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15-6 振り返らない

世界は静かになりました。


けれど、心の中までは、まだ少しも静まっていません。

 黒暗生物(こくあんせいぶつ)が死んだあとも、あたしたちはすぐには動けなかった。


 安全だからじゃない。


 もう誰にも、自分はまだ動けるふりをする力が残っていなかったからだ。


 海靈の衛兵は、二叉戟に刺さったあの黒い塊を裂けた礁の隙間へ振り落とした。黒泥はすぐそれを呑み込み、表面には何の痕跡も残らない。


 あたしはそこを数呼吸ぶん見つめた。


 それから視線を落とし、また傷口を調べ始める。


 凡スの血は止まっていた。


 少なくとも、今は。


 左腕は布で何重にも巻き締められ、薬粉と血が混ざって暗赤色の硬い塊になっている。彼は一言も発しない。でも、体はずっと震えていた。普通の寒さじゃない。血が出すぎて、体の火が少しずつ消えていく時の冷え方だ。


 艾琳の目には外傷がない。


 血もない。


 皮膚も切れていない。


 それでも見えていない。


 彼女は杖を握ったまま、指先で杖身の刻みを何度もなぞっていた。その溝を正確に追えれば、目の前の黒が少しだけ退くかもしれないとでも思うみたいに。


 奧布里は、一番血を失っていた。


 顔は白礁(はくしょう)に染められたみたいに白い。唇は乾き、呼吸は浅い。里克は自分の腰帯まで外して傷口を圧迫し、手を一度も離していなかった。


 扎卡の右腕の古傷も、また開いていた。


 布の下から新しい血が滲む。左手も血だらけだ。乾いたのと、まだ濡れているのとが混じり、指の節には黒泥まで詰まっていた。


 里克はまだ歩ける。


 でも、いきなり何年も老けたみたいだった。背は丸まり、肩も落ちている。手だけが、まだ頑固に奧布里の傷を押さえ続けていた。


 あたしたちは小さな火を起こした。


 とても小さい火だった。


 薪がないんじゃない。


 海気を吸って湿った木は燃えにくく、投げ込んだ萊克斯の柴も半分しか使わなかっただけだ。


 湿った木が焼けるたび、細い白煙が立ち、火の中で小さく弾ける。


 ぱち。


 ぱち。


 遠くで誰かが細い骨を折っているみたいな音だった。


 あたしたちは火を囲んで座った。


 話し合う形だけはできていた。


 でも、最初は誰一人喋れない。


 最初に口を開いたのは、奧布里だった。


「無理だ。」


 声はひどく掠れている。


 火を見つめたまま言った。誰かの顔を見れば、それだけで残った力まで抜けると分かっているみたいに。


「戻るしかねえ。」


 誰も反論しない。


 それが逆に、その言葉をもっと重くした。


 奧布里が手を上げ、白礁(はくしょう)の奥を指した。


 指先はひどく震えていた。


「この先に進んで、今度は何を払う?」


 視線が凡スへ向く。


 次に艾琳。


 最後に、あたし。


「萊克斯はもう払った。」


 火がその目に揺れる。


「まだ足りねえのか?」


 誰も答えられなかった。


 間違っていないからだ。


 正しすぎるから、返す言葉がない。


 その時、扎卡が口を開いた。


「ああ。」


 あたしは彼を見た。


 扎卡は全員をゆっくり見回し、最後に奧布里で止めた。


「戻る。」


 二文字だけ。


 でも重かった。


 扎卡の口から「戻る」が出ると、それはもう臆病には聞こえない。


 あいつは死を怖がっているんじゃない。


 死がどういうものか知っている。


 ここから先に進めば、生き残れるやつまでまとめて沈むと知っているだけだ。


 艾琳が杖を握り直した。


 顔はちゃんとこっちを向いている。


 正確すぎて、一瞬だけ忘れそうになる。彼女が何も見えていないことを。


「私は平気。」


 そう言った。


 凡スの右手が、ほんの少しだけ動く。


 そのかすかな音を聞き取ったのか、艾琳の顔がわずかに彼の方へ向いた。


「見えなくても、私には感——」


「見えてないだろ。」


 奧布里の声が、火のそばの沈黙を引き裂いた。


 艾琳が止まる。


 奧布里は片腕で少し体を起こそうとした。うまくいかない。顔色だけがさらに白くなる。


「俺たちがどこにいるか、感じられるんだろ?」


 艾琳は黙ったままだ。


「じゃあ、今どれだけ残ってるかも感じろよ。」


 火の音まで低くなった気がした。


 艾琳はゆっくり凡スの方へ向き直る。


 本当に、正確に。


 感じられてはいる。


 でも、それを受け止める方法までは分からない。


「ごめんなさい。」


 小さな声だった。


 凡スはすぐには返さない。


 火の前に座り、右手を膝に置いたまま、一度だけ横の杖へ手を伸ばした。


 それを艾琳の方へ押しやる。


 杖の先が艾琳の靴へ当たった。


 彼女は俯く。


 見えてはいない。


 それでも手を伸ばし、もう一度、杖を掴み直した。


 あたしはその会話を聞きながら、袋の中身を数えていた。


 薬草。


 水。


 乾糧。


 縄。


 小刀。


 水珠。


 朝よりずっと減っている。


 人も同じだ。


 水珠に触れる。冷たいままだった。


 動かない。


 どこにも寄らない。


 ただの、冷えた石みたいだった。


 不思議なことに、思ったほど怖くなかった。


 いや、怖い。


 背毛はまだ全部寝ていないし、尾の付け根も痛いほど強張っている。


 ただ、怖がっても意味がないのだ。


 誰も戻ってこない。


 答えも出ない。


 火を見る。


「みんなは戻って。」


 全員がこっちを見る。


 艾琳も顔を上げた。視線そのものは、あたしのところへ落ちていないのに。


 あたしは袋の口を締める。


「奧布里を船へ連れて帰って。」


 奧布里の顔が曇った。


「凡スも。」


 凡スの目つきが冷たくなる。


 そっちは見ない。


「艾琳も。」


 艾琳の指がきゅっと杖を握る。


 一呼吸おいて。


「あたしは残る。」


 口に出してしまうと、少しだけ軽くなった。


 正しいからじゃない。


 ずっと腹の底に溜まっていたものを、ようやく吐き出しただけだ。


 奧布里が乾いた笑いを漏らす。


「そんなに死にたいなら、好きにしろ。」


「死にたいわけじゃない。」


 あたしは彼を見る。


「だから、みんなは戻るの。」


 少しだけ、彼の顔が止まった。


 あたしは残った薬草を半分に分け、里克の手へ押し込んだ。


「見たものを船まで持って帰って。」


 水袋も押しやる。


「それから、まだ助かる人たちも。」


 奧布里は黙ってあたしを睨んでいた。


 たぶん、怒鳴りたかったんだと思う。


 その権利はある。


 だから先に言った。


「あたしまで戻ったら、萊克斯はここで死んだだけになる。」


 火が湿った枝を噛んで、鈍く弾けた。


 あたしはその火を見る。


「みんなが落としたものも、ここに埋まるだけになる。」


 誰もすぐには言い返さない。


 あたしは小刀を腰へ戻した。


「一緒に進めって言ってるんじゃない。」


 顔を上げる。


「生きて帰ってって言ってるの。」


 奧布リの唇が少しだけ動いた。


 でも、結局何も出てこない。


 里克があたしを見た。


 長い目だった。


 罵りもしない。


 説得もしない。


 最後にただ、俯いて、奧布里の腕を自分の肩へ回した。


 奧布里が一度だけ肩を振る。


 力は弱かった。


 怒っているというより、誰かに支えられるのを受け入れたくないだけみたいだった。


 扎卡が立ち上がる。


 何か言うのかと思った。


 でも、そうじゃない。


 浅水の方へ行き、海靈の衛兵を見た。


 衛兵は冷たくこちらを見返す。


 少しして、二叉戟を水へ差し込んだ。


 鋭く低い音が、水の下から広がる。


 大きな音じゃないのに、歯の根が軋む。水面が輪になって震え、黒泥までわずかに揺れた。


 しばらくして、二人の海靈が水の下から浮かび上がる。


 あたしたちの様子を見た途端、顔が変わった。


 海靈の衛兵は説明しない。


 ただ、里克と奧布里を指す。


「船へ戻せ。」


 片方の海靈があたしを見、それから地面の血痕を見た。


「他は?」


 あたしが答える前に、扎卡が言う。


「こいつは残る。」


 もう一人の海靈は奧布里の傷を見て、鰓脇の鰭を少し縮めた。


 衛兵が、冷たく付け足す。


「途中で死なれると厄介だ。」


 奧布里は言い返さなかった。


 ただ屈み込み、血だまりの横に落ちていた折れた刀柄を探る。


 二度ほど指先が空を切って、やっと触れた。


 萊克斯の折れた刀柄を胸元へ押し込み、強く押さえる。


 里克が彼を支えて立たせた。


 去る前に、里克があたしを見た。


「黒泥を削るな。」


 あたしは少し眉を寄せた。


「え?」


 里克は一度咳いた。


 喉は灰に削られたままの音だ。


「あれは戻ってくる。」


 彼は白礁(はくしょう)の奥を見た。


「なんで戻ってくるのかを探せ。」


 それだけ言って、もうあたしを見なかった。


 二人の海靈が、里克と奧布里を左右から支え、やや深い水路へ連れていく。


 奧布里は振り返らなかった。


 里克もだ。


 その姿はすぐに白礁(はくしょう)と薄霧の中へ溶け、残ったのはかすかな水音だけだった。


 あたしは艾琳の方を向く。


「あんたは——」


「私も行く。」


 先に言われた。


 あたしは眉をひそめる。


「見えてないのに。」


 艾琳は杖を握り直した。


「だからこそ、何だったのか知りたい。」


 口を開いたけれど、言葉が出ない。


 すごく艾琳らしかった。


 勇敢だからじゃない。


 意地を張っているんでもない。


 答えが見えないままにされることへ、本気で耐えられないだけだ。


 あたしは歩み寄り、彼女を支えて立たせた。


 腕へ置かれた指先は冷たかった。でも力は残っている。


「じゃあ、ちゃんと後ろに下がること。」


 艾琳は頷いた。


「葉っぱみたいに隠れるよう努力する。」


 葉っぱって、そんなにうまく隠れないんだけど。


 でも口には出さない。


 次に、凡スを見る。


 正直、一番戻したいのはこいつだった。


 左手を失った。


 弓手だ。


 重すぎて、その先を勝手に想像するのが怖い。


 でも凡スの方が先に言った。


「俺は残る。」


 あたしは彼の左腕を見た。


 凡スもちらりと下を見た。


 ほんの一瞬だけ。


 痛みを確認しただけみたいに。


 そして顔を上げる。


「今戻ったら。」


 声は低い。


「俺は一生、自分の手が何のために消えたのか知らないままになる。」


 一拍。


「認めない。」


 凡スは右手で礁を押し、ゆっくり立ち上がった。


 少し揺れた。


 でも立った。


「魔法は多少使える。」


 彼は白礁(はくしょう)の奥を見た。


「弓がなくても、星へ返すものはある。」


 半分しか分からない。


 精靈って、ときどきこういう喋り方をする。言葉の半分を遠い夜空に置きっぱなしにするみたいに。


 それでも意味は分かる。


 まだ歩ける。


 だから進む。


 最後に、扎卡を見る。


 何か言う前に、あいつは残った荷をもう背負っていた。


 右腕は垂れたまま。


 左手で刀を掛け直す。


 犬歯を少し見せた。


「さっき戻るって言ったろ。」


 顎で、里克たちが消えた方を示す。


「あれはあいつらの話だ。」


 あたしは黙って見る。


 扎卡は自分の胸を軽く叩いた。


「俺はまだ歩ける。」


 余計な言葉はない。


 約束もしない。


 歩ける。


 だから歩く。


 海靈の衛兵は、残った面子を見た。


 あたし。


 艾琳。


 凡ス。


 扎卡。


 一人の獣人。


 見えない精靈。


 片手を失った精靈。


 まだ右腕から血を滲ませる半獸人。


 彼は笑わなかった。


 「陸の魚」とも言わない。


 それは初めてだった。


 ただ長いこと、こっちを見ていた。


 そして最後に二叉戟を収める。


「奥へ行くぞ。」


 声はまだ冷たい。


 でも、少しだけ何かが削れていた。


 礁にあった尖りを、潮がほんの少し丸くしたみたいに。


「退潮は待たない。」


 出発の前に、最後に一度だけ戻る方を見た。


 里克たちの姿は、もう見えない。


 あるのは白だけだ。


 白礁(はくしょう)


 白い霧。


 白い灰。


 あたしは腰の水珠に触れた。


 やっぱり何も返してこない。


 でも今度は、試練を越えられるかなんて聞かなかった。


 もう選んだあとだったから。


 火は踏み消された。


 白灰がその上へかぶさる。


 煙は一筋も残らない。


 あたしは荷を背負い直し、奥へ向かって歩き出した。


 数歩進んだところで、急に少しだけ分かった気がした。


 どうして、あの人がいつも振り返らないのか。

あの海霊も、ようやくこちらへの態度を少し和らげました。皆のあの有様を見れば、これ以上あそこまで無神経ではいられなかったのでしょう。少なくとも、現実の私はあそこまでの人にはまだ会ったことがありません。


それでも珂拉は、なお前へ進むことを選びます。何かを証明したいからでも、無理をしたいからでもありません。ただ、皆が失ってしまったものを、無駄にしたくなかったのです。


けれど、その先で待っているものは、いったい何なのでしょうか……。


どうぞ第七節「土喰らい」をお楽しみに。

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