16-1 静かな引き潮
少し間が空いてしまって、すみません。
このところ仕事が立て込んでいて、なかなか書く時間が取れませんでした。
でも、今はちゃんとここに戻ってきました。
それでは、第十六章『偽りの神の祝福』第一節「静かな引き潮」をお楽しみください。
餘暉号は、すぐには海龍王の海域へ向かわなかった。
白礁を背後へ置いたあと、海靈たちはあたしたちを、もっと静かな水域へ導いた。巨大群礁の深部まではまだ少し距離がある。水は深いのに、波だけが妙に小さい。見えない手が海面を押さえつけているみたいだった。
船は、数日そこで止まった。
誰も、あれを休息とは呼ばない。
休息なんて言葉じゃ、楽すぎるから。
その数日のあいだ、あたしはだいたい船室と医療室と通路を行ったり来たりしていた。
薬を替える。
水を飲ませる。
包帯を洗う。
奧布里の座り方を直す。
凡スに熱がないか確かめる。
艾琳が倒した杯を起こす。
こういうことは、前にもたくさんやってきた。
怪我人は痛がる。
血を流す。
叫ぶ。
熱を出す。
傷さえ見つかれば、何かしら手は出せる。洗って、押さえて、薬を振って、巻いて、それから待つ。
でも、今回は少し違った。
もう包まれた傷もある。
なのに、見えない傷の方が残っている。
艾琳の目は、清潔な布で覆われていた。
起きている時のあいつはまだ笑うし、あれこれ訊いてくるし、ただ目を閉じて休んでいるだけみたいなふりまでしてみせる。
でも、杯を取ろうと手を伸ばした時、その指先は机の上で空を探る。
最初の一回で、あいつは杯を倒した。
水が机いっぱいに広がる。
艾琳は一瞬だけ止まり、すぐ笑った。
「もともと、あの杯あんまり好きじゃなかったの。」
あたしは布を取りに行く。
あいつも手伝おうとして手を伸ばしたけど、手のひらは水の上へそのまま落ちて、袖口が半分濡れた。
笑い声が、ほんの少しだけ短くなる。
あたしは何も言わない。
ただ杯を右手側へ戻して、縁を軽く叩いた。
「ここ。」
「うん。」
凡スは、前より長く眠るようになった。
起きている時は、さらに口数が減った。そう言うと、たいして変わっていないみたいに聞こえるけど、前のあいつの寡黙さは鞘へ収まった刃みたいなものだった。今のは、いったん燃えたあとの木だ。外はまだ真っすぐでも、中が少し空洞になっている。
見に行くたび、右手が、なくなった左側へ置かれているのが見えた。
傷を押さえているんじゃない。
ただ、そこへ置いてある。
体の方が、まだあそこに何もないことを覚え切れていないみたいに。
ある時、あいつは毛布を引き上げようとした。
右手が少し動く。
毛布の端を左手へ渡すつもりだったんだと思う。
でも、そこで止まった。
一呼吸ぶん、あの空白を見て、それから右手だけでゆっくり毛布を引き上げる。
あたしは扉のそばに立って、薬を持っていた。
凡スはこっちを見ない。
あたしも、何も言わなかった。
奧布里は、大声を上げたりしなかった。
それが、かえってきつい。
よく自分の脚を見ていた。
あるいは、寝台の脇に置いた折れた刀柄を。
萊克斯のだ。
薬を替える時、あいつはちゃんと体を起こすのに協力してくれる。でも一度だけ、まっすぐ座ろうとして、まだ脚があるつもりの方へ力を入れたことがあった。
そのまま体が傾く。
あたしはすぐ支えた。
あいつの手があたしの腕を掴む。指の節が白くなるほど強く。
どっちも何も言わない。
少しして、奧布里は自分で体勢を戻した。
「悪いな。」
声は平たい。
あたしは包帯を締め直す。
「別に。」
本当は、かなり忙しかった。
忙しいのは、いいことだ。
忙しければ白礁を考えなくて済む。
白灰を。
萊克斯の「あと二日こんなの食わされるなら、マストでも齧る」ってぼやきを。
結局、誰も救えなかった事実を。
口には出さない。
ただ、包帯を少しきつく結び直した。
亞倫は、その数日、負傷者の船室にはあまりいなかった。
たまには来る。
でも来ても、そんなに喋らない。
艾琳を一目見て。
凡スを見て。
奧布里を見て。
新しい薬草を机へ置いていくこともあるし、あたしの手から滑り落ちかけた水袋を受け取ることもある。
それで、また出ていく。
忙しいんだろうなとは分かっていた。
亞倫はクライジェンや水夫たち、それから矮人工芸の分かる何人かと一緒に、ずっと甲板の下に籠もって、あの二本の矮人酒を扱っていた。
もともとあの酒は背負って運べる大きさだった。
でも矮人の酒樽ってやつは、普通の酒樽じゃない。
亞倫の説明だと、あれはものすごく圧し固められていて、丸ごと一本の川を石二つの中へ押し込んだみたいな代物らしい。
よく分からない。
ただ今は、その二本を少しずつ解いて、薄めて、分けて、十五樽の大きな酒へしなきゃならないということだけは分かった。
どの樽も、あたしなら丸ごと中へ詰められそうなくらい大きい。
……
その夜、夢を見た。
海辺に寝転んでいる夢だった。
白礁じゃない。
死んだみたいに白い珊瑚もない。
黒泥もない。
負傷者が息を潜めるような呼吸音もない。
あるのは海だけだ。
海水が一度ずつ寄せてきて、足首を、脛を、腕を、耳を濡らしていく。
水は温かかった。
起き上がるべきだと分かっているのに、起きたくなくなるくらいに。
夢の中のあたしには傷がない。
手のひらも裂けていない。
脚も痛まない。
鼻の奥に白礁の腐った臭いも残っていない。
あたしはそのまま、海に覆われるままになっていた。
被さってきて。
引いて。
また被さって。
また引く。
何度かそれを繰り返したあとで、視線を感じた。
空からじゃない。
岸からでもない。
海の下からだ。
とても深いところから。
目を開こうとして。
そこで、目が覚めた。
船室は暗い。
帕夫の一家は固まって眠っていた。四匹の小松鼠が帕夫の腹の下へ押し込まれ、ふわふわした尾だけが何本かはみ出している。船体はゆっくり揺れ、木板が低く鳴っていた。
見下ろすと、両腕で水珠を抱えている。
水珠は温かかった。
体温で温まった感じじゃない。
海水に浸かって、そのあと少し陽を浴びた石みたいな温かさだ。
少しだけ息を抜きかけた、その時。
頭の中で声がした。
「起きろ。」
あたしは跳ね起きた。
誰もいない。
帕夫が寝返りを打って、一匹の子松鼠の尾を抱え込み、そのまままた眠る。
水珠を見る。
中の水は揺れていない。
声がまたした。
「艾琳。」
今度は、もっとはっきり。
耳で聞いたんじゃない。
誰かが言葉そのものを骨の中へ置いたみたいな響きだった。
あたしはすぐ立ち上がる。
通路は暗い。
船灯の火はほとんど尽きかけていて、壁板に細長い影を引いていた。裸足のまま走って角を曲がると、艾琳が床へ倒れているのが見えた。
襲われたんじゃない。
ただ、本来そこにあるはずのない縄の輪が緩んで、通路を横切っていた。
それに足を取られたんだ。
肩に掛けていた毛布は半分ずり落ち、髪は肩と木板へ広がっている。片手が床の上を少しずつ探っていた。自分がどこへ倒れたのか、確かめるみたいに。
しゃがんで支える。
「大丈夫?」
艾琳は少しだけ黙った。
ほんの短い間。
正直に答えるべきかどうか、考えたみたいな間だった。
結局、あいつは言う。
「ちょっとお腹すいた。」
危うく罵るところだった。
本当に、危うく。
でも、できない。
あたしはあいつを起こし、毛布を肩へ掛け直した。
「空腹で通路に転がるの?」
「新しい精靈式のお祈り。」
「何を祈るの。」
「誰かが食堂まで連れていってくれますように。」
言い方は軽い。
軽すぎる。
張りすぎた弦が、無理やりいつもの音を出してるみたいだった。
あたしはそこを突かない。
ただ、支えながら食堂まで連れていった。
食堂に人はほとんどいなかった。
もう消えそうな灯が一つあるだけで、その火は眠りかけの虫みたいに小さい。
乾いた食糧を少しと、冷たい水を見つけて、艾琳と並んで卓へ座る。
乾糧は固くて、湿っていた。
噛んだら歯の奥が少し軋む。
そこで萊克斯を思い出した。
あと二日こんなのを食わされたら、マストでも齧るって言っていたことを。
噛む速度が少し落ちる。
艾琳はその変化を見ていない。
いや、見えない。
指先で乾糧の縁を探りながら、少しずつちぎっていた。
「凡ス、まだ寝てる?」
「うん。」
「今、前よりずっと寝てるね。」
声は平らだった。
でも、その下に少しだけ苦い匂いがある。
薬じゃない。
落ち込みだ。
艾琳はすぐに口調を変えた。
「海龍王を見られないの、残念だな。」
あたしはあいつを見る。
艾琳は俯いて、乾糧の割れ目を指でなぞっていた。
「見たかったんだよね。」
誰かを責めているわけじゃない。
泣いているわけでもない。
ただ、見たかったんだ。
本当に。
その見たさは、ただの好奇心じゃない。
あいつはこの世界が好きなんだと思う。
この世界に目を奪われたばかりでも。
それでも、まだ見たがっている。
何て返せばいいのか分からなかった。
艾琳が顔を上げて、こっちを向く。
方向は驚くくらい正確だ。
一瞬、本当に見えてるんじゃないかと錯覚しそうになるほどに。
でも、あの目に焦点はない。
目と目が向き合っても、視線があるのは片方だけだ。
「珂拉。」
「ん?」
「祂の姿、ちゃんと教えてね。」
あたしは乾糧を握ったまま頷く。
「うん。」
少し考えて、付け足した。
「あたしの毛の本数より細かく教える。」
艾琳が吹き出した。
「数えられるの?」
胸の中が、ほんの少しだけ緩む。
全部じゃない。
でも、張り詰めた縄を、半寸ぶん誰かが弛めてくれたみたいに。
翌日の午後、亞倫たちはようやく酒を扱い終えた。
二本の矮人酒は、十五樽の大きな酒になっていた。
その樽は甲板下へ並べて固定され、外側を何重もの縄で巻かれている。船が揺れても転がらないようにだ。樽の胴には矮人の封印符が刻まれ、木の継ぎ目からは薄く酒の香りが滲んでいた。
あたしは樽を前に立って、自分が中へ詰められた姿を想像した。
たぶん入る。
でも出る時、すごく情けないことになりそうだ。
「これで足りるの?」
「全然。」
声が背後から落ちてきた。
尾が危うく膨らみかける。
「前から喋ってくれない?」
亞倫は印つきの縄を壁へ掛ける。
「次は考える。」
まったく考えなさそうな言い方だった。
あたしは酒樽を指した。
「足りないのに持ってくの?」
「目上に会うのに、手ぶらは駄目。」
眉をひそめる。
「海龍王って、どんな姿なの?」
亞倫は少し考えた。
「……艾琳にちょっと似てる。」
本気で聞き間違えたかと思った。
「は?」
亞倫がこっちを見る。
「船の上を走り回るとは言ってない。」
遅い。
もう脳内には、巨大な海龍王が甲板を走り回る絵ができてしまっていた。
怖い。
でもちょっと間抜けでもある。
「いろんなことに興味を持つ。」
亞倫が言う。
「例えば?」
「船。酒。短命種はどうしてそんなに急いで海へ身を投げたがるのか、とか。」
黙る。
それって好奇心っていうより、食べる前の観察じゃない?
亞倫はあたしを見た。
「お前にも興味を持つかもな。」
あたしは固まった。
「あたしに?」
最初に浮かんだのは嬉しさじゃない。
変だ、の方だった。
海龍王に会うのは亞倫だ。
酒を用意したのも亞倫だ。
凱斯を知っているのも亞倫だ。
海靈に嫌われているのも亞倫だ。
あたしは、ついてきただけの一人だ。
匂いを嗅げて、薬を替えられて、白礁で真っ黒になっただけの。
亞倫は説明しない。
ただ言った。
「早く寝ろ。あと数日で会う。」
不満たっぷりに睨む。
またこれだ。
最後まで訊くと、こいつは話を引き上げる。魚糸を水面から引いて、波紋だけ残していくみたいに。
「祂、あたしたちのこと嫌ったりしない?」
亞倫は数歩進んだところで止まる。
何かを思い出したみたいに。
それから振り返った。
「今回は船を食わないといいな。」
口を開けたまま固まる。
「は?」
亞倫はもう行ってしまっていた。
あたしは十五樽の酒の前に取り残される。
一つの樽が、船の揺れに合わせてわずかに軋いだ。
縄が樽を締める。
船板が、小さく鳴る。
こっ。
下で何かが笑ったみたいな音だった。
その夜、船室へ戻る。
帕夫の一家は、また眠っていた。
この小さい連中は、船じゅうの騒ぎを揺り籠だと思っているみたいで、誰よりよく寝る。帕夫は腹を見せてひっくり返り、四匹の子松鼠は脇に寄り固まって、ぐちゃぐちゃの毛玉になっていた。
水珠は枕元に置いてある。
もう温かくはなかった。
ただ、中の水がゆっくり一度だけ回る。
あたしは横になった。
眠れないかと思っていたのに、すぐ眠りへ落ちる。
夢に白礁はなかった。
あの温かい海も。
ただ、遠くて低い水音だけがある。
引き潮みたいな音。
それとも、すごく深いところで巨大な何かが寝返りを打ったみたいな音。
その夜の海は、ひどく静かだった。
まるで、あたしたちを待っているみたいに。
お読みいただきありがとうございます。
今回の艾琳の描写、皆さんにはどう映ったでしょうか。実を言うと、私は少しだけ彼女に甘いところがあります。
私自身は、「もともと、あの杯あんまり好きじゃなかったの。」という一言と、「視線があるのは片方だけだ。」という表現がとても気に入っています。皆さんにも、特に好きだった部分はありましたか?
それでは、次の節「海の覇主」もどうぞお楽しみに。
巨大な影が、いよいよ姿を現します。




