、子どもが勢いよく引っ込む。


 あたしと艾琳もすぐ壁際へ戻った。


 曲がり角の向こうに、大きなものが立っている。


 高すぎる。


 肩が通路の両側につかえ、頭を低くしないと立てないほどだった。


 破れた古い服をまとっている。服は水を吸って、ずっと滴っていた。体は海水でふやけたみたいに欠けているのに、ひどく重そうだ。


 そいつが頭を回すだけで、木板が低く呻いた。


 息を止める。


 頭の中には三つしかない。


 終わった。


 終わった。


 終わった。


 艾琳が横で息だけの声を出す。


「魔力、ないね。」


 あたしは睨んだ。


 そこが大事?


 次の瞬間、艾琳の顔色が変わった。


 訊くまでもない。


 背後に何かいる。


 ぺた。


 濡れた足が木板を踏む音。


 ぺた。


 もう一つ。


 考えるのはやめた。


 艾琳を引いて、走る。


 通路は狭い。


 木板は滑る。


 灯りが一つずつ後ろへ流れていく。


 角を曲がる。


 また一つ。


 また一つ。


 でも餘暉号(よきごう)は、こんなに大きいはずがない。


 ずいぶん走ったはずなのに、まだ通路にいる。


 三度目に同じ壊れた灯台を通り過ぎた時、ようやく足を止めた。


 灯台は壁に斜めに掛かっている。


 下には、歯で噛まれたみたいな裂け目。


 一度目に見た。


 二度目にも見た。


 そして今、三度目だ。


 迷ったんじゃない。


 船が変わっている。


 いや、あたしたちは餘暉号(よきごう)ではないどこかへ走り込んでいる。


「ここ、おかしい。」息を切らして言う。


 艾琳があたしの手を掴む。


「後ろ、まだいる。」


 ぺた。


 ぺた。


 ぺた。


 速くない。


 でも近づいてくる。


 食堂へ続く扉を開けた。


 中は貨倉だった。


 床には腐った木箱が転がり、箱の隙間から黒い海草が生えている。空気には長く閉じ込められた塩の匂いがあった。


 すぐ扉を閉める。


 階段を駆け上がった。


 次の瞬間、また下層の通路へ戻っている。


 壁の隙間から水が滲み始めた。


 木板には海草。


 踏まれた海草のいくつかは、ゆっくり起き上がった。まだ生きているみたいに。


 腐木の匂い。


 塩水。


 古い船室。


 それから、ごく薄い血の匂い。


 ここは餘暉号(よきごう)じゃない。


 少なくとも、全部は違う。


 子どもが前で急かす。


「こっち。」


 半開きの扉へ潜り込んだ。


 艾琳が続く。


 その足が敷居を越えた瞬間、濡れて冷たい手が扉の隙間から伸びた。


 手はひどく白い。


 長く水に浸けた魚の腹みたいな白さだ。


 指先が、艾琳の目へ触れかけた。


 艾琳の瞳がぎゅっと縮む。


 目の前が一瞬、暗くなったみたいに、足元がふらついた。


 全身の血が冷えた。


 あたしは艾琳を掴み、後ろへ引く。


 同時に短刀を抜いて、その手へ叩きつけた。


 刃は濡れ布へ沈むみたいに食い込んだ。


 血は出ない。


 黒水だけが垂れた。


 扉の隙間から低い声がする。


「少し借りるだけ。」


「少しだけ。」


 体が冷える。


 これは攻撃じゃない。


 むしろ、お願いに近い。


 あたしは艾琳を引きずって下がる。


「目、ある?」


 艾琳は瞬きをした。顔色はぞっとするほど白い。


「ある。」


「見える?」


「見える。」


 言いたい罵りは山ほどあった。


 でも後ろの足音がまた来る。


 ぺた。


 ぺた。


 ぺた。


 子どもはもう前へ走っていた。


「早く!」


 あたしたちはまた走った。


---


 何度目かの角を曲がったあと、前が行き止まりになった。


 湿った木の壁が立ち塞がっている。


 壁には海草が這い、隙間から一滴ずつ水が滲んでいた。扉も、窓も、潜れそうな穴もない。


 あたしは止まった。


 艾琳も止まる。


 後ろの足音が、ゆっくり近づいてくる。


 ぺた。


 ぺた。


 ぺた。


 命の残りを数えられているみたいだった。


 短刀を握り締める。


 艾琳は杖を上げた。


 杖先が一度光る。


 すぐ消える。


 艾琳の顔色がさらに白くなった。


「駄目。」


 低い声。


「魔力が外へ出ない。」


 その言葉は、足音より悪かった。


 あたしたちは、どこかに隔てられている。


 餘暉号(よきごう)ではない、どこかに。


 大きな幽霊が角に現れた。


 すぐ飛びかかってはこない。


 体を折り、一歩ずつ近づいてくる。


 水が衣の端から滴る。


 木板へ落ちる。


 ぺた。


 ぺた。


 そいつは艾琳を見ていた。


 正確には。


 艾琳の目を見ていた。


 そして言う。


「少し借りる。」


 あたしはすぐ艾琳の前へ立った。


 言葉はもう喉まで来ていた。


 それは彼女のものだ。


 でも幽霊の子どもが突然声を出す。


「彼女のだって言っちゃ駄目。」


 固まる。


 子どもは脇の箱の上へしゃがみ、空洞の目であたしを見ていた。


 また言う。


「違うとも言わないで。」


 濡れて冷たい手が、ゆっくり伸びてくる。

お読みいただきありがとうございます。


終わった。


行き止まりです。


あの子は、「それは自分のものだ」と言ってもいけないし、「自分のものではない」と言ってもいけないと言いました。


では、私たちはいったい何と答えればいいのでしょうか。


どうぞ第七節「借り痕」をお楽しみに。

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