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16-4 応えるな

一回休み……なのでしょうか。


けれど、海は決して私たちを見逃してはくれません。


今度は、いったい何が待っているのでしょう。

 翌日の夜には、船の上はまた静かになっていた。


 少なくとも、見た目は。


 昼間のうちは、みんなまだ阿比斯(アビス)の神蹟に浮かれていた。水夫たちの足取りも、数日前より少し軽かった。


 でも夜になると、その声は全部引いていった。


 海面は暗い。


 風は少ない。


 昼間に陽を浴びた船板には、まだ少し熱が残っていた。裸足で踏むと、木の中にこもった温もりが分かる。


 眠れなかった。


 疲れていないわけじゃない。


 とても疲れている。


 でも目を閉じると、船より大きかった阿比斯(アビス)の眼が浮かぶ。


 それから、あの言葉も。


 お前の願いは傲慢だ。


 甲板へ上がると、亞倫は縄を整理していた。


 酒樽の固定台のそばへしゃがみ、海水を吸って緩んだ縄を何本か締め直している。クライジェンは少し離れたところで航海図を見て、ときどき低く何か言った。亞倫はそのたび、木板の上へ方向を印していく。


 海龍王に偽神(ぎしん)授福者(じゅふくしゃ)と呼ばれたばかりの人間には、まるで見えなかった。


 そこが腹立たしい。


 あたしは横へ行く。


偽神(ぎしん)って何?」


 亞倫の手は止まらない。


 縄を鉄具へ通し、引き絞り、結ぶ。


 しばらく待った。


 まだ喋らない。


「艾琳は、精靈は古の精靈を信じるって言ってた。水夫は海を敬う。矮人は炉火と石。」


 その手を見る。


「でも、偽神なんて聞いたことない。」


 亞倫は結び目を引き締めた。


「俺も知らない。」


 その答えは軽すぎた。


 軽くて、何度も人へ投げてきた言葉みたいだった。


 眉を寄せる。


「本当に知らないの? それとも言いたくないの?」


 亞倫があたしを見る。


「本当に知らない。」


 立ち上がり、次の固定台を見に行く。


「初めて祂に会った時から、そう呼ばれている。」


「聞いた?」


「聞いた。」


「何て言われたの?」


 亞倫は別の縄を木杭へ巻きつける。


「笑われた。」


「それで?」


「それからは聞いてない。」


 じっと見た。


 すごく亞倫らしい。


 他の人なら、海そのものを頭下げさせる存在に妙な名で呼ばれたら、死ぬまで問い詰めるかもしれない。


 亞倫は違う。


 一度聞く。


 相手が笑う。


 それでそのことを心のどこか、暗くて深いところへしまって、そのまま前へ進む。


「でも、授福者(じゅふくしゃ)って言ってた。」


 声が少し低くなる。


「艾琳も前に言ってたよね。あんたにあるものは、呪いじゃなくて祝福かもしれないって。」


 亞倫の手が一瞬だけ止まった。


 本当に、一瞬。


 次の瞬間には、また縄を引いていた。


「もしあれが祝福なら。」


 亞倫は言う。


「そう呼ぶには、あまりいい感じはしない。」


 海水が船体を軽く叩く。


 一つ。


 また一つ。


 どうして次の言葉を訊いたのか、自分でも分からなかった。


 阿比斯(アビス)が凡スたちを治したからかもしれない。


 それとも、祝福という言葉があまりに明るすぎて、亞倫の中にあるものと並べるには眩しすぎたからかもしれない。


「それでも、全部終わらせたい?」


 亞倫はすぐには答えなかった。


 酒樽の横に立ち、手にはまだ縄を握っている。


 海の音が、あたしたちのあいだへ入り込む。


 風に揺れた縄が、木板へ小さく当たった。


 こっ。


 軽い。


 本来、鳴るはずのない場所から鳴ったみたいな音だった。


 しばらくして、亞倫が口を開く。


「艾琳と凡スたちはどうだ。」


 あたしは彼を見る。


 話を変えた。


 しかも、あからさまに。


 それでも答えた。


「艾琳は、前に見えなかったものまで見えるって言ってた。」


 亞倫が目を上げる。


「例えば?」


「魔力の流れ。海の気配。前は感じるだけだったものが、今は形まで見えるって。」


 少し考える。


「凡スの左手は前より力が強い。でも、浪が船を叩くと、冷えるらしい。」


「奧布里は?」


「歩ける。」


 少し止まる。


「でも、まだあんまり喋らない。」


 亞倫は頷いた。


 すぐには何も言わない。


 夜の中で、船灯がその横顔に淡い線を作っていた。


「失ったものが、全部戻るわけじゃない。」


 萊克斯のことだと分かった。


 その言葉は甲板の上へ落ちた。


 誰も拾わない。


 拾う必要もなかった。


「聞いてないのか?」


 後ろから声がした。


 振り返る。


 年配の水夫がマストのそばに立っていた。腕には濡れた縄を抱えている。灯りに刻まれた顔の皺は深く、目だけがずっと海面の方へ動いていた。


「ここ数日、海が落ち着かん。」声を低くする。「夜は甲板に長くいない方がいい。」


 亞倫を見る。


 亞倫は黙っている。


 あたしは水夫へ視線を戻した。


「どうして?」


 老水夫は、あまり話したくなさそうだった。


 でもあたしの顔を見ると、口元が少し動いた。


 笑いじゃない。


 さっき口を出したことを後悔しているみたいな動きだった。


熄灯船(しょうとうせん)だ。」


 瞬きをする。


「灯りのない船?」


「違う。」老水夫はすぐ言った。「熄灯船(しょうとうせん)だ。」


 抱えた縄を、少し強く抱き直す。


「昔は灯があったからだ。」


 風が甲板を撫でた。


 灯火が揺れる。


「今は、灯っていいはずがない。」


 首の後ろの毛が、少しずつ立っていく。


 老水夫は左右を見る。


「決まりは三つ。」


熄灯船(しょうとうせん)を見ても、灯を点けるな。」


「誰かに呼ばれても、応えるな。」


「船が寄ってきても、誰が乗っているか見るな。」


 眉をひそめる。


「どうして?」


 老水夫があたしを見る。


「あれは、物を借りる。」


「借りる?」


「目。手。脚。影。名前。」


 声がさらに低くなる。


「借りたら、返さない。」


 手が勝手に胸元へ行く。


 心鳴(しんめい)が服の下で肌に触れていた。


 船室の出入口の方は見ない。


 でも頭の中にはもう、布で目を覆った艾琳の姿が浮かんでいる。


 凡スの空いた左側。


 奧布里の寝台脇に置かれた折れた刀柄も。


 老水夫はそれだけ言うと去っていった。


 話が終わったからじゃない。


 これ以上、甲板にいたくなかったんだ。


 足取りは速かった。抱えた縄から水が滴り、すぐに出入口の向こうへ消える。


 甲板には、あたしと亞倫だけが残る。


 それから低い船灯がいくつか。


 水夫が去ったあと、空気が変わった。


 急に霧が出たわけじゃない。


 黒い影が海面から立ったわけでもない。


 ただ、冷えた。


 季節に合わない冷たさだ。


 さっきまで少し熱を持っていた船板が、下から海水に浸されたみたいに冷えていく。


 首の後ろの毛が膨らむ。


 尾も硬くなった。


 鼻が、湿った木の匂いを拾う。


 古い縄の匂い。


 それから、とても薄い海草の匂い。


 いつもとは違った。


 亞倫は海面を見る。


 大丈夫、とは言わない。


 ただ言った。


「行くぞ。」


 あたしは彼を見る。


「信じるの?」


 亞倫は最後の縄をまとめる。


「ここは冷えた。」


 質問には答えていない。


 答えない方が、よほど嫌だった。


 あたしたちは船室の出入口へ向かった。


 通路はもともと暗い。


 でも今夜は、もっと暗い。


 いくつかの船灯が消えていて、遠くに薄黄色の火が少し残っているだけだった。木板には昼の湿り気が残り、踏むと少し粘る音がする。


 壁際に縄が掛かっている。


 影が揺れる。


 誰かが腕を垂らして立っているみたいに。


 船板が軋んだ。


 ぎい。


 普段なら、この程度の音は怖くない。


 船は鳴る。


 木も鳴る。


 縄も鳴る。


 水桶だって鳴る。


 でも、今は熄灯船(しょうとうせん)の話を聞いたばかりだ。


 何の音も、まともに聞こえない。


 心の中で何度も繰り返す。


 行かない。


 見ない。


 応えない。


 前の灯が揺れた。


 亞倫を見ようとして振り返る。


 後ろにいなかった。


 たぶん出入口のところでクライジェンに呼ばれたんだ。


 あるいは別の道を行ったのかもしれない。


 緊張する必要はない。


 分かっている。


 でも通路は暗すぎた。


 水夫の言葉は、はっきりしすぎていた。


 それにこの船は、ついさっき海龍王に触れられたばかりだ。


 何もかもが、前とは違っているみたいに感じる。


 後ろから足音がした。


 近い。


 振り返らない。


 その足音も、すぐには追いついてこない。


 ただ、ついてくる。


 一歩。


 一歩。


 あたしは少しずつ早足になる。


 後ろの足音も、近づいてくる気がした。


 行かない。


 見ない。


 応えない。


 通路の先は、もう自分の船室だ。


 あと少し。


 あと少しだけ。


 肩に手が置かれた。


 重い。


 大きい。


 熱い。


 その瞬間、あたしは白礁(はくしょう)へ戻っていた。


 黒泥。


 触手。


 嗜土怪(しどかい)が踵のすぐ後ろを滑ってくる、あの湿った音。


 体が頭より先に動く。


 短く声が漏れた。喉から出た音は人のものじゃなくて、尾を踏まれた猫みたいだった。


 肩をすくめる。


 低く沈む。


 そのまま飛び出す。


 どん。


 船室へ飛び込み、力いっぱい扉を閉めた。


 木栓を差す。


 手がまだ震えている。


 帕夫一家が飛び起きた。


 四匹の子松鼠が一塊になり、帕夫はその前へ立つ。尾を膨らませ、黒く光る目で扉を睨んでいた。


 あたしは毛布を掴んで、自分に巻きつける。


 もう片方の手で短刀を握った。


 扉の外は、最初は静かだった。


 扉の隙間を睨む。


 息を大きくしないようにする。


 少しして、木扉が軽く揺れた。


 こっ。


 強くはない。


 誰かが鍵がかかっているか確かめたみたいな揺れだった。


 息を止める。


 扉がもう一度揺れる。


 こっ。


 応えない。


 開けない。


 外の誰かは、すぐには去らなかった。


 扉の向こうで低く何かを言う声がした。


 聞き取れない。


 あるいは、聞き取るのが怖かった。


 短刀を握る手に力が入りすぎていた。


 掌が痛むほどに。


 頭の中には、さっきの水夫の言葉しかない。


 誰かに呼ばれても、応えるな。


 長い時間が過ぎて、ようやく外に動きがあった。


 あたしは短刀を握ったまま、扉を睨み続ける。


 外の足音が、ゆっくり遠ざかっていくまで。


 一歩。


 また一歩。


 最後には、何もなくなった。


 それでも、あたしは応えなかった。

お読みいただきありがとうございます。


ちょっと待ってください。あの大きな手と、声を出さないあの人物は、いったい何なのでしょうか。


応えてはいけない。なぜなら、彼らは「借りて」いくからです。


手を? 目を? それとも、まだ私たちが思いもしていない何かを?


もちろん、すべてはただの伝承なのかもしれません。ただ、これまでの伏線は少し分かりやすすぎましたかね。ふふ。


どうぞ第五節「借り物」をお楽しみに。

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