表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
90/98

15-8 海は動かない

真相?


まあまあ、皆さん、そう焦らずに。


その前に、まずは傷と、このどうしようもない状況を片づけなければなりません。

 嗜土怪(しどかい)が全部倒れたあとも、あたしたちはすぐ先へは行かなかった。


 急がなくていいからじゃない。


 体の方が、もう命令を聞いてくれなかった。


 あたしは死礁の脇へ腰を下ろし、ズボンの裾を少し裂いて、自分のふくらはぎを見た。


 嗜土怪(しどかい)の肢腕が擦ったところは、毛ごと一枚溶けていた。露出した皮膚はつやつや赤く、縁には灰黒い液がまだ貼りついている。手の甲も焼け、細かい水ぶくれがいくつか膨らみ始めていた。


 袋から傷薬を引っぱり出す。


 薬粉が触れた瞬間、痛みが一気に跳ね上がった。


 奥歯を噛む。


 叫ばない。


 少なくとも、声には出さない。


 扎卡が横から見下ろしていた。


「痛いなら叫べ。」


「痛くない。」


 言ったあとで、自分でも馬鹿だと思った。


 扎卡は突っ込まない。


 ただ刀の粘液を黙って拭っていた。


 布を巻こうとした、その時。


 腰の水珠が、ふいに揺れた。


 はっきりと。


 歩いた弾みの揺れとは違う。


 どこかへ貼りつこうとしている。


 手を止めた。


 水珠は、白礁(はくしょう)の奥を向いていない。


 脇に転がっている嗜土怪(しどかい)の死体へ、ぴたりと寄っていた。


 あたしはそれを見る。


 今度は、先へ進めと急かしている感じじゃなかった。


 見ろ、と言っている。


「待って。」


 布はとりあえず傷へ押し当てたまま、立ち上がる。


 ふくらはぎがすぐ痛んだ。


 危うく悪態が出かけた。


 ぎりぎりで飲み込む。


 海靈の衛兵は、もう嗜土怪(しどかい)のそばへ行っていた。二叉戟で一匹の肢腕を持ち上げ、裏側をひっくり返す。


 顔が、さらに険しくなる。


「この牙、大きくなりすぎている。」


 近寄って見る。


 裏の口は、びっしりだった。


 ただ多いんじゃない。


 育ちすぎている。


 本来なら土を削り、泥を呑むだけの小さな口が、肉を裂くための尖った歯の列になっていた。根元は押し合い、何本も歪んで、隣の肉へ自分で突き刺さっている。


 腹を空かせた小さな口が、無理やり体の中からせり出してきたみたいだった。


 衛兵が二叉戟の先で突く。


 死んでいるのに、口がまだぴくりと動く。


「こんなのは、土を食うためのものじゃない。」


 扎卡が別の死体のそばへしゃがみ、左手を地面へつける。


「さっき、多くはあっちから出た。」


 指した先には、はっきり窪んだ低地があった。


 水が溜まっている。


 小さな水潭みたいに。


 腰の水珠が、また揺れた。


 今度は、こいつに急かされるまでもない。


 あたしたちは、その水潭へ近づいた。


 縁まで行く前に、吐きそうになる。


 水面には黒い死灰と白い珊瑚の粉が浮いていた。長いこと腐らせた堆肥を水へ浸けたみたいだった。風が吹くと、表面の黒い膜がしわを寄せ、またべたりと戻る。固まりかけた油みたいに厚い。


 臭いは鼻へ入ってくるんじゃない。


 丸ごと押しつけてくる。


 顔に。


 喉に。


 胃までひっくり返すように。


 扎卡が鼻をしかめた。


「この臭いはおかしい。」


 獣人の口からそれが出る時は、本当にひどい。


 凡スは脇の死礁へ腰を下ろした。


 座る動作がひどく遅い。体の中に残っている力が、動くたびに少しずつ零れていくみたいだった。唇は色を失い、右手は断たれた腕の脇を押さえている。


 艾琳がすぐそちらを向く。


「凡ス?」


「まだ起きてる。」


 声は低い。


 艾琳が手探りでそっちへ向かい、扎卡も振り向いた。


 でも、あたしはまだ水潭を見ていた。


 答えはここにある。


 どうしてそう思うのか、自分でも分からない。


 水珠のせいかもしれない。


 嗜土怪(しどかい)のせいかもしれない。


 それとも、この水が平らすぎるせいかもしれない。


 口を塞がれたままの誰かみたいに、静かすぎる。


 今ここで引き返したら、萊克斯も、凡スの手も、艾琳の目も、奧布里の脚も、あたしたちがここへ置いてきた全部も、ただ無駄になる。


「すぐ戻る。」


 扎卡が勢いよく振り向く。


「珂拉。」


 もう水へ入っていた。


 一歩目で、足首まで。


 冷たい黒水が傷へ貼りつき、危うく膝が折れかける。


 二歩目を踏む前に、地面が消えた。


 足の裏が空になる。


 そのまま沈んだ。


 何か掴もうとして伸ばした手には、黒泥しか入らない。指の間からするりと逃げていく。誰にも掴まれたくないみたいに。


 水が胸を越える。


 口を越える。


 頭の上まで来る。


 上に満ちていた腐臭は、水の膜の向こうへ切り離された。


 世界が急に静かになる。


 底は浅いと思っていた。


 でも違う。


 水潭の下は、見た目よりずっと大きい。


 白礁(はくしょう)に蓋をされた暗井みたいだった。


 姿勢を立て直し、目を開く。


 それで、息を呑んだ。


 下は死んだ白じゃない。


 黒でもない。


 色だらけだった。


 赤。


 青。


 黄。


 紫。


 幼い珊瑚が、水潭の底いっぱいに育っていた。屋身蟹(やどみがに)の窪みの底にあったものより、ずっと大きい。黒泥と白灰のあいだにぎゅうぎゅう押し込まれ、小さな枝を上へ伸ばしている。灰の下へ丸ごと庭を隠したみたいだった。


 胸の奥が熱くなる。


 試練は越えられる。


 ここは全部死んでいたわけじゃない。


 珊瑚は、ちゃんと自分のやり方でまだ生きている。


 肺の空気が尽きかける。


 蹴り上がる。


「げほっ!」


 水潭の縁に手をかけ、大きく息を吸った。


 もう扎卡の手が伸びてきていた。


「下に、生きた珊瑚がある!」


 全員が止まる。


 問いを待たない。


 息を吸い込み、もう一度潜った。


 今度は、もっとよく見る。


 表の輪に近い幼珊瑚の方が、状態はいい。


 色はまだ鮮やかで、枝も硬い。白灰と黒泥のあいだへ、小獣の爪みたいにしがみついている。


 でも、奥へ行くほど色が鈍る。


 内側の珊瑚は、外側より安全というわけじゃない。


 こっちも死にかけている。


 おかしい。


 もしここが生きた珊瑚の隠れ場所なら、奥の方が外の汚れから遠いはずだ。


 なのに、そうなっていない。


 水へ手を触れる。


 平たい。


 平たすぎる。


 流れがない。


 細かな揺れもない。


 珊瑚の粉も、死灰も、黒い粘りも、全部が決まった場所に沈んだまま、どこへも運ばれていない。


 ここは小さな泥沼だ。


 水が入ってこない。


 出ていかない。


 あたしは表層の白灰を払いのけた。


 その下で、幼い珊瑚がよく育っている。


 白灰は根元へ薄く貼りついていた。


 土みたいに。


 あたしは動きを止めた。


 珊瑚が死んだあとに残るものは、全部が悪いわけじゃないのかもしれない。


 屋身蟹(やどみがに)が削った窪みの底にも、新しい珊瑚は育っていた。


 砕けた白枝も、灰の粉も、骨みたいに磨り減ったものも、本当は何かへ変わるはずなんだ。


 新しいものが生えてくる前の、何かに。


 でも、ここは違う。


 手で水を払う。


 灰がゆっくり散る。


 それで終わる。


 どこへも運ばれない。


 次に少し黒泥を蹴り上げた。


 黒泥も、一度揺れただけで、また元の場所へ沈む。


 水は平らだった。


 死んでるみたいに平らだ。


 顔を上げて、さらに奥を見る。


 奥の珊瑚ほど、色が暗い。


 外の汚れに触れてるからじゃない。


 内側へ閉じ込められているんだ。


 胸が、ゆっくり沈んでいく。


 屋身蟹(やどみがに)


 嗜土怪(しどかい)


 死灰。


 黒泥。


 それに、この動かない水。


 全部が、どこかで一つに絡まっている。


 肺の空気が尽きかける。


 あたしは上へ泳いだ。


 水面を破った途端、腐臭がまた鼻へ飛び込んでくる。縁へ手をかけ、何度か咳き込み、耳の脇を黒水が流れ落ちた。


 扎卡が手を伸ばし、あたしを引き上げる。


「どうだった。」


 すぐには答えなかった。


 まだ考えていたからだ。


 いや。


 考えていたというより、散っていたものが勝手にぶつかって、一つになり始めていた。


 表の珊瑚は、まだ生きている。


 奥の珊瑚は、死にかけている。


 灰は珊瑚を育てる。


 でも、灰は珊瑚を押し潰しもする。


 嗜土怪(しどかい)は、本来、死んだ珊瑚を食う生き物じゃない。


 なのに、屋身蟹(やどみがに)が削った場所では新しいものが生えていた。


 水が動かない。


 何も動かない。


 艾琳が杖へ体重を預けたまま、顔をこっちへ向ける。


「珂拉?」


 あたしは海靈の衛兵を見た。


「ここ、前は水潭じゃなかったでしょ。」


 答えない。


 でも、鰭が小さく動いた。


 ほんの少し。


 それでも、見えた。


 顔の水を拭う。


「前は、水が通ってたんだよね。」


 衛兵の顔が沈む。


「何が言いたい。」


「ここには前、水の道があった。」


 思ったより、声が乾いていた。


「水の通り道。」


 凡スが目を上げる。


 艾琳の指先もかすかに動いた。何かを聞き取ったみたいに。


 海靈の衛兵は二叉戟を握り直す。


「我々は穢れを塞いだだけだ。」


 その一言を聞いた瞬間、逆に頭が静かになった。


 あたしはあの水を見た。


 白灰が浮く。


 黒泥が沈む。


 そのあいだで、小さな珊瑚が挟まれている。


 喉が、急にひどく乾いた。


「でも、あんたたちが塞いだのは穢れだけじゃない。」


 衛兵がこっちを見る。


「陸の魚。黙れ。」


 黙らない。


 水珠が脚へ貼りついていた。


 小石みたいに冷たい。


「水が動かない。」


 誰も言葉を返さない。


「灰も動かない。」


 水の下の色たちを見る。


「死んだものも動かない。」


 最後に、海靈の衛兵を見る。


「生きてるものまで、動けなくなる。」


 耳鰭がいっぱいに開いた。


 この次に何が来るか、分かっていた。


 それでも、言う。


「あんたたちだ。」


 扎卡の耳が動く。


 艾琳が顔を上げる。


 凡スの目も変わった。


 海靈の衛兵は、まっすぐあたしを見る。


「何だと。」


 問いじゃない。


 怒りが限界まで詰め込まれた時の声だった。


 あたしは退かない。


「あんたたちが、ここを閉じた。」


 一瞬で、二叉戟が飛んでくる。


 足元を掠め、死礁へ深く食い込んだ。


 白い粉が爆ぜる。


 尾が一気に強張った。


 でも退かない。


 足元の二叉戟を一度見る。


 それから、動かないあの水を見る。


「海ごと、閉じ込めたんだ。」

ここまで、本当にいろいろなことがありました。


それなのに、結局は海霊たちが残した厄介ごとの後始末をしているようなものです。


まるで冗談みたいでしょう?


でも、ときどき現実というものは、本当にこういう顔をしているのです。


そして今度は、珂拉が海霊を怒らせてしまいました。いったい彼女は何をしたのでしょうか。


どうぞ第九節「潮の喉」をお楽しみに。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ