15-5 不完全
あの怪物が艾琳に何をしたのか分からない。
急がなければなりません。
「扎卡!」
あたしは叫んだ。
遅い。
扎卡の鉈はもう、浅い水辺に座るあの人型の黒影へ突き込まれていた。
刃先が触れる寸前、そのものは崩れた。
避けたんじゃない。
躱したんでもない。
形そのものがほどけた。水に流された墨みたいに散って、また地面の黒泥へ戻っていく。
扎卡の刃は空を切った。
浅水を叩き割り、黒い水花だけが跳ねる。
次の瞬間、その人型は艾琳の背後にいた。
いや。
現れた、という言い方は違う。
浅い水そのものから生えてきたのだ。
黒泥が、急に自分も人みたいに立てることを思い出したみたいに。
凡スが艾琳の肩を掴み、自分の方へ引き寄せる。
「伏せろ!」
艾琳が半歩押しやられる。
水の中の黒泥が跳ね上がった。
凡スの左手へ絡みつく。
あたしは走った。
扎卡も走った。
どっちも遅い。
凡スは自分の手を見なかった。
肩で艾琳を突き飛ばし、そのままあたしの方へ押しやる。
黒泥が収縮した。
最初に出たのは血だった。
それで、やっと気づく。
凡スの左手が、なくなっていた。
世界が一瞬止まる。
静かになったわけじゃない。
まだ水の音はある。奧布里が吊り上げられた時の、喉の奥から押し出される喘ぎもある。扎卡が着地する鈍い音もある。
でも全部、厚い獣皮越しに聞いているみたいだった。
あたしは凡スへ飛びついた。
頭より体が速い。
傷を押さえる。
布を裂く。
薬粉。
縛る。
さらに縛る。
手が、自分のものじゃないみたいに安定していた。
どれくらいの力で押さえるかも、どこが一番ひどく噴くかも、布をどの位置へ食い込ませれば滑らないかも、全部分かっていた。
安定しているほど、怖かった。
あたしにできるのが、ここまでだって分かっているから。
血は止められる。
手は戻せない。
凡スは叫ばなかった。
顔は白礁みたいに白い。唇から色が消え、額には汗がびっしり浮かんでいる。右手は地面を掴み、指先が黒泥へ食い込んでいた。
最初に口にしたのは、自分の手のことじゃない。
「艾琳。」
あたしは一瞬だけ止まった。
その時、扎卡の声が飛ぶ。
「艾琳!」
少し離れたところに、艾琳が倒れていた。
目は開いている。
血はない。
傷もない。
黒泥に覆われてもいない。
でも、片手を宙へ伸ばし、何度も空を掴んでいた。そこにあるはずの縄を、どうしても掴めないみたいに。
「扎卡。」
声はとても小さかった。
波の音かと思うくらいに。
一度だけ途切れて。
「どうして、何も見えないの?」
凡スの体がびくりと震えた。
立ち上がろうとする。
でも立てない。
あたしが巻いた布の下から、また血が滲み出してくる。白布が少しずつ重く暗く染まった。
「動かないで!」
押さえつけた。
凡スはあたしを見ない。
視線はただ、艾琳のいる方向へ向いていた。
でも艾琳には、彼が見えていない。
一方で、里克はまだ奧布里を助けていた。
奧布里の脚は黒泥に引きずり込まれ、里克は片手で襟を掴んで引き戻し、もう片手で刀を振るっている。刃は黒泥へ食い込み、湿った黒い影をいくつも飛び散らせた。
「離れろ!離れろってんだ!」
枯れた声で怒鳴る。
黒泥に向けてなのか、この海そのものに向けてなのか、自分でも分かっていないみたいだった。
奧布里は礁石を掴み、指の爪を二枚割っていた。血と黒泥が一緒に流れている。
最後に里克が引きずり出したのは、奧布里を丸ごとじゃない。
体だけだった。
脚はついてこなかった。
奧布里はすぐには叫ばなかった。
まず、一度だけ自分の下を見た。
それから叫んだ。
とても短い叫びだった。
喉を掴まれて途中で折られたみたいな声。
あたしの掌の下では、凡スの血がまだ熱い。
扎卡は艾琳のそばへ膝をつき、左手で肩を掴んでいた。次の瞬間にも黒泥にさらわれるんじゃないかと警戒しているみたいに。艾琳の手は彼の手首へ触れ、そのままぎゅっと握った。
奧布里は血を流している。
凡スも血を流している。
艾琳は何も見えない。
全員が、間違った場所にいる。
その時、人型の黒影がまた里克の背後で立ち上がった。
今度は腕がなかった。
頭が裂けていた。
口だけが巨大になっている。
口というより、穴だった。
その黒い穴の影が、里克に覆いかぶさる。
里克はまだ背を向けたままだ。奧布里の傷口を両手で押さえ、低い声で何かを罵っている。
気づいていない。
あたしには見えた。
でも、あたしは凡スのそばだ。
扎卡は艾琳のそば。
奧布里は血を流している。
もう誰も、間に合わない。
助けられない。
本当に、助けられない。
その黒穴が下へ落ちる。
不意に止まった。
次の瞬間、人型の影は崩れた。
あたしたちが散らしたんじゃない。
骨だけ抜かれたみたいに、そのまま黒泥へ潰れ落ちた。
里克がはっと振り返る。顔には灰と汗が張り付いていた。
浅水の向こうに、海靈の衛兵が立っている。
二叉戟は水へ突き立てられていた。
その先に、小さな黒いものが刺さっている。
拳ほどの大きさ。
細い肉刺がびっしり生えた腐肉の塊みたいだった。二叉戟に貫かれてなお蠢き、肉刺は開いたり閉じたりを繰り返して、黒い糸を引きながら水へ戻ろうとしている。
海靈の顔色もよくなかった。
鰓脇の鰭は強く張り、二叉戟を握る指の関節が白い。
彼はあたしたちを一瞥した。
「お前たちが全滅したら、俺が疑われる。」
罵るべきかどうか、一瞬迷った。
ひどく殴りやすいことを言っている。
でも、確かに里克を助けた。
そしてたぶん、あたしたち残り全員も。
海靈の衛兵が二叉戟を少し持ち上げる。
刺さった黒いものは、先端で音もなく痙攣していた。
「黒暗生物だ。」
彼は言う。
「ここにいるはずがない。」
その一言で、手のひらがさらに冷えた。
海靈ですら「ここにいるはずがない」と言うなら、これは白礁の本来のものじゃない。
珊瑚の病でもない。
屋身蟹でもない。
海が勝手に腐って生み出した泥でもない。
もっと奥から来た。
あるいは、何かにここへ閉じ込められている。
でも、考える時間なんてなかった。
凡スの血はまだ滲んでいる。
奧布里も同じだ。
艾琳は黒泥の上に座り込んだまま、目を開け、杖を探して手を泳がせている。
一度空を掴む。
届かない。
もう一度。
それでも見つからない。
扎卡が杖を拾い、彼女の手に押し込んだ。
艾琳はそれを掴んで、ようやく少しだけ肩の力を抜いた。
「大丈夫。」
彼女は言った。
誰も信じなかった。
凡スは礁石にもたれて座っていた。左腕はあたしがきつく巻いたままだ。右手は膝を押さえ、その指が一度ずつ、きつく閉じていく。
弓手にとって、それはただの怪我じゃない。
体の一部を失うことだ。
ずっと立ってきた場所を失うことでもある。
生きてはいる。
でも、そのあとでどうやってまた弓を持つのか、あたしには想像もできなかった。
奧布里はもっと悪い。
里克はそのそばへ膝をつき、両手で傷口を押さえたまま、ずっと罵り続けていた。
「くそったれの海、くそったれの泥、くそったれの引き潮、くそったれの礁。」
声は低い。
誰かを罵ってるというより、自分の手を止めないために言葉を吐いているみたいだった。
奧布里の顔は真っ白だった。唇は震え続けている。胸元はもう空っぽだ。
萊克斯の折れた刀柄が、いつの間にか脇に落ちていた。血と黒泥の境目に寝転がっている。
扎卡は艾琳の横に立っていた。
右腕は傷んだまま。
左手は血だらけだ。
凡スの血。
艾琳の手首の擦り傷の血。
それから奧布里の血。
彼は自分の手を見下ろしていた。
何も言わない。
少し離れた場所で、海靈の衛兵は二叉戟の先にあの黒暗生物を刺したまま、白礁の奥を見ていた。
急かしもしない。
初めてだった。
引き潮のことも。
陸の魚という呼び方も。
何も言わない。
ただ、奥を見ていた。
あたしは自分の手を見下ろす。
指の間から、血がゆっくり落ちる。
さっき、三人の血を止めた。
凡ス。
奧布里。
それから、艾琳の手首についた、黒泥に締め上げられた輪の傷。
でも、誰かを救った気は全然しなかった。
凡スの手は戻らない。
艾琳の目は見えない。
奧布里の脚もない。
生きている。
でも白礁は、それぞれから一つずつ何かを奪っていった。
その時ふいに思った。
これは試練なんかじゃない。
試練なら、まだ越え方があるはずだ。
ここにあるのは死だけだ。
死に方が、ちょっとずつ違うだけで。
しかも息が詰まる。
風が白礁の奥から吹いてくる。
腐臭はさっきより濃かった。
奧布里の脇に落ちた萊克斯の折れた刀柄には、誰も手を伸ばせなかった。
腰の水珠も、まったく反応しない。
温度もない。
声もない。
慰めもない。
あるのは、白礁の奥から吹いてくる腐臭だけだった。
なんということでしょう。タイトルの「不完全」とは、こういう意味だったのですね。
皆さんには申し訳ないのですが、この世界はどうやら最初からずっと、あまりにも不親切です。
ここまで読んでくださった皆さんが、どんなふうに感じたのか、私は本当に知りたいです。驚きでも、悲しみでも、焦りでも、どんな感想でも、この先の物語を書くうえで大きな助けになります。
よければ、ぜひ聞かせてください。
どうぞ第六節「振り返らない」をお楽しみに。




