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16-5 借り物

あ……眠ってしまったのでしょうか。


まあ、少なくとも無事ではありますよね?


……ですよね?

 目が覚めた時、頬を何かに叩かれた。


 一回。


 もう一回。


 あたしは勢いよく目を開けた。


 手にはまだ短刀が握られている。


 体が先に強張り、耳は伏せ、尾まで膨らみかけた。


 でも熄灯船(しょうとうせん)じゃなかった。


 扉の隙間から這い込んできた何かでもない。


 帕夫だった。


 あたしの横に座り、前足で顔を叩いている。黒くてつやつやした目でこっちを見て、朝だ、起きろ、とでも言いたげだった。


 四匹の子松鼠は、その後ろで固まって、こっちを覗いている。


 自分の格好を見下ろした。


 毛布にくるまっている。


 短刀を握っている。


 木栓はまだ差したまま。


 昨夜、あたしはこの状態で眠り落ちたらしい。


 少し恥ずかしい。


 でも認めないことにした。


 起き上がり、短刀を腰へ戻す。


「見張りをしてたの。」


 帕夫が首を傾げた。


 四匹の子松鼠も一緒に首を傾げる。


 よし。


 何も分かっていない。


---


 朝食のあと、艾琳と凡スを見つけた。


 二人は船縁のそばにいた。


 艾琳は一桶の清水をじっと見つめている。その水の中に何か大事な秘密でも隠れているみたいに。凡スは横に立ち、左手を欄干へ置いて、指を一度握り、また開いていた。


 まだ、その手に慣れている途中なんだ。


 あたしは近づいて、前置きもなく訊いた。


「幽霊とか、信じる?」


 艾琳が固まる。


 凡スがあたしを一瞥した。


 その目は分かりやすすぎた。


 昨夜、寝方でも間違えて頭をやったのか、みたいな目だった。


 艾琳は少し考える。


「森にも似たような伝承はあるよ。」


 水桶の縁から手を離す。


「黄昏に森の端へ立ってはいけない。知り合いの声を真似るものがいる。返事をすると、自分の声を貸し出してしまう。」


「貸したらどうなるの?」


「そのあと、うまく喋れなくなる。」


 艾琳はかなり真剣だった。


「そういうものは竊音者(せつおんしゃ)って呼ばれる。」


 一拍置いて、すぐ笑う。


「まあ、たぶん子どもを怖がらせる話だけどね。昔、長老たちが黄昏になっても帰らない小精靈を脅すのによく使ってた。」


 凡スが手を上げ、拳で艾琳の頭を軽く叩く。


「噂を広めるな。」


 艾琳は頭を押さえた。


「広めてないよ。」


「今、広めた。」


「たぶん話だって言ったもん。」


 二人の声が行ったり来たりする。


 普段なら、うるさいと思うところだ。


 でも今は、少しだけ安心した。


 それでも笑えない。


「本当だったら?」


 艾琳の笑いが止まる。


 凡スもこっちを見た。


 あたしは昨夜、水夫から聞いた熄灯船(しょうとうせん)の話をした。


 熄灯船(しょうとうせん)を見ても、灯を点けるな。


 誰かに呼ばれても、応えるな。


 船が寄ってきても、誰が乗っているか見るな。


 なぜなら、あれは物を借りるから。


 目。


 手。


 脚。


 影。


 名前。


 借りたら、返さない。


 聞き終えた艾琳の最初の反応は、恐怖じゃなかった。


 目が輝いた。


 本当に輝いた。


 阿比斯(アビス)に治されたその目が、かなりよくない光を放っている。


「本当に灯がないの?」


 あたしは艾琳を見る。


「そこが大事?」


「船に人はいる?」


「見てない。」


「借りるって、どう借りるの? 交換? 奪う? それとも契約みたいなもの?」


「艾琳。」


「名前を借りるなら、名前を知る必要があるのかな。それとも返事さえすれば、声だけで足りる?」


 凡スが冷たく口を挟んだ。


「水夫が新人を脅す話を、本気にするのか。」


 すぐそっちを見る。


「あたしは新人じゃない。」


 凡スの視線が、あたしの目の下へ落ちる。


「昨夜、寝てないな。」


 黙った。


 艾琳が瞬きをする。


「珂拉?」


「寝た。」


「どこで?」


「寝台。」


 嘘じゃない。


 確かに寝台にはいた。


 毛布を巻いて、短刀を握って、自分を石にするくらい怖がった猫みたいな格好だっただけで。


 その時、扎卡がやってきた。


 手には濡れた海草の袋を下げている。


「嬢ちゃん。」


 振り向く。


 扎卡はその袋をこっちへ差し出した。


「昨夜、渡すつもりだった。」


 受け取る。


 中には深緑の海草が数束入っていた。少し苦い匂いがする。火傷に貼る薬にできそうだ。


「そしたら、お前、尾を挟んで逃げた。」


 甲板が一瞬、静かになった。


 艾琳の口元がゆっくり上がる。


 凡スは目を閉じた。


 あたしは扎卡を見る。


「昨夜?」


 扎卡が眉を寄せる。


「扉を叩いた。お前、応えなかった。」


 耳がゆっくり後ろへ伏せる。


「喋った?」


「喋った。」扎卡は少し考えた。「聞こえなかったのか?」


 その瞬間、分かった。


 扉の外で揺らしていたのは扎卡だ。


 あの重くて、大きくて、熱い手も。


 艾琳がとうとう笑い出した。


 大きくはない。


 でも明るい笑いだった。


 凡スは首を振る。


 扎卡だけが、あたしたちを見ている。


「何だ?」


「何でもない。」


「顔が赤いぞ。」


「日差し。」


 今は午前だ。


 確かに日差しは明るい。


 でも、できれば船底に自分を埋めたいくらいだった。


 これ以上笑われないために、あたしは仕事を探し始めた。


 料理。


 薬草の整理。


 扎卡がくれた海草の処理。


 帕夫一家の餌探し。


 奧布里の脚の確認。


 凡スの左手の様子を見ること。


 とても自然に忙しくした。


 誰が見ても、恥ずかしさから逃げていると分かるくらい自然に。


 奧布里は甲板の端に座り、ゆっくり自分の膝を曲げていた。


 一つ一つの動きが慎重だ。


 その脚が、ただ一時的に借りてきたもので、少し力を入れたら取り上げられてしまうとでも思っているみたいに。


 しゃがんで、足首に触れる。


「痛む?」


「痛くない。」


「痺れは?」


「少し。」


 自分の足指が動くのを見ている。


「言うことは聞く。まだ信じきれないだけだ。」


 頷く。


「ゆっくりでいい。」


 凡スの左手は、前より力が強くなっていた。


 本人も分かっている。


 縄を握って試すと、指の節が締まるたびに縄がかすかに擦れた。でも浪が船縁を叩くと、指がふいに止まる。


「冷える?」


 凡スがあたしを見る。


「薄くだ。」


「今、体ごと止まった。」


「お前がずっと俺の手を見ているからだ。」


「あたしは薬師。」


「それで?」


「だから見る理由がある。」


 凡スは返事をしなかった。


 でも左手を欄干から下ろし、指先を少しだけ動かした。


 艾琳は、水の中に前は見えなかった光が見えると言った。


 魚じゃない。


 魔力そのものでもない。


 水流の中に細い糸みたいなものが隠れていて、それが船体を回り、遠くへ伸びているのだと。


 そう話しているあいだ、あいつはずっと海を見ていた。


 集中しすぎるくらいに。


 その見方が、あたしはあまり好きじゃなかった。


 特に、熄灯船(しょうとうせん)の話を聞いたあとでは。


 午後はゆっくり過ぎていった。


---


 黄昏は、急に来た。


 夏の昼は暑く、甲板にはまだ昼の熱が残っていた。なのに空が沈み始めると、船内の通路はすぐ陰った。


 熄灯船(しょうとうせん)が気になっているなんて認めたくない。


 それでも、なるべく甲板にはいないようにした。


 ただ、甲板を通りかかった時、つい一度だけ見てしまった。


 そして艾琳が船縁に立っているのを見た。


 遠くを見ている。


 ただ海を眺めているんじゃない。


 あまりにも真剣だった。


 胸が締まる。


「艾琳?」


 振り返らない。


 近づいて、その視線の先を見る。


 遠い海面に、黒い影があった。


 最初は、よく見えない。


 瞳を細める。


 あれは船に似ている。


 灯はない。


 帆もない。


 水夫の声もしない。


 ただそこに止まっていた。


 夜から切り取った木片みたいに黒い。


 全身の毛が、ゆっくり立ち上がる。


 艾琳がふいに口を開いた。


「待って。」


 少し前へ身を乗り出す。


「船に人がいる。」


 もう確かめなかった。


 あたしは駆け寄り、ありったけの力で艾琳を抱え上げ、そのまま走った。


「珂拉?!」


 耳元で声が弾ける。


 答えない。


 答えられない。


 というか、あいつは熄灯船(しょうとうせん)じゃない。


 たぶん答えていい。


 でも今、頭の中には一つしかない。


 見るな。


 応えるな。


 近づくな。


 食堂まで艾琳を引きずっていった。


 正確には、半分抱えて、半分引きずった。


 見た目より重い。


 精靈は本当に、あんなに背を伸ばすべきじゃない。


 艾琳を下ろした時、あたしも床へ突っ伏して息を切らしていた。尾はまだ硬い。


 艾琳は驚いていた。


 でもすぐに反応する。


 目が、むしろさっきより輝いた。


「つまり、伝承は本当なの?」


 殴りたくなった。


「さっき、船に人がいるって言った。」


「いた。」艾琳はすぐ答える。「影が見えた。たくさん。ぎっしり立ってた。」


 背毛が一本ずつ立つ。


 艾琳が立ち上がった。


「ちゃんと見ないと。」


「駄目。」


「本当に何かなら、見ないふりはできない。」


 外へ行こうとする。


 あたしは手を伸ばし、服の端を掴んだ。


 指に力が入る。


 艾琳が止まる。


 あたしはまだ床に這ったままで、息もだいぶ乱れていた。


「もう……」


 声が少し詰まる。


 歯を食いしばる。


「あんたに、また何か失ってほしくない。」


 艾琳が固まった。


 食堂には灯が一つだけ。


 小さな火がその顔を照らしていて、目がいつもより明るく、そして静かに見えた。


 艾琳はしゃがんだ。


 子どもをあやすみたいに頭を撫でたりはしない。


 ただ、あたしが服を掴んでいる手の甲へ、自分の手を置いた。


「そっか。そこを気にしてたんだ。」


 見ない。


「他に何があるの。」


 艾琳は少し黙る。


 それから、声を真面目にした。


「でも、珂拉。」


「見ない方が危ないものもあるよ。」


 また立ち上がろうとする。


 その時、音がした。


 甲板からじゃない。


 船の外から。


 重い木板同士が擦れる音。


 どん。


 どん、ろ。


 食堂の水杯が揺れた。


 壁の灯も震える。


 艾琳が止まる。


 もう一度。


 どん。


 浪じゃない。


 何かが、餘暉号(よきごう)へ寄せてきたんだ。

お読みいただきありがとうございます。


なんとも見事な勘違いでした。


そして、困ったことに、それは本当にただの勘違いでは済まなかったのです。


では今、何かがこちらへ上がってこようとしているのでしょうか。


それにしても、艾琳はこんな時でもまだ好奇心を失っていません。皆さんの周りにもいませんか? お化け屋敷や山奥のような、普通なら近づきたくない場所にこそ、わくわくしてしまう人が。


考えている場合ではありません。今は、走らなければ。


どうぞ第六節「終わらない船」をお楽しみに。

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