15-7 嗜土怪
謎は、ようやく解けかけています。
けれどその前に、私たちはもう一つの遭遇を乗り越えなければならないようです。
あたしたちは、さらに奥へ進んだ。
今度は四人きりだ。
先頭はあたし。
艾琳が半歩後ろをついてくる。手には杖。凡スはその横で、ときどき右手であいつの肘に触れ、前に裂け目があるとか、死んだ礁が盛り上がってるとかを知らせていた。扎卡は一番後ろ。残った荷を背負い、右腕を垂らしたまま、左手だけはずっと刀柄を離さない。
海靈の衛兵は、脇の浅水を並んで進んでいた。
何も言わない。
こっちも言わない。
空気が和らいだからじゃない。
喋るのにも力がいるからだ。
前から吹いてくる白礁の風は、さっきよりずっと腐っていた。歩きながら、どうしても考えてしまう。
珊瑚が死ねば、白くなるはずだ。
じゃあ、あの黒泥は何だ。
腐って残ったものか。
藻か。
何かの病か。
それとも、下で何かがずっと吐き出し続けているのか。
考えるほど、足が速くなる。
後ろから扎卡の声が飛んできて、ようやく自分がだいぶ先へ出ていたことに気づいた。
「薬師、少し落とせ。」
振り返る。
凡スの顔色は、まだ紙みたいに白い。
歩くたび、体がわずかに揺れる。すぐ持ち直すけど、その一歩ごとに先に自分の体と話をつけているみたいだった。艾琳はあたしたちの位置を感じ取れていても、足元の高低までは見えない。さっきも一度踏み外しかけて、杖で支えただけで、声は上げなかった。
扎卡の右腕からも、まだ血が滲んでいる。
急がせすぎた狩りの列を引っ張る、間抜けな新人みたいな気分になった。
戻って、艾琳の腕を支える。
「私は平気。」
「さっき穴に落ちかけた。」
艾琳の顔はこっちを向いているのに、目はあたしの肩の横へ落ちていた。
「地面が少し悪いだけ。」
少し間を置いて、付け足す。
「地面が少し悪い以外は、視力がなくても私にはそこまで困らない。」
もし本当にそうなら。
そんな意地張った顔、しないでよ。
ほんの一瞬だったけど。
あいつ、そういうのを隠すのが本当に下手だ。
口には出さない。
ただ、手を自分の腕にちゃんと乗せ直してやる。
「じゃあ、今日は地面がかなり悪いってことで。」
艾琳が、少しだけ笑った。
短い。
火の粉が湿った薪へ落ちて、すぐ消えるみたいな笑いだった。
進むほど、白礁は低くなっていく。
地形そのものが、中心へ向かって沈んでいるみたいだった。
浅水が増える。
黒泥も増える。
足首までしかない場所もあれば、底が見えないところもある。水面は不気味なくらい平らだった。魚もいない。蟹もいない。いて当然の気配が、何一つない。
あたしは足を止めた。
そろそろだ。
誰かに言われたわけじゃない。
鼻だ。
足裏だ。
白礁じゅうが静かすぎて、風まで息を止めてるみたいな、この感じだ。
匂いが、さらに重くなる。
ただの腐臭じゃない。
何かが長く浸かりすぎて、別のものになりかけている匂いだ。
脇の少し高い死礁を指す。
「みんなは先に、あそこ。」
凡スがあたしを見る。
指先が少しだけ動いた。
止めたかったんだと思う。
でも結局、何も言わなかった。
扎卡が言う。
「遠くへ行くな。」
頷く。
「道を見るだけ。」
ずいぶん本当っぽく聞こえた。
自分でも、少し信じそうになったくらいに。
あたしは浅水の縁を伝って前へ出た。
足元の黒泥はひどく滑る。踏むと左右へ押しのけられ、またゆっくり戻ってくる。水面には細かい白い粉が浮いていた。骨灰を墨へ撒いたみたいに。
十歩か、十五歩先で、何かが動いた。
最初は遅い。
瘤だらけの死んだ皮が海底へ貼りついて、そのまま少しずつ前へずれてくるみたいだった。
ここは、動くものが少なすぎる。
だから逆に、目立つ。
あたしは止まった。
そいつも、一瞬止まる。
次の瞬間、まっすぐこっちへ寄ってきた。
半歩下がる。
「何かいる。」
その瞬間、後ろから扎卡の声が弾けた。
「走れ、珂拉!」
振り向いた時には、もう目の前まで来ていた。
さっきの遅さは嘘だった。
いや、狩りを始める前だけ、ああいう形になるんだ。
足が頭より先に動く。
低く沈んで横へ弾けた。肩が折れた珊瑚すれすれを掠める。背後で、湿った肉が礁へ叩きつく音がした。ぱん、と鳴って、そのあとの粘った音が歯の根にくる。
死礁を一つ飛び越え、距離を開いてから、ようやくそいつの全体が見えた。
海底の星形生物に似ている。
でも違う。
三歩はありそうな幅。体は平たくて厚く、五本の肢腕を地面へ引きずっている。なのに動き出すと、地面そのものに貼りついた濡れ肉が滑ってくるみたいに速い。
裏側は口だらけだった。
小さい口。
尖った歯の口。
びっしり。
側面にも正面にも生えていて、全身で噛みに来ているみたいに見える。
皮膚はざらざらした粒で、黒と灰がまだらになっていた。疫にやられて乾いた斑のようだ。
「嗜土怪……?」
浅水の方から、海靈の衛兵の声がした。
初めて、あの声に嘲りが混じっていなかった。
信じられないものを見た時の声だ。
下がりながら訊く。
「何それ!」
「浅海の生き物だ。」衛兵が二叉戟を握り直す。「海底に張りついて、泥砂の屑を食う。温和で、鈍い。これだけ大きければ老いているはずだ。」
そいつを見たまま、吐き捨てる。
「こんな姿になるものじゃない。」
嗜土怪がまた動いた。
今度は、完全にあたしだけを追ってくる。
離したかった。
艾琳と凡スから遠ざけたかった。
でもすぐ分かった。
振り切れない。
そいつは地面すれすれを滑り、肢腕を縮めては伸ばし、人間の走り方なんか馬鹿みたいに見える速さで詰めてくる。口の列が、後ろ脚へ触れそうだった。
酸っぱい匂いがした。
胃液みたいな鋭い酸っぱさじゃない。
腐った海藻と珊瑚の粉を混ぜて、何かをじわじわ溶かしている匂いだ。
あれに足を溶かされたらどうなるかなんて、想像したくもない。
どん、と鈍い音。
海水が嗜土怪の下から炸裂して、そいつを半ば空中へ跳ね上げた。
艾琳だ。
死礁の上に立ち、杖の先を地へ当て、顔をまっすぐ嗜土怪へ向けている。
見えていない。
でも、あの異様な命の塊がどこにあるかは、感じ取れていた。
正確な一撃だった。
同時に、かなり無理もしている。
艾琳の顔色が、また一枚白くなる。杖の先も小さく震えていた。
少しだけ息をつきかけた、その時。
扎卡の後ろの浅水も動いた。
「扎卡!」
一匹じゃない。
何匹もだ。
浅水に溜まった黒泥が、塊ごと持ち上がる。海底へ貼りついていた死んだ皮が、まとめて目を覚ましたみたいだった。
四方から寄ってくる。
計画的なんじゃない。
生きたものの匂いで、全部いっぺんに起きたんだ。
海靈の衛兵の顔が、氷を呑み込んだみたいに険しくなる。
「どうして、こんな数が……」
誰にも訊いている暇はない。
扎卡が左手で刀を振り、艾琳へ飛びかかった一匹を弾き返す。刃がざらついた皮へ食い込み、灰黒い粘液が飛んだ。
凡スは弓を引けない。
短刀を抜き、艾琳の斜め後ろへつく。片腕がないせいで、振り向くたびにいつもより半拍遅い。低く精靈語を唱えると、空気が艾琳の足元で巻き、迫っていた肢腕をわずかに逸らした。
艾琳は水流で、近づく嗜土怪を次々押し返す。
一度目は正確。
二度目は少し遅い。
三度目には、もう呼吸が乱れていた。
あたしはまた走った。
頭の中には、ひとつしかない。
とにかく生きて出る。
その時、足元の死礁が崩れた。
体が丸ごと沈む。
世界が一瞬だけ遅くなる。
前から一匹、嗜土怪が飛びかかってくる。
五本の肢腕が開く。
裏の口が、びっしり見えた。
腐った網を裏返したみたいだ。
終わった。
次の瞬間、風があたしを支えた。
強風じゃない。
ほんの少し、上へ押し上げるだけの風。
遠くで凡スが立っていた。右手で断たれた腕の横を押さえ、顔色はぞっとするほど白い。
弓じゃない。
あいつの得意な戦い方でもない。
でも、効いた。
あたしは穴の縁へぶつかり、そのまま転がって躱す。
それでも少し遅かった。
一本の肢腕が、あたしのふくらはぎを掠めた。
痛みが弾ける。
ちらりと下を見る。
脚の毛が一面、溶けていた。下の皮膚が赤くむき出しになり、縁には細かい白い泡がいくつも浮いている。
止まった。
一瞬だけ。
それで終わり。
また走る。
一匹を回り込んだ先に、もう三匹。
左の一匹が、急に崩れた。
二叉戟が胴の真ん中から抜かれ、灰黒い粘液がどろりと落ちる。
浅水の中に立つ海靈の衛兵は、鰭を張り、深海みたいな冷たい目をしていた。
「走れ、小魚。」
言い方は相変わらず腹が立つ。
でも、助けている。
その瞬間、要点が見えた。
こいつらは見た目ほど無敵じゃない。
速い。
酸も危ない。
けど、脆い。
中心を貫けば、倒れる。
倒せない相手じゃない。
問題は、数。
それと、一度触れられたら一枚持っていかれること。
あたしは逃げるのをやめた。
短刀を抜く。手の甲は、まだ焼けるみたいに痛い。
最も近い嗜土怪が跳ねた。裏側の口がいっせいに開き、小さな歯が黒泥の中でぬらりと光る。
低く沈む。
左右の肢腕を躱す。
両手で短刀を握り、口の最も密な中心へ突っ込んだ。
痛いのは、こっちだ。
灰黒い粘液と酸が手の甲へ飛び散る。
皮膚をそのまま火へ押し込まれたみたいだった。
叫んだ。
それでも手は離さない。
刃を下へ捻る。
嗜土怪は一気に力を失った。五本の肢腕が同時にびくりと引きつる。切られた濡れ縄みたいに。
振り払う。
まだ二匹。
いや、もっといる。
荒い息で、黒泥から這い出てくるやつらを見る。
それから、いま倒した一匹へ目をやった。
近くにいた二匹が、ぴたりと止まる。
追ってこない。
頭を下げ、死んだ同類へ貼りついた。
口がいっせいに開く。
食ってる。
音は小さい。
さり、さり、と湿っていた。
腐った皮へ雨が落ちているみたいな音だ。
それを見た海靈の衛兵の顔色が、さらに悪くなった。
「飢えすぎてる。」
振り返らない。
もう分かった。
一つ。
こいつらは、いちばん速く動く、いちばん新しい匂いのものを追う。
だから引ける。
二つ。
死んだ同類も食う。
なら、死体でも引ける。
気分は最悪だった。
でも生きられる。
あたしは左側の一匹へ突っ込んだ。
そいつは扎卡の背を狙っていた。
脇を掠めながら、わざと大きく水を蹴る。嗜土怪はすぐに向きを変えた。糸で引かれたみたいな速さだ。
正面の飛びかかりを避け、その右を抜けて後ろへ回ろうとする。
でも、下半分は動かないまま、上だけが半回転した。
また口だらけの面がこっちを向く。
最悪。
こいつ、本当の前後がない。
もう酸は浴びたくない。勢いのまま前へ転がる。
転がった先に、別の一匹。
慌てて横へ逃げた。
二匹が正面からぶつかる。
湿った肉がぶつかる音は、鈍くて、粘っていて、気分が悪い。
互いの口が互いを噛み、灰黒い粘液が飛び散った。
その隙に身を抜く。
遠くで扎卡が、左手だけで刀を一匹の中心へ突き刺していた。
そいつは痙攣し、そのまま沈む。
扎卡が顔を上げた。犬歯が見える。
胸の中が、少しだけ軽くなった。
少なくとも、ここで決まりじゃない。
あたしは同類の死体を食っている嗜土怪の背へ飛び乗った。
ざらざらした皮が、足裏を擦る。
逆手に持った短刀を、真下へ刺す。
中心へ。
さらに深く。
そいつが崩れた時、あたしまで黒泥へ滑り込みそうになった。
残った一匹が飛びかかろうとした。
でも先に、たった今倒れた同類へ口を寄せる。
その隙を逃さない。
駆ける。
刺す。
捻る。
離す。
最後の嗜土怪は、浅水の中で力を失った。五本の肢腕がゆっくり広がっていく。壊れた黒灰色の花みたいに。
ようやく、あたりが静かになった。
聞こえるのは自分の荒い息だけだ。
艾琳は杖へもたれ、顔色が透けるほど白い。
凡スは死礁へ寄りかかり、右手をまだ宙へ残している。さっきの風が、完全には散っていないみたいに。
扎卡は刀を嗜土怪から引き抜き、刃についた粘液を振り落とした。
海靈の衛兵は、互いを食い合ってから死んだそれらを見下ろし、鰭をゆっくり閉じていく。
「嗜土怪は、同類を食わない。」
誰も答えない。
あたしは、酸で焼けた手の甲と脚を見る。
痛い。
すごく痛い。
でも、まだ立っている。
白礁では、それだけで十分にいい知らせだった。
本当に息をのむような戦いでした。
毛皮さえ腐食に削られてしまいましたが、それでもこの一行は、まさに風前の灯でありながら生き残りました。何より、誰も倒れずに済んだのです。
白礁の秘密は、いよいよ明かされようとしています。
どうぞ第八節「海は去らない」をお楽しみに。




