16-2 海の覇主
海龍王が棲むあの海域を、まだ覚えていますか。
危険な海獣に満ちた、あの海です。
そこで一行は、今度はいったい何と出会うのでしょうか。
海龍王のいる海域へ向かうその日、餘暉号はいつもより静かだった。
十五樽の酒は甲板の下層へ固定されている。
どの樽も太い縄と鉄具でがっちり縛られ、その結び目の上からさらに水夫たちの滑り止め結びが加えられていた。クライジェンは自分で三度も下へ降り、鉄具を一つ一つ指で確かめて、緩みがないか見ていた。
水夫たちも、普段より口数が少ない。
海龍王が怖いから、というだけじゃない。
少なくとも、それだけじゃない。
あいつらは知ってるんだ。
あの海域へ向かうこと自体が、もう危ない。
あそこは普通の海じゃない。
帆と舵だけで無理やり切り抜けられる海じゃない。
艾琳は甲板へ出たがった。
外套を羽織り、杖を握って、船室の出入口の枠へ手を掛けたところで、凡スの右手がその手の甲を押さえた。
手は一つしか残っていない。
でも、その一つが妙にしっかりしている。
「ただ聞きたいだけ。」
艾琳が言う。
凡スは外を見たまま。
「なら座って聞け。」
艾琳は少し黙った。
「ほんとに、今のあなた、壁みたい。」
「壁は血を流さない。」
「あなたも流さない方がいい。」
凡スは返事をしない。
ただ艾琳を、出入口のすぐ後ろの、少し安全な位置へ戻した。
脇を通る時、艾琳がこっちへ顔を向ける。
「外、どんな匂い?」
少し考えた。
「沸騰しかけの海って感じ。」
「ひどそう。」
「想像よりひどい。」
船の外では、海靈の衛兵たちがもう待っていた。
船へは上がらない。
ただ海面へ浮かび、灰青の鱗を一列に見せている。鋭い石が並んでいるみたいだった。先頭にいるのは、またあの衛兵だ。クライジェンを見て言う。
「離れるな。」
説明はそれだけ。
クライジェンは舷側に立ち、欄干へ手を掛けていた。
今回は、言い返さない。
ただ一度、頷く。
餘暉号が帆を上げる。
最初のうち、海面はまだ穏やかだった。
風は帆をしっかり孕ませ、船体は水を割って進み、馴染みのある低い音を立てる。水夫たちはそれぞれ持ち場へつき、縄を巻き、いつもよりずっと丁寧に手を動かしていた。
でも遠くの雲がおかしい。
ゆっくり集まってきたんじゃない。
最初からそこに積み上がっていて、船の方からぶつかりにいくのを待っていたみたいだった。
雲が低い。
低すぎて、マストの先が擦りそうなくらいに。
風が先に湿る。
それから重くなる。
そこで変な匂いを嗅いだ。
普通の嵐の前みたいな土臭さじゃない。
海臭さとも違う。
もっと深い水の匂いだ。
海底をひっくり返して、長く日を見ていなかったものに一度だけ息をさせたみたいな匂い。
帕夫たちの様子もおかしかった。
四匹の子松鼠は固まって、帕夫の腹の下へ潜り込んでいる。帕夫はいつもみたいに毛を逆立てたり、ちょこまか走り回ったりもしない。
体をぐっと低くしていた。
腹がほとんど板へつくほどに。
本能で、自分を石のふりでもさせているみたいに。
そのせいで、余計に嫌な感じが強くなる。
この風には匂いがある。
この雨はまだ落ちてもいないのに、もう毛を重くする。
この海は、海に見えない。
巨大な獣の背みたいだ。
最初の雷が落ちた。
遠い海面へ。
白い閃光が海を照らした一瞬、浪の向こうに何かが見えた。
一つじゃない。
いくつも。
長い蛇みたいな影。
浮いた岩みたいな影。
ただ巨大な背鰭だけを見せて、すぐ沈むもの。
二口目の息を吸う前に、雨が来た。
空から水の束を何本もひっくり返したみたいに落ちてくる。
甲板へ。
帆布へ。
人の肩や頭へ。
餘暉号が大きく上下し始めた。
クライジェンは舵輪のそばに立っていた。
慌ててはいない。
でも、いつもみたいに怒鳴りもしない。
ここでは、声量なんか役に立たないからだ。
短い命令だけが飛ぶ。
「半帆まで下げろ!」
「左舷、押さえろ!」
「酒樽をもう一度見ろ!」
水夫たちはすぐ動く。
誰も余計な声を出さない。
全員、歯を食いしばって、自分を船へ打ちつけているみたいだった。
亞倫は船尾寄りに立ち、欄干へ手を置いて、雲の向こうを見ていた。
雨で髪が濡れ、顎から雫が落ちていく。
あたしは近くの縄を掴みながら、そっちへ寄った。
「あとどれくらい?」
亞倫は前を見たまま答える。
「祂の機嫌次第。」
またそれだ。
罵りたくなる。
でも風が、言葉を口の中へ押し戻した。
その時、船の脇で何かがひっくり返った。
最初は黒い小島みたいだった。
次の瞬間、その小島が裂ける。
島じゃない。
背中だ。
さらに下から、別の何かがそいつへ噛みついていた。
海面が炸裂する。
血は雨に打たれてすぐ薄まった。
でも匂いは残る。
あたしには分かった。
生臭い血。
それに深海の生き物特有の、冷えた石みたいな匂い。
一人の水夫が小さく悪態をつく。
海靈たちは振り返りもしない。
慣れ切ってるんだ。
海靈の一人が二叉戟で水面を軽く打った。
音は大きくない。
でも水の下の影がいくつか、すぐ脇へ散る。
あたしは欄干を握り締めた。
海靈たちは道案内をしてるんじゃない。
あの連中に、この船の匂いを覚えさせているんだ。
今はまだ食ってはいけない船だと。
海怪たちの全体は、見えなかった。
見えなくてよかったとも思う。
見えたのは、濡れた黒い背の一部。
浪の中を擦っていった歯の列。
マストより太い尾が水へ叩き込み、船縁ごと呑みそうな波を立てたこと。
それで終わり。
全部、海が瞬きしたみたいに消えてしまう。
次の危険は、船底から来た。
先に匂いがした。
熱を持った生臭さ。
魚の血を熱した石鍋へぶち込んだみたいな匂いだ。
体が頭より速く動く。
「船底!」
叫ぶのと同時に、水面が膨らんだ。
細長い黒い影が船の脇から跳ね上がる。
蛇みたいでもあり、魚みたいでもある。体は長く細く、頭の両脇に裂けた鰓が並んでいた。口を開くと、その裂け目まで一緒に開閉して、白い煙みたいな熱水を噴く。
裂鰓鰻鯊。
どうしてその名が頭へ浮かんだのかは分からない。
昔、水夫の誰かが言っていたのかもしれないし、あまりにもそんな顔をしていたからかもしれない。
そいつは船腹へ向かって噛みついた。
餘暉号の銘文が、一瞬だけ閃く。
海靈が動く。
三人同時に沈んだ。
次の瞬間、水の中で青白い光が走る。
冷たい縄みたいなものが何本も水中でしなり、裂鰓鰻鯊の体が大きく引き曲げられた。口が半尺ぶん逸れる。
噛み損ねた。
歯が船底を掠る。
船全体が震えた。
あたしは甲板へ転び、手のひらを木板へ強く打ちつける。
船底から尖った引っかき音が伝わってきた。
尾が丸ごと硬直する。
海靈の首領が浮かび上がった。
二叉戟には深い黒肉が一片ぶら下がっている。
それを海へ払い落とし、水の下へ向かって海靈語で何か告げた。
怒鳴ってはいない。
警告だ。
裂鰓鰻鯊は、もう来なかった。
血の筋を引きながら浪の中へ潜り、すぐ雨に呑まれて見えなくなる。
あたしは甲板へ手をついて起き上がった。
海靈がいなければ、今ごろ餘暉号は噛み割られていた。
その考えは、雨より冷たかった。
嵐は収まらない。
どころか、もっと妙になる。
雷鳴は減る。
稲妻だけが増える。
白い光が雲の中を泳ぎ、なのに地上へ落ちてこない。海面の浪も、ただ船を打つだけじゃなくなっていた。
違う方向からぶつかり合い始める。
この海そのものが喧嘩してるみたいに。
海靈たちの動きが鈍くなった。
もう散らばらない。
餘暉号の両脇へ集まってくる。
陸の者を見下す時のあの薄い嘲りさえ、顔から消えていた。
亞倫が船首へ歩く。
クライジェンはそれを一度見た。
止めない。
亞倫は片手を船縁へ置いた。
餘暉号がまだ耐えられるか、確かめてるみたいに。
少し離れたところで立ち止まり、あたしは訊こうとした。
もう着いたのかって。
でも、訊けなかった。
急に、海怪の匂いが消えていた。
血の匂いも。
腐った生臭さも。
暴雨に打たれた木板の匂いさえ。
残ったのは、一つだけ。
古い匂い。
深い匂い。
前に水珠の中で一度だけ嗅いだ、あの気配に似ている。
ただし今度は、比べものにならないほど大きい。
誰かが目の前に立った感じじゃない。
海そのものが頭を下げて、こっちへ匂いを確かめにきたみたいだった。
水珠が急に冷える。
服越しでも分かるほどに。
胸元の心鳴は逆に熱を持ち始めた。
冷たさと熱さが同時に来て、一瞬どっちを押さえればいいのか分からなくなる。
風が止んだ。
あまりにも急に。
さっきまで獣の群れみたいに甲板へ襲いかかっていた雨が、次の瞬間には全部、遠くへ追いやられる。
帆布は鳴らない。
縄も揺れない。
海靈たちも、そのまま水面で止まっていた。
雨はまだ降っている。
でも音が遠い。
分厚い水の層を一枚隔てた向こうで降っているみたいに。
海面は静まっていない。
ただ、全ての浪が、途中の形で止められていた。
一つの波がまさに持ち上がる、その途中で、下から押さえ込まれたみたいに。
一人の水夫が口を動かしているのが見えた。
たぶん祈っている。
でも音はない。
いや。
全部の音が、押し下げられているんだ。
クライジェンは舵輪を握り締めていた。
指の節が白い。
反対側では、扎卡が総毛を逆立てて立っている。右腕はまだ吊ったままなのに、左手はもう刀柄へかかっていた。
船室の出入口が、かすかに鳴る。
凡スが出てきた。
顔色は真っ白で、片手で枠を支えている。
艾琳はその後ろ、出入口の奥に座ったまま、目隠しの布を巻いた顔を持ち上げた。
唇が動く。
「大きい。」
何が見えてるのか訊きたかった。
でも声が出ない。
あたしにも、分かってしまったからだ。
海が、見えない力にかき回されている。
次の瞬間、船体が激しく揺れた。
全員が反射で、手近なものへしがみつく。
縄。
欄干。
マスト。
誰かの肩。
餘暉号の下から、低い摩擦音がした。
礁に当たった音じゃない。
海獣に体当たりされた音でもない。
動いている山へ、船底がそっと触れたみたいな音だった。
揺れが止まる。
そのまま船が持ち上がり始めた。
最初は、ゆっくり。
ゆっくりすぎて、何人かの水夫は、ただ大きな浪に持ち上げられたのだと思ったみたいだった。
でも浪は引かない。
船だけが、まだ上がる。
舷側の外から海水が下へ落ちていく。
高さがどんどん変わる。
やっと水夫たちもおかしいと気づいた。
縄へ飛びつく者。
膝をつく者。
船室へ逃げ込もうとして、クライジェンの一喝で止まる者。
「動くな!」
その声さえ、妙に低く押さえられて聞こえた。
海靈たちはみな沈んでいく。
逃げたんじゃない。
道を空けたんだ。
あたしは船縁へ這っていき、下を覗き込んだ。
最初に見えたのは龍の体じゃなかった。
鱗だ。
一枚の。
それだけで餘暉号の主帆より大きい。
黒青の色。
縁には鈍い鋼みたいな光が走っている。鱗の継ぎ目から海水が流れ落ち、無数の小さな滝になっていた。
さらに目を凝らす。
まだ鱗がある。
一枚。
また一枚。
雨の向こうへ消えるまで、ずっと続いている。
頭の中が一瞬、真っ白になった。
船は浪に持ち上げられていたんじゃない。
阿比斯の体に支えられていたんだ。
餘暉号の両側で海面が割れていく。
裂けるんじゃない。
巨大すぎる体に、ゆっくり押し開かれていく。
阿比斯が海の中から姿を現した。
真っ直ぐ跳び出してきたんじゃない。
海底の山脈そのものが立ち上がったみたいだった。
その身から水が落ちる。
最初は小さな流れ。
次に滝。
最後には、海そのものを空へ持ち上げて、また降らせたみたいな勢いで。
船はその背にある。
貼りついているわけじゃない。
見えない水の力に支えられ、背の近くへ安定して置かれていた。
阿比斯が起こした気流で、周囲の黒雲が押し退けられる。
空に、大きな裂け目みたいな光が生まれた。
晴れたわけじゃない。
雲に巨大な穴が開いただけだ。
その光が、角を、鱗を、鬚を、そしてゆっくり餘暉号へ向いた眼を照らす。
あの眼は、船より大きかった。
最初に恐れるのは口だと思っていた。
でも最初に目が入ったのは、眼だった。
海怪の眼じゃない。
捕食者の眼ですらない。
深海そのものが一つ、口を開けて、こちらを見ているみたいだった。
阿比斯が餘暉号を見下ろす。
咆哮はない。
口も開かない。
威嚇らしい動きも何一つない。
なのに、全員が頭を下げた。
誰かに命じられたんじゃない。
体の方が勝手に分かってしまったんだ。
水夫たちは膝をつく。
クライジェンは舵輪を支えたまま跪かなかったけど、頭は下がっていた。
凡スは出入口に立ち、残った片手で枠を掴んでいる。指先が白かった。
艾琳は顔を上げている。
見えていないはずなのに、誰よりも正確に、祂の位置を知っているみたいに。
亞倫は甲板の前の方に立っていた。
数少ない、まだ顔を上げている側の人間だ。
阿比斯の眼が、まず亞倫へ落ちた。
一瞬だけ、止まる。
それから、ゆっくり動いて。
あたしの上へ来た。
あたしの手は胸元の心鳴を握っていた。
水珠は腰のあたりで、深海の石みたいに冷たい。
声が聞こえる。
空からじゃない。
海からでもない。
体の中で。
その時、ようやく分かった。
船はずっと、海龍王の海域に辿り着けてなんかいなかった。
ただ、祂にひっくり返されて、ようやく目の前まで出されたんだ。
お読みいただきありがとうございます。
たった一枚の鱗でさえ帆より大きい。それほどまでに、龍王は設定上とてつもなく巨大な存在です。
しかも現れた瞬間、その巨体で船そのものを持ち上げてしまいました。
とはいえ、海龍王は想像するような暴君というわけではありません。
海龍王アビスは、これから一行とどのように関わっていくのでしょうか。
それでは、次の節「本題」もどうぞお楽しみに。




