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15-9 潮喉

どうぞお楽しみください。第十五章、最後の一節です。


いよいよ、あちらの「大物」と会うことになります。

 海靈の衛兵が、凶暴なくらいの目であたしを睨んでいた。


 尾が蛇みたいに礁の上を這う。灰青の鱗が白灰を擦り、一寸ずつこっちへ寄ってくる。


 扎卡が半歩前へ出た。


 艾琳は杖を握り締める。


 凡スは礁に手をついたまま、右手を腰の短刀へ伸ばした。


 あたしは退かない。


 一度だけ、みんなを振り返る。


 本当に一度だけ。


 その目が「平気」に見えればいいと思った。


 実際にそう見えたかどうかは、知らない。


 海靈の衛兵は、あたしの目の前まで来て初めて、その背の高さを実感させた。少なくとも半頭ぶんは上だ。開いた耳鰭が影を落とし、白目のない黒い眼をいっそう深く見せている。


 あたしの足元へ突き立てた二叉戟を引き抜く。


 先端に、小さな礁の破片がついてくる。


 そして今度は、その穂先を凡スへ向けた。


「お前たちを殺さない理由を言え。」


 あたしは唾を飲んだ。


 喉がからからだ。


 珊瑚の粉をひと掴みそのまま呑み込んだみたいに。


「もう、終わってる。」


 衛兵の鰭が小さく震えた。


「あんたが欲しがってた証拠は、見つけた。」


「何?」


 これも問いじゃない。


 ほとんど脅しだ。


 あたしは水潭を指した。


「あんたたちが、水を閉じた。」


 もう一度、唾を飲む。


「あそこは死んだ水潭だ。水が入らない。出てもいかない。死灰も、黒泥も、珊瑚も、全部あの中で蒸れてる。」


 海靈の衛兵が二叉戟を持ち上げた。


 冷たい穂先が、あたしの喉へ触れる。


 ほんの少し押し込めば、そのまま刺さる距離だ。


「我々は穢れを塞いだだけだ。」


 一語ずつ、また繰り返す。


 塩の匂いがした。


 その下に、怒りで熱を持った、ほんの薄い汗の匂いも混じっている。


 あいつも確信し切れていない。


 それが、少しだけあたしを支えた。


 あたしは手を上げ、二叉戟の柄を握った。


 扎卡の喉から低い唸りが漏れる。


 衛兵は振り向かない。


 あたしも振り向かない。


「自分で潜って見ればいい。」


 柄は冷たい。


 酸で焼けた手の甲は、力を入れるたび火を掴んでるみたいに痛んだ。


 それでも放さない。


「もし、あたしが嘘をついてたら。」


 相手の目を見る。


「好きにしていい。」


 言った直後、ちょっと後悔した。


 今のあたしたちじゃ、この海靈には勝てない。


 凡スは立っているのもやっとだ。


 艾琳は見えない。


 扎卡は片手しかまともに使えない。


 あたしだって、脚も手もまだ痛む。


 もし見間違えていたら。


 もし水の下のあれだけじゃ、何の証拠にもならなかったら。


 もしこいつが潜ったあと、戻ってきてそのまま二叉戟をあたしの腹へ突っ込む気だったら。


 そこまで頭の中で数え終わるより先に、海靈の衛兵は力を抜いた。


 長く、あたしを見る。


 それから背を向けて、水潭へ滑り込んだ。


 黒水が腰を呑む。


 胸まで。


 最後には、開いた鰭まで沈めて。


 水面がまた閉じる。


 その時になって初めて、自分がずっと息を止めていたことに気づいた。


「今、命を張ったな。」


 凡スが言った。


 声はひどく弱い。


 でも、あの嫌な言い方はまだ残っている。


「分かってる。」


「分かってて張るのか。」


「もう張ったあと。」


 凡スがあたしを見る。


 たぶん罵りたかったんだと思う。


 でも今は、その力すら足りない。


 考えが切れないうちに、水面がいきなり爆ぜた。


 海靈の衛兵が浮上する。


 すぐにはこっちを見なかった。


 先に、あの水潭の方を見る。


 黒い膜が背後でまた閉じ、幼い珊瑚を覆い隠していく。


 顔色が悪い。


 さっきの、殺したい顔とは違う。


 ずっと信じてきた礁をひっくり返され、その裏が腐泥だらけだったと知ったみたいな顔だ。


「首領に判断してもらう。」


 ようやく、あたしを見る。


「待っていろ。」


 言い終えると、脇の少し深い水路へ飛び込んだ。


 尾鰭が黒水を跳ね上げる。


 すぐに白礁(はくしょう)の向こうへ消えた。


 あたしは息を吐く。


 膝まで抜けそうになった。


 扎卡が肩を支える。


「毛皮は守れたな。」


「ぎりぎり。」


「ぎりぎりでも守れた。」


 言い返す力もない。


 振り向くと、凡スはもう目を閉じていた。


 艾琳がそばへしゃがみ、片手をその肩へ置いている。


「凡ス?」


 返事はない。


 あたしはすぐ近寄り、首筋へ触れた。


 鼓動はある。


 弱いけど。


「気絶しただけ。」


「戻ろう。」


 今度は、誰も反対しなかった。


---


 帰り道で、怪物にはもう会わなかった。


 今日の海がくれた、ほとんど唯一のましなものだ。


 それでも、船へ戻るのに一日以上かかった。


 凡スは途中で一度だけ目を覚ました。


 目を開けて、艾琳の顔が微妙に違う方を向いているのを見ると、唇を少し動かす。


「左。」


 艾琳が少し固まり、そちらへ顔を向け直した。


「こっち?」


 凡スは目を閉じる。


「ああ。」


 それから、またすぐ意識を落とした。


 あたしたちは縄と標識棒を二本使って、簡単な拖架を作った。扎卡が左手で前を引き、あたしが後ろを支える。艾琳は脇を歩き、片手を縄へ添え、揺れでついてきた。


 死んだ白。


 黒泥。


 砕けるような音。


 来る時と同じで、終わりは見えない。


 帰りも同じだった。


 夜半に、凡スの傷が一度また滲んだ。


 あたしは布を替え、もう一度きつく巻き直す。艾琳は脇にしゃがみ込み、血を吸った古い布を指の先でつまんでいた。


「治癒魔法を覚えておくべきだった。」


 とても小さい声だった。


「もっと上の。傷口を、生やし直せるくらいの。」


 あたしは結び目を作りながら言う。


「そういうの、難しいんでしょ。」


「難しい。」


「前から覚えたかった?」


 艾琳は少し黙った。


「ううん。」


「じゃあ、今さら悔やんでも仕方ない。」


 硬い言い方になった。


 口にしたあと、自分でもちょっと凡スみたいだと思った。


 でも艾琳は怒らない。


 ただ手を伸ばし、凡スの肩へ触れ、ずり落ちた外套を少し上へ戻した。


「うん。」


 静かに言う。


「仕方ない。」


 あたしたちは、また歩いた。


 二日目になって、海風の中にようやく別の匂いが混じった。


 木。


 焦油。


 古い帆。


 それに、船倉へ染みついて、いくら洗っても抜けない魚の生臭さ。


 あたしは顔を上げる。


 霧の向こうで、最初に現れたのは一本のマストだった。


 次に帆。


 最後に、餘暉号(よきごう)の濃い船体。


 あんなに船が綺麗に見えたことは、たぶん一度もない。


 甲板の上で誰かが叫ぶ。


 縄梯子が下ろされる。


 さらに、誰かが船縁から飛び降りた。


 いちばん速かったのは亞倫だ。


 梯子が落ち着くのも待たず、そのまま甲板から飛んだ。


 着地の音が重い。


 まっすぐこっちへ歩いてくる。


 最初に見たのは、拖架の上の凡ス。


 次に、開いたまま焦点のない艾琳の目。


 最後に、垂れた扎卡の右腕と、あたしの脚の傷。


 その時、亞倫の顔がほんの少し変わった。


 短い。


 ずっと見ていなければ、見逃すくらい短かった。


 でも、あたしは知っている。


 あの顔を。


 森で見た。


 あたしが、危うく帰れなかった時に。


 亞倫は凡スのそばへしゃがみ込む。


 まず首筋。


 次に額。


 最後に、あたしが縛った断腕へ手を止めた。


「失血はどれくらいだ。」


「一日ちょっと。」あたしが答える。「途中で一回だけまた滲んだ。でも今は止まってる。」


 亞倫は頷いた。


「よくやった。」


 三文字だけ。


 それなのに、胸の奥が急に痛んだ。


 脚の傷より、ずっと始末が悪い痛みだった。


 艾琳が亞倫の方へ顔を向ける。


「戻ってきた。」


 無理に少しだけ笑う。


 亞倫はあいつを見る。


 焦点を失ったその目を見た瞬間、手が一拍止まった。


「ああ。」


 立ち上がり、凡スを拖架ごとではなく、そのまま抱き上げる。


「先に休ませる。」


 それ以上は言わなかった。


 今は、何を言っても遅いと分かっているみたいに。


 水夫たちが船から降りてきて、あたしたちを引き取る。


 誰かが艾琳を支える。


 誰かが扎卡の荷を受け取る。


 あたしは縄梯子を上った。


 甲板へ足をかけた、その瞬間。


 見なくても分かった。


 その人がいる。


 船の空気そのものが、そいつを避けて流れているみたいだった。


 甲板の真ん中に、一人の海靈の老人が座っていた。


 鱗の色は衛兵みたいな灰青じゃない。


 深海に近い墨色だ。


 銀白の筋が、目尻から首筋へ流れている。礁へ残った塩筋みたいに。


 耳鰭は長く、畳めば肩の後ろまで垂れる。縁はもう白んでいた。


 気配は深海みたいに重い。


 なのに、甲板で酒を飲んでいた。


 前には低い卓。


 その上に酒壺と杯が二つ、それから、どこから用意したのか分からない焼き魚干しの皿まである。


 絵面がおかしすぎる。


 海の王様が酒場へ入り込んで、つまみを頼んだみたいだった。


 亞倫は凡スと艾琳と扎卡を連れて船室へ向かう。


 あたしも続こうとした。


 その老人が口を開く。


「お前が珂拉か。」


 まだ少し距離があるのに、声は耳元で鳴った。


 大きくない。


 でも逃げられない。


 体が勝手にそっちへ歩いていた。


 卓の前まで来た時には、尾が脚へぴたりと貼りついている。


 老人はまだ目を閉じたままだった。


 杯を持ち上げ、香りを嗅いでから、一口飲む。


「話は聞いた。」


 杯を卓へ戻した。


「珊瑚を殺したのは我らだと、そう言ったそうだな。」


 そこで目を開く。


「そうか?」


 その瞬間、海が丸ごと落ちてきた。


 風が聞こえない。


 凡スを運ぶ水夫の足音も聞こえない。


 甲板の焦油も魚臭さも、匂わない。


 あの圧は、屋身蟹(やどみがに)が起き上がった時よりも重かった。


 口を開けば、そのまま喉へ海水を流し込まれそうな重さだ。


 膝が甲板へぶつかる。


 あたしは跪いた。


 跪きたかったわけじゃない。


 体が保たなかった。


 頭を下げたまま、見上げられない。


 さっきまで酒を飲んでいた老人は消えていた。


 卓の向こうにいるのは、牙を持った深海そのものだ。


 時間が長く伸びる。


 数呼吸かもしれない。


 もっとかもしれない。


「托加爾。」


 後ろから、亞倫の声。


 あたしへ圧し掛かっていた海が、ふっと引いた。


 ようやく空気が肺へ戻ってくる。


 甲板へ手をつき、一つ咳き込んだ。


 老人はまた杯を持つ。


「冗談だ、小娘。」


 こっちを見る。


「気にしていないだろう?」


 ものすごく気にする。


 かなり気にする。


 でも、まだ口がうまく動かない。


 托加爾はもう一つの杯を、向かいへ少し押した。


「亞倫が、なぜお前を信じるのか知りたかっただけだ。」


「傷がある。」


 亞倫が言う。


 三文字。


 托加爾はそちらへ一瞥をくれた。


「死んではいない。」


「亞倫、座れ。」


 亞倫は座らなかった。


 先にあたしのそばへしゃがみ込み、肩へ手を置く。


 視線が手の甲の火傷をなぞり、それから脚の、毛皮が溶けたところへ落ちた。


「動けるか。」


 頷く。


「動く。」


 亞倫は一息ぶん、あたしを見た。


 あたしまで「痛くない」みたいな馬鹿を言い出していないか、測ってるみたいに。


 最後に、手を貸して立たせる。


 托加爾が指の関節で卓を軽く叩いた。


「座れ。」


「こいつの話を聞く。」


 あたしは卓の脇へ座る。


 亞倫は托加爾の向かいへ腰を下ろした。


 托加爾が酒を注ぐ。


 亞倫は杯を取って、そのまま飲む。


 あまりに自然だった。この卓がたまたま餘暉号(よきごう)へ持ち込まれたんじゃなく、五十年前から二人で囲んでいたみたいに。


 あたしは二人を見た。


 それから、白礁(はくしょう)の話を始めた。


 黒泥。


 屋身蟹(やどみがに)


 窪みの底の幼珊瑚。


 萊克斯。


 浅水へ潜んでいた、あの黒暗生物(こくあんせいぶつ)


 手を失った凡ス。


 目を失った艾琳。


 脚を失った奧布里。


 そして、飢えすぎて同類まで食い始めた嗜土怪(しどかい)たち。


 水潭の話へ来た頃には、托加爾はもう酒を飲んでいなかった。


 一本の指で、杯をゆっくり回しているだけだ。


 あたしは、水の下で見た幼珊瑚と、死灰と、動かない水を全部話した。


 最後には、甲板には波が船腹を打つ音しか残らない。


「なるほどな。」


 托加爾がまた杯を持ち上げる。


「では封を解けば、珊瑚は戻るのか。」


「戻る。」


 あたしは即座に答えた。


 托加爾が目を向ける。


 あたしは付け足した。


「でも、時間はかかる。」


「どれくらいだ。」


 少し考える。


「分からない。」


 眉がわずかに上がる。


 膝の上で手を握った。


「幼珊瑚はまだ生きてる。水がまた流れて、死灰が運ばれて、屋身蟹(やどみがに)嗜土怪(しどかい)も、本来やるはずだったことに戻れれば、育つ機会はある。」


 一拍置く。


「でも、珊瑚には時間がいる。」


 托加爾は杯の酒を見る。


「お前が間違っていないといいな。」


 目を上げた。


「でなければ、お前を探す。」


 心臓が一段、沈む。


 亞倫が杯を置いた。


「托加爾。」


 その肩へ手を置く。


 なんでもない仕草みたいに。


 托加爾はその手を見、それから亞倫を見る。


「はいはい。」


 杯を飲み干した。


「相変わらず、お前は身内に甘い。」


 亞倫は手を引く。


「こいつは本当のことを言った。」


 托加爾が鼻を鳴らした。


「亞倫が信じるから、私は聞く気になった。」


 あたしは眉をひそめる。


 二人は妙に親しい。


 亞倫が海靈の首領の肩へ普通に触れられるくらいに。


 托加爾が面倒くさそうな顔をしているのに、それでも酒を注ぎ直すくらいに。


 あたしの顔を読んだのか、亞倫が言った。


「五十年くらい前。」


 杯を見ながら。


「ここを通った時、海が少し荒れていた。」


 托加爾がその先を継ぐ。


繁茂仙境(はんもせんきょう)だ。」


 鋭い爪で卓を軽く叩く。


「元は、命が最も濃く満ちた聖地だった。樹精は深く根を張り、獣は増え、土へ落ちた種ひとつでも一夜で花を開いた。」


 眼差しが沈む。


「そこへ黒暗生物(こくあんせいぶつ)が入った。」


「それで?」


 あたしが訊く。


「その島は、食い始めた。」


 托加爾の言い方は静かだった。


 なのに、背の毛が一本ずつ逆立つ。


「蔓は船を曳くことを覚えた。根は海底へ潜り、通り道の魚群を吸い尽くした。島の生き物は、自分のものじゃない口を生やし始めた。」


 一度、言葉を切る。


「最後には、島そのものが動いた。」


「動く島?」


 聞き返す。


「巨大な群礁へ向かってな。」


 托加爾が酒を口へ運ぶ。


「あの時、海靈は七日間続けて守った。断ち切った蔓は、今の白礁(はくしょう)より多い。だが無意味だった。切れば切るほど、速く増えた。」


 首を傾け、亞倫を見る。


「そこで役に立ったのが、こいつだ。」


 托加爾は亞倫の肩へ手を置き、二度ほど強く叩いた。


 亞倫の酒が少し揺れて、卓へこぼれる。


 その滴を見て、亞倫が言う。


「少しは加減しろ。」


「お前は割れん。」


「酒は割れる。」


 托加爾が低く笑った。


 胸の底から転がる、洞へ波がぶつかるみたいな笑いだ。


 でも、あたしは笑えない。


 白礁(はくしょう)で遭った黒暗生物(こくあんせいぶつ)は、拳ほどの大きさしかなかった。


 危険だった。


 でも、海靈の一族全体を震えさせるほどには見えない。


 たぶんそれを顔に出したんだろう。


 托加爾が言う。


「お前たちが殺したあれは、まだ汚染を植えつける前だっただけだ。」


「植えつける?」


 あたしが問う。


「寄生だ。」


 酒を一口飲む。


「あれそのものが、最悪の黒暗生物(こくあんせいぶつ)ではない。」


 杯の縁が、顔の半分を隠した。


「厄介なのは、あれが残していくものだ。」


「群れの中へ潜り込む。」


「食うべきでないものを食わせる。噛むべきでないものを噛ませる。憎むべきでないものまで憎ませる。」


 嗜土怪(しどかい)の下に並んでいた尖った歯を思い出す。


 同類を食っていた時の、あのさりさりした音も。


 黒泥の中に座っていた、人みたいな影も。


 あたしたちは、最悪のものそのものは見ていない。


 それでも萊克斯は死んだ。


 凡スは手を失った。


 艾琳は目を失った。


 奧布里も脚を失った。


 托加爾は酒を飲み切り、気持ちよさそうに息を吐く。


 その横で、亞倫が補う。


黒暗生物(こくあんせいぶつ)は一種類じゃない。」


 あたしを見る。


「この先も、会う。」


 できれば二度と会いたくない。


「よし。」


 托加爾が杯を卓へ置いた。


「封鎖は解く。海靈が水路を守り、お前たちを海龍王のもとへ送る。」


 亞倫を見る。


「また一つ借りができたな。」


 亞倫は首を振る。


「俺じゃない。」


 そして、その手があたしの頭へ乗った。


「こいつだ。」


 托加爾があたしを見る。


「珂拉。」


 名前をゆっくり口にする。


「覚えたぞ、小猫。」


 あたしは亞倫の手を払い落とした。


「頭を触るな。」


 亞倫は手を引っ込める。


 托加爾があたしたちを見て、少しだけ口元を上げた。


「気性も似ている。」


 誰に似てるのかは、聞かないことにした。


---


 餘暉号(よきごう)は、再び動き出した。


 海靈の衛兵たちが船の左右へ散り、灰青の背鰭がときおり水面を裂く。


 白礁(はくしょう)の封鎖は、もう解かれ始めていた。


 遠くで、死礁に塞がれていた水道の一つが海靈の手で開かれる。最初は細く海水が滲み込み、それから黒泥を押し流し、大きく白灰を巻き上げた。


 灰は消えない。


 ただ、運ばれていく。


 砕かれて。


 別の場所へ送られていく。


 あたしは船尾に立ち、灰白の珊瑚が少しずつ遠ざかっていくのを見ていた。


 まだ白い。


 まだ臭う。


 原因が分かったからって、今日いきなり色を取り戻すわけでもない。


「今の顔、亞倫にそっくり。」


 後ろから、艾琳の声。


 振り返る。


 杖で探ってはいなかった。


 船縁に沿って、迷わずあたしの隣まで来る。月の光が、焦点を失った目の上へ落ちていた。前にあったあの明るさは、もうない。


「どこが。」


 言ってから思い出す。


「っていうか、あんた、あたしの顔見えてないでしょ。」


 艾琳は船縁へ手を置いた。


「分かる。」


「それも分かるの?」


 少し首を傾ける。


「みんな、自分のじゃない傷まで、自分のところへ縫いつけようとしてる。」


 指先が、船縁をきつく掴んだ。


 艾琳は続ける。


「私たちがあなたについていったのは、私たちの意思。」


 言い方は平らだった。


 慰めじゃない。


 あたしがどうしても受け取らないものを、もう一度、手の中へ戻してくるみたいな言い方だった。


「うん。」


 そう答えた。


 その「うん」が何を受けたのか、自分でも少し曖昧だ。


 誰かの分まで勝手に選ばない、ってことかもしれない。


 次は、少しだけ後ろも見る、ってことかもしれない。


 月光が艾琳の頬に落ちている。


 口元は少しだけ緩んでいた。


 嬉しいわけじゃない。


 でも、もう無理に平気な顔をしようとはしていなかった。


 あたしは不意に手を伸ばし、艾琳を抱きしめた。


 体が一瞬だけ強張る。


「珂拉?」


 何も言わない。


 あいつはたぶん、まだよく分かっていない。


 それでも、腕を上げて、あたしを抱き返した。


 海風が甲板を抜ける。


 餘暉号(よきごう)白礁(はくしょう)を離れていった。


 あたしたちは、試練を越えた。

お読みいただきありがとうございます。ここまでの道のりは、本当に楽なものではありませんでした。


書き終えてから気づいたのですが、私はこの隊長格の外見をきちんと描写しそびれていました。ですので、ここで少し補足させてください。


海霊たちの下半身は、蛇と魚を混ぜたような形をしています。だから陸に上がることはできますが、海中にいるときほど自在には動けません。


ほかの守衛たちは肩当てや甲冑のような防具を身につけていますが、この隊長だけは違います。彼がまとっているのは、どこか古代ギリシアを思わせる、ゆったりとした白い衣です。


その威圧感だけで珂拉はほとんど身動きが取れなくなってしまいましたが、彼はまだ護衛隊の長にすぎません。もしかすると、この先で海霊たちの本当の大人物に会う日が来るのかもしれませんね。


第十六章『偽りの神の祝福』も、できるだけ早く書き上げて更新していきます。


どうぞお楽しみに。

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