16-3 本題
神にも比肩するような存在。
それなのに、思ったほど気難しくはなさそうです。
さあ、見ていきましょう。
阿比斯が餘暉号を見下ろしていた。
全員がまだ、祂の出現の衝撃に沈んでいる。
水夫たちは跪いたまま。
クライジェンは舵輪を支え、顔色を失っている。
凡スは船室の出入口に立ち、指を扉枠へ食い込ませていた。艾琳はその後ろに座り、目を覆う布が風で頬へ貼りついている。奧布里も誰かに支えられて出入口のそばまで来ていた。木段に半ば腰を下ろし、目の前の影がどれほど大きいのか、まだ分かっていないみたいだった。
亞倫だけが、甲板の前の方に立っている。
顔を上げたまま。
神明を初めて見る人間には見えなかった。
亞倫と海龍王の話は聞いていた。
阿比斯に呑み込まれたことがあるのも知っている。
その腹の中で、死ねなかったことも。
それでも、本当にああして阿比斯の前へ立っているのを見ると、やっぱりおかしかった。
崖の下に立った人間が、山そのものに向かって「通してくれ」と言ってるみたいで。
阿比斯は口を開かなかった。
それでも声は、全員の体の中へ落ちた。
「またお前か。」
低すぎる声だった。
声というより、海底の岩盤がゆっくり動く音に近い。
「偽神の授福者。」
亞倫の表情は、ほとんど変わらなかった。
でも、あたしは気づいた。
一瞬だけ止まったことに。
本当に短い。
波が船腹を打つ音に、かすかな余分が混ざったくらいの短さだった。
亞倫は聞き返さない。
ただ口を開いた。
「力を貸してほしい。」
周りの人たちが、ようやく自分たちはまだ息をしていいのだと思い出したみたいだった。
誰かが息を吸う音がする。
甲板を掴んでいた指が一度緩み、すぐまた戻る。
亞倫は阿比斯を見上げたまま、声を張らない。それでも、この押し潰された海の上で、はっきり聞こえた。
「奧雷斯には、深海の沸騰岩が必要だ。」
雨水が外套を伝って落ちていく。
「あれは、あなたが動いた深海の火脈の近くにしかない。矮人たちは烈酒と交換したがっている。」
一拍置く。
「一度きりじゃない。」
「長期の供物として。」
阿比斯が低く笑った。
龍の口はまだ開いていない。
なのにその笑いは海底から伝わってくるみたいで、船底を抜け、骨を抜け、餘暉号全体をかすかに震わせた。
「人間。」
祂は言った。
「なら、矮人の価値を見せてみろ。」
クライジェンがようやく動いた。
振り返り、水夫たちへ手で合図する。
誰も大声は出さない。
水夫たちは甲板下へ走った。すぐに一樽目が押し出される。
二樽目。
三樽目。
十五樽の大酒が、一つずつ甲板の中央へ固定されていく。
船の上の人間から見れば、大きな酒樽だった。
どれも、あたし一人くらいなら入る。
でも阿比斯の前では、哀れなくらい小さい。
木でできた小さな果実が十五個。
そのくらいにしか見えなかった。
亞倫が言っていた「全然足りない」の意味が、急に分かった。
なのに亞倫は、少しも気まずそうにしない。
それどころか阿比斯を見上げ、酒場で主人と値段の話でもしているみたいな平らな声で言った。
「深海の覇主ともあろう方が、この価値を味で分からないはずがない。」
尾が固まった。
亞倫に聞きたかった。
あんた、どうしてまだ生きてるの。
次の瞬間、船の周りから海水が立ち上がった。
波じゃない。
水柱だ。
何本もの水柱が酒樽を巻き、一つずつ空へ持ち上げていく。
木樽が宙で割れた。
濃い酒液が流れ出し、海水へ混ざる。
暗赤の酒が広がった。
血色の水龍巻みたいだった。
酒の香りが、雨の匂いも、塩の匂いも、海の底にある重い生臭さも押しのける。
阿比斯が、ほんの少し口を開いた。
それだけで、その血色の水龍巻は祂の口へ吸い込まれていく。
それから、静寂。
長い。
誰もが待っていた。
水夫は欄干を掴む。
クライジェンの手は舵輪の上。
海靈たちは頭を上げない。
あたしは自分の心臓の音を聞いていた。
一つ。
また一つ。
胸の中で誰かが戸を叩いているみたいだった。
ようやく、阿比斯の声がまた降りてくる。
「面白い。」
祂は少し止めた。
「酒は減らすな。」
その瞬間、全員が分かった。
成功したんだ。
誰かが手を離し、その場で甲板へ座り込む。
誰かが笑った。
誰かが低く悪態をつく。ずっと詰めていた息を、ようやく吐き出したみたいに。
クライジェンは目を閉じた。手はまだ舵輪に置いたままだ。
あたしの胸も、少しだけ軽くなる。
成功した。
本当に、成功した。
あれだけ払ったものが、やっと無駄じゃなくなった。
でもすぐに、白礁を思い出した。
萊克斯を。
浮かび上がった喜びは消えない。
ただ、低く押し込まれた。
みんなは、もう本題は終わったと思っていた。
でも阿比斯は去らなかった。
船より大きな眼が、ゆっくりあたしへ向く。
声がまた響いた。
今度は、さっきみたいに全員へ落ちたんじゃない。
あたしの体だけに落ちてきた。
「小さきもの。」
あたしは固まった。
すぐ周りを見る。
亞倫は動かない。
クライジェンはまだ阿比斯を見ている。
艾琳は少しだけ顔を傾けていた。何かに気づいたけど、聞き取れてはいないみたいに。
凡スも反応していない。
なら、今のはあたしに向けた言葉だ。
顔を上げる。
神明と並ぶほどの海の王を見る。
阿比斯は言った。
「お前の願いは傲慢だ。」
手が勝手に胸元を押さえた。
心鳴がそこにある。
「叶うことはない。」
すぐには意味が分からなかった。
いや。
分かりたくなかった。
阿比斯が一度、言葉を止める。
迷っているような間じゃない。
古い存在が、取るに足りない小さなことのために、わざわざ身を屈めるかどうか決めているみたいな間だった。
そして、声がまた落ちる。
「だが、この程度ならできる。」
白い水気が阿比斯の口から広がった。
眩しい光じゃない。
霧だ。
温かい霧。
塩の匂いがして、夢の中で触れたあの海の温度もあった。
霧は甲板を撫でる。
水夫たちを。
負傷者たちを。
そして、あたしを。
最初に、自分の傷が痛まなくなった。
掌の裂けたところが刺さない。
小腿も疼かない。
肩の奥に残っていた鈍い重さも、潮に少し持っていかれたみたいに軽くなった。
反応する前に、誰かが叫んだ。
「凡ス、お前の手——」
あたしは勢いよく振り向く。
凡スは船室の出入口近くに立っていた。
左手が戻っていた。
最初からそこにあったみたいに、じゃない。
海水が失くした形を少しずつ満たしていくみたいに。
骨。
筋。
皮膚。
指の節。
最後に、指先がかすかに動いた。
掌には薄い銀白の紋が輪になって残っている。引き潮のあと、礁に残る潮の線みたいだった。
凡スは自分の手を見下ろしている。
長いこと、動かなかった。
反対側で、艾琳の声がした。
いつもの、興奮した時の声だ。
明るくて。
早くて。
押さえきれない声。
あいつは甲板に膝をつき、目を覆う布へ指をかけていた。
布が落ちる。
目が開いた。
目元には淡い水光がある。霧がまだそこに留まっているみたいだった。
見えている。
艾琳は阿比斯を見た。
それから頭を下げ、その神明みたいな王へ敬意を捧げる。
奧布里の脚も戻っていた。
叫びはしない。
ただ甲板に座ったまま、両手でゆっくり自分の膝を、小腿を、足首を撫でていた。
一度。
もう一度。
自分のものなのか、まだ確かめられないみたいに。
船の上の声が、少しずつ大きくなる。
驚き。
笑い。
息を呑む音。
跪く人。
顔を手で覆う人。
みんなは、海龍王があたしたちの苦労を見て、慈悲を与えてくれたのだと思っていた。
あたしだけが、その場に立ったまま。
阿比斯を見ていた。
胸の中に浮かんだ考えを、確かめるのも怖い。
認めるのも怖い。
だって、それはあまりにも思い上がっている。
阿比斯の声が、最後にもう一度あたしの体へ落ちた。
「偏愛された小さきもの。」
「どこまで歩くか、見せてみろ。」
問い返す暇はなかった。
阿比斯の体が、海へ退き始める。
船はゆっくり下がった。
祂はただ水中へ戻っているだけだ。
なのに巨大な浪が生まれる。
餘暉号が海面へ戻った途端、船全体が浪に押されて大きく傾いた。みんなが慌てて欄干や縄や木樽に掴まる。
攻撃じゃない。
阿比斯が去っただけ。
でも去るだけで、災害みたいだった。
海面がようやく落ち着くまで、ずいぶん時間がかかった。
最初に飛び出したのは艾琳だった。
見えるようになったことを先に喜ばない。
海を見ることもしない。
まっすぐ亞倫の方へ駆けた。
「偽神って何? どうして祂はあなたをそう呼んだの?」
また艾琳だ。
思わず笑ってしまう。
だってその瞬間、本当に艾琳が戻ってきたから。
亞倫はあいつを一瞥する。
「俺も知りたい。」
艾琳の目が大きくなる。
「知らないの?」
「知らない。」
「前にもそう呼ばれた?」
「ああ。」
「それなのに聞かなかったの?」
「聞いた。」
「祂は何て?」
亞倫は一拍置いた。
「笑った。」
艾琳の表情が、すごいことになった。
あたしは二人のやり取りを聞きながら、胸の内が少しずつ落ち着いていくのを感じていた。
凡スを見る。
凡スはまだ自分の左手を見ていた。
艾琳がそれに気づくと、すぐ走っていって、その手を掴んだ。本当にあるか確かめるみたいに。
凡スの体が一瞬固まる。
でも引き抜きはしない。
奧布里は甲板の脇に座ったまま、自分の膝を曲げている。
一度。
二度。
三度。
ふいに俯いて、額を膝へ押しつけた。
誰も邪魔しなかった。
あたしはその様子を見ていた。
それから、阿比斯の言葉を思い出す。
お前の願いは傲慢だ。
叶うことはない。
胸元の心鳴へ、ゆっくり手を置く。
あれは、あたしがかつて願ったことなのか。
もう誰も仲間を傷つけさせない。
口には出さなかった。
口に出したら、この治癒があたしのせいだったと認めることになりそうで。
それは変だった。
重すぎた。
夕方、みんなで食事をした。
この食事は、ここ数日よりずっと賑やかだった。
凡スの手を何度も見る人がいる。
奧布里に立てるか訊く人がいる。
艾琳に、阿比斯を最初に見た時の感想を聞く人もいた。
艾琳は言った。
「大きすぎた。」
少し止める。
「視力が戻ったばかりなのに、もう一回失うかと思った。」
水夫たちが笑う。
凡スは笑わない。
でも肩の強張りは、前ほどではなかった。
食後、甲板の縁で艾琳に会った。
海を見ていた。
いや、あらゆるものを真剣に見ていた。
船縁。
縄。
水桶。
遠くの浪。
自分の指。
世界をもう一度、初めから覚え直そうとしているみたいだった。
あたしが横へ行くと、艾琳は振り向かないまま口を開く。
「偽神の授福者って、聞いたことある?」
「ない。」
「私も初めて。」
艾琳は瞬きをした。
瞳の奥に、まだ少しだけ水光が残っている。
「亞倫の謎、また増えたね。」
「本人も知らないみたいだけど。」
「そこが変なの。」艾琳は言った。
「海龍王がただ彼を罵っただけなら、亞倫は気にしない。でも祂は何度もそう呼んでるのに、亞倫は理由を知らない。」
少し考えた。
亞倫なんて、知らないことだらけじゃないかと言いかけた。
でも、口から出たのは別の言葉だった。
「海龍王に治してもらったことは、気にならないの?」
艾琳がこっちを向く。
それから笑った。
「気になるよ。」
自分の目尻に触れる。
「だから、さっきずっと見てた。」
「何を?」
「みんな。」
一瞬、言葉が詰まった。
艾琳は甲板の反対側を見る。
凡スはそこに立って、まだ左手に触れていた。奧布里は脇に座り、ゆっくり膝を動かしている。クライジェンは水夫に何か怒鳴っていて、途中で自分も笑っていた。
艾琳は言う。
「海龍王は大きかった。」
「うん。」
「でも凡スが自分の手を見ていた顔の方が、ずっと面白かった。」
あたしは艾琳を見る。
それから笑ってしまった。
艾琳も笑った。
少し笑ったあとで、あいつは小さく言う。
「感謝しないとね。」
あたしは心鳴に触れた。
「うん。」
もしかしたら、あたしのせいかもしれない。
それは言わなかった。
怖くて、言えなかった。
---
その夜、あたしはとてもよく眠った。
どうしようもなく、よく眠った。
全部がよくなったからじゃない。
戻ってきたものがあったからだ。
艾琳の目。
凡スの手。
奧布里の脚。
艾琳のうるさい声。
凡スの沈黙に少しだけ戻った重み。
奧布里が膝を曲げる時の、慎重な息。
でも、萊克斯は戻ってこなかった。
眠る前、あの折れた刀柄のことを少し思い出した。
少しだけ。
それから目を閉じた。
海は静かだった。
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翌日、亞倫はあたしに、まだ陸へは戻れないと言った。
「次は繁茂仙境へ行く。」
本当なら、ため息をつくべきだった。
でも艾琳が甲板に立ち、目を細めて光を浴びているのが見えた。
凡スはその隣で弓弦を試し引きしている。
奧布里も欄干につかまり、もう働き始めていた。
だから、ため息はつかなかった。
ただ少し、笑った。
少なくとも今は。
ひと息ついていい。
お読みいただきありがとうございます。
海龍王、まさかこんなに早く退場してしまうのでしょうか。
ええ、でもあれほどの存在です。いつも小さなものばかり見下ろしているわけではありませんよね。ふふ、もし趣味が蟻の飼育なら話は別ですが。どうかご安心ください。ああいう大きな存在と、また出会う機会はきっとあります。
それにしても、龍王が一行を癒やすとは思いませんでした。そして珂拉が「偏愛されている」とは、いったいどういう意味なのでしょう。実のところ、私自身も気になっています。
どうぞ第四節「応えるな」をお楽しみに。




